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江戸時代中期から幕末にかけて
徳川将軍の家重から家慶時期、黒船来航以前まだ微妙に幕府の権力があるとき、薩摩藩や長州藩を幕命でとりつぶすとしたら、素直に両藩はしたがっていると思いますか?
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naoki4865 さん、こんばんは。 まず、無理だと思います。長州藩はとりあえず四方を囲む藩があり、幕命を出せば囲めますが、諸藩や幕府も財政負担が大きいため、無理なことはできないでしょう。まして薩摩藩の場合は関ヶ原の後の家康でさえ攻撃するのを断念しました。また、両藩も必死に大奥などのつてを使って存続を図るでしょうね。 詳細は下記のURLを参照ください。 薩摩藩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9 長州藩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9
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- eroero4649
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家重の時期に、実際に幕府は薩摩藩を取り潰そうとしました。幕府は薩摩藩になんと木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を命じたのです。こういった幕府の命令による工事の費用はすべて命じられた藩の持ち出しとなります。当時の薩摩藩は多大な借金で財政が逼迫している状態で、暴れ川の代名詞として知られる木曽川と長良川の治水工事なんて、いったいいくらかかるか想像もつかないし、失敗すればしたで「不行届き」という名目で取り潰すことができます。これは幕府が薩摩藩にしかけた戦争に他なりませんでした。そのため薩摩藩では「かくなるうえは一戦を交えよう」という意見さえ出てくるほどでしたが、薩摩藩はこの難工事を引き受けました。 薩摩藩の苦労は自分たちとは縁もゆかりもない場所の工事をやらされるだけではありませんでした。幕府の役人がやってきてはなにかと横やりを入れて嫌がらせをします。幕府の役人が仕切った現場の堤が壊れることも起きました。もちろん「現場を預かった薩摩藩が悪い」です。作業をする薩摩藩士に対する待遇も幕府から厳しいお達しがありました。食事は一汁一菜しか提供してはならず、家の中にあげることさえ禁じられました。もちろん地元の人々も気は引けますからこっそりお酒を出すこともあったそうです。 そのあまりの現場の過酷さに、病死が33人、なんと51人が「自害」をしました。執拗な幕府の役人のいじめに対する抗議もあったでしょうし、望郷の念にかられて心身の限界に達した人もいたでしょう。薩摩藩は結局この難工事をどうにか成功させ、取り潰しを逃れることができました。江戸時代約200年間における、薩摩藩最大の危機であったと思います。そしてこの工事が終わったとき、薩摩藩の総責任者であった平田靱負も自害したのです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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ありがとうございます。
- dogs_cats
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その時代に倒幕を企てたらという事ですか? その時代にそういう思想が両藩に無いと思うので、忠臣蔵のような失態が無い限り取り潰しなど起こらない無いでしょう。 その時代に長州に吉田松陰は存在しないいから、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋等の倒幕派も存在しないので、取り潰しする理由が存在しません。 薩摩も同様な理由です。 歴史にタラレバは厳禁と言われるでしょう。私も「もし歴史が○○に変わっていたら」等考えない訳ではありませんが、人に質問する事は無いです。
お礼
ありがとうございます。