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幕末期の長州藩主について

幕末期において長州藩は大活躍をします。 しかしなぜか藩主は有名ではありません。 時代劇ドラマでもほとんど出てきません。 この時期活躍した諸侯の藩主は多いのに、長州の藩主のみ無名なのはなぜでしょうか? 黒船が来航してから明治政権樹立まで約15年、長州の藩主は何をしていたのでしょうか? 子供だったとしても大人になっているはずですが。 ぼんくらだったとしても数々の歴史的決断を下しているはずで、もっとクローズアップされてよいはずです。 明治になってからも活躍しなかったのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • neuro
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回答No.3

幕末長州の毛利敬親(たかちか)は「そうせい公」とあだ名され、藩内の派閥である攘夷派でも幕府恭順派でも「そうせい、そうせい。」といって、#2の方の仰るように、特に藩主として積極的に国政に口を挟まなかったようです。薩摩の島津久光とは対照的ですね。高杉晋作や井上聞多(馨)が思う存分大暴れできたのは、この凡庸とした(?)敬親公の人柄によるものだと思いますが。大久保一蔵も薩摩じゃ久光公の顔色伺いが大変だったようですからね。ようするに、偉人かも知れないが、傍目には「つまらない人」に映るので、ドラマでも大した役にはならないのです。官軍だろうと賊軍だろうと自説をもって大暴れした人たちは、良くも悪くもドラマに描きようがあるのですが・・・。 そのうち、敬親公親子の物語を書く人がでてきて、偉人として再認識される日が来るのでしょうか・・・。 でもやっぱり、ドラマ性はないよな・・・。

その他の回答 (3)

  • minyao
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回答No.4

毛利敬親が「そうせい公」と言われていたことは、幕末を舞台とした小説などでも度々描かれています。司馬遼太郎の「世に棲む日々」なんかを読むと、比較的わかると思います。  やっぱり当時は尊王だ、攘夷だ、開国だ、左幕だ、と飛び回っていた人物にスポットが当てられるので、敬親の影が薄いのは当然でしょう。  ただ敬親はその人柄故に、長州の過激派からも保守派からも大切にされていたみたいです。高杉晋作なんか、あれだけいろいろしていながら、上様のことだけは最期まで守ろうとしていたみたいです(ま、高杉は元来いいとこのお坊ちゃんなんで、自分の父親にも弱かったみたいですが)。  歴史的決断は…特に何にもしてないような気がします。とはいっても彼の「そうせい」という言葉が、数々の歴史的事件を生んだんだと思いますけどね。

  • KAMOCHA
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回答No.2

 長州の殿様は、いわゆる「君臨すれども統治せず」なスタイルが伝統だったらしいです。 政治や軍事は家老や親族の集団指導によって実施されていたんだとか。

回答No.1

長州藩主 十四代元徳 もとのり  天保10(1839)~明治29(1896)    徳山藩主広鎮十男。文久2年藩是転換のおり京に在り、攘夷奉勅のため東下。幕閣に勅諚を達す。対州問題に助力し、後見人となって対州防備を薩摩と分担。11月高杉晋作ら横浜外人居留地襲撃計画を防ぐため出馬す。奉勅周旋成就後、京へ上り帰藩した藩主の代わりに滞留。翌年参内し、2月賀茂・石清水行幸を建議し供奉。4月十ヵ条の策を建白し、攘夷期限が決定するや、京都守護の任を吉川経幹に任せ5月帰藩し、下関攘夷を監戦。8月18日の政変により入京を禁じられると進発論を唱え、元治元年諸軍を吉敷郡繁枝松原に閲兵。7月兵を率い京都へと進むが、京の変を聞き退却。8月官位を削られ謹慎を命ぜらる。慶応元年革新派により藩論が討幕に統一され、翌年の四境戦に勝利。10月下関に微行巡視。3年10月朝廷藩主親子の罪許され倒幕の密勅を下され、11月薩藩主と三田尻で会見し倒幕出兵を協議する。翌月官位を復される。明治元年2月参内し、伏見防戦の功を賞せられ、議定を拝命。2年6月敬親と共に賞典禄10万石を賜り、家督を相続。山口藩知事を奉命。常備軍2千人を御親兵とす。3年1月諸隊脱隊暴動を鎮撫。4月鹿児島へ赴き島津父子と会見。4年7月廃藩置県により退任。国葬される。

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