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江戸時代の国と藩への帰属意識:大隅出身の人に質問
- 江戸時代、大隅出身の人たちは薩摩藩の支配下にあったが、自身の帰属意識はどのようなものだったのか疑問に思う。
- 南九州の藩は本来「島津藩」と呼ばれるべきであると考えるが、なぜ「薩摩藩」と呼ばれるのか疑問に思う。
- 岩国出身者は国としては防府の国であるが、長州藩への帰属意識を持っているとのこと。長門藩といわずに長州藩と呼んでいるのはなぜだろうか。
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ウィキで 「薩摩藩」 と入れたら、「江戸時代に薩摩、大隅の二カ国、および (中略) を領有した藩」 と出てきます。いっぽう 「島津藩」 と入れるとヒットしません。 よく似た例で100万石の加賀前田藩を考えてみると、「加賀藩」 と入れたら 「江戸時代に加賀、能登、越中の三カ国を領有した藩」 と出てきます。いっぽう 「前田藩」 と入れるとヒットしません。 ご質問のケースは、前田100万石を加賀藩と呼んだら能登の国の人に失礼だ、というのに近い話になります。 おそらくこの場合の 「薩摩」 あるいは 「加賀」 は、領地というよりは政庁所在地という意味合いに近いのでしょう。 現在だったら中央官庁を霞ヶ関、警視庁を桜田門と呼ぶようなものです。地方に出先機関に失礼だからそう呼ぶなという話はあまり聞きません。 あるいは島津氏、前田氏などは他地域にも分派が存在することがあるので、氏族名で呼ぶと混乱するのかもしれません。
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- szk9998
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そもそも「藩」という概念が江戸時代にはなかったと読んだことがあります。 幕末に至って、天子から授かった公的なものなのだという概念を作り出すために、「藩」を多用するようになったようです。 ですのでそれまでは、島津家家来のように言っていたとこのこと。 (wikiでもそう書いていますね。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9) 帰属意識は薩摩ではなく、島津家の殿様に対するものなのでしょうね。 いずれにせよ、武士階級だけのもので、庶民は住んでいる国が全てだったわけです。 ついでですが、 島津が支配していたのは薩摩、大隅に加え日向の一部もありましたので、薩偶日の3か国支配の殿様と言われていました。 また、岩国は防府の国ではなく、周防(すおう)の国ですね。 ついでに、岩国は江戸時代は長州(萩)の毛利家の完全な家来ではなく、吉川氏が収めていました。 一応、支藩扱いではあったのですが、歴史的にもビミョーな位置づけですね。 幕末も岩国は、ビミョーな役回りでした。 毛利家へ忠誠心がどれくらいあるのかは知りませんが・・・ ちなみに、長州も長門も一緒の意味です。 長門の国の別名が長州なだけです。(信濃→信州みたいなもの) 長州藩の場合は、幕末に藩都を周防の山口に移転したりしていますので、防長2州の一体感はあったのかもしれませんが・・・・ そもそも、いやいや長州の萩に居城を構えることになったわけで、山口への移転は毛利家長年の宿願だったようです。 ですので長州藩のように言われるのは本意だったのかどうか・・・
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ありがとうございます。 藩、が幕末に出来た概念だとは知りませんでした。僕なりに調べて見たいです。 ご紹介のウィキペディアのエージを見て、インドの藩王国との関連もあるなあ、と思った次第。 戦国時代は少なくとも「藩」という概念はなかったんだろうと思います。インドの「藩王国」と江戸時代の藩とはその独立性において大分差があると想像します。その差はどの程度で、どう影響したのか・・ ううん、面白い問題だなあ、と思います。何か謎がさらに深まって、研究の意気込みが更に深まりました。
お礼
ありがとうございます。 確かに、加賀藩に対して、能登の人が帰属意識があるのかどうか、大変興味があります。 県、が出来た時どうだったのか、も興味があります。 明治のことを書いた本を読むと、大隅と日向の一部が一つになって都城県、というのが鹿児島県とは別にあったそうです。そんなことがあるから余計に大隅の人が「自分は薩摩藩の属しているのだ」という意識があるのかどうか、興味があります。 石川県の「石川」とは一体何なのか?加賀でも、金沢でもない、そういう名前に能登の人は「おらが県」という意識があるのか、あるとすればいつからそういう意識を持ったのか、本当の所を知りたいです。