• ベストアンサー

幕末の志士達自身の思想とは?

長州藩は連合艦隊の攻撃によって攘夷思想から開国思想へ変わりましたが、桂小五郎や高杉晋作自身はそれより以前黒船来航時から開国思想の人物だったのですか? 一方久坂玄瑞はコテコテの攘夷思想だったのですか? また薩摩側の西郷隆盛や大久保利通はいつから開国思想をもったのですか? やはり、黒船来航時からですか? それとも薩英戦争後からですか? 色々とぜひ教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.2

残念ながら志士の多くは「愛国主義者」ではありません。 というのも当時、国民国家の概念を持っていた 志士がそれほど多くなかったからです。 憂国の募る思いはあったでしょうが、 それが具体的な解決策や思想にまで至ってる志士というのは 要するに、我々がよく知る維新の代表的人物に限られます。 また志士の大半は、にわか志士で、運動そのものにも疎く 乱世の到来に浮かれてできたただの不平分子でした。 多くの時代でもそうですが 彼らの多くは時流にながされる流木同然で 受け売り以外には、ろくな思想をもってなかったと考えて間違いないです。 何しろ”世直し”と称して人殺しや強盗をやっていた連中ですからね。 桂小五郎の政治的立場とその変遷はよく知りませんが 高杉俊作は、最初は強硬な”攘夷派”でした。 自ら洋館の焼き討ちを行ったことでも知られますね。 清王朝の悲惨な状況を見た高杉は、 まず防衛本能から西洋列強を撥ね付けようという方向に動きます。 武力によって開国を受け入れ、不平等な条約を結んだのは 侵略の前段階という考えです。 しかし師匠の吉田松陰は、密航を試みたほど 外国の情勢を知ることの重要性をわかっていたので 下関戦争の後は、攘夷・開国論以前に 日本を強国とすることに主眼がいったものと思われます。 要するに列強と対等に渡り合える武力がないと 攘夷は不可能ですし、開国も隷属化につながるわけですから。 富国強兵というスローガンは彼らのものじゃありませんが、 人よりも二歩も三歩も先をいく高杉は、次のことを考えていたと思います。 そのくらい彼は別格ですからね。 久坂玄瑞の尊皇攘夷思想は、 方法論的にやや屈折したところがあると思いますが 要するに日本を強くしたいということなんでしょう。 しかしその中核に天皇家をもってきたところが やや非現実的で観念的なのが彼の失敗でしょう。 まず産業に目をやった佐賀や薩摩のほうが 一見遠回りのようでも近道でした。 西郷隆盛の思想については実は謎が多いです。 彼がかなり極端な尊皇派だということはわかりますが、 攘夷や開国などには明確な立場をあまり表明してません。 彼の主の島津斉彬公が(公武派系)開国派で、 長年の政敵でもある島津久光公は攘夷派で、 この二人のしたで西郷は活動しているものの 最終的に討幕派になったという以外は不明です。 征韓論についてもそうでは、西郷は主張をしないタイプで 何を考えていたのかよくわかりません。 謀略家として評価する人もなかにはいるようですが、 私は政治家というより軍人に分類されるべき人物だと思います。 政治的主張は特にないか、受動的なものと考えます。 大久保利通については、薩英戦争の前後からでしょう。 ただ彼は久光公の寵臣なので、 早くから外国の知識・開国の必要性を 知っていても公言はできない立場にありました。 いろんな意味で苦労人です。

その他の回答 (1)

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.1

私見ですが、この時代の志士のおおくは素朴な愛国主義者ではなかったのではと思います。 現状打破の必要性を人一倍感じていたでしょうがその手段にはかなりの相違がありました。 桂は倒幕から出発して新政府による新政を夢見たようですし、高杉は中国の上海を視察して中国の外国による収奪と悲惨な民度を見て、攘夷というより日本の自衛を考えていたとおもいます。 開国思想への発展は外国の武力を思い知った下関戦争以後のことでしょう。 高杉はそれまでの武士階級による戦争では勝てないと国民戦争のシステムである奇兵隊を創設しました。 十分外国の武力を意識していたと思います。 久坂は勤王派だけで攘夷の意識はなかったのでは。 薩摩は少し事情がことなります。 彼らは藩主島津斉彬が才能を愛し軽輩から取り立て教育したエリート出身です。 藩主自身開明の外国かぶれと言われた人で軍備の改革や産業の育成に彼らを駆使しましたから国際的な視野を備えていた筈です。 しかし西郷は保守的な面がつよく薩摩藩という呪縛から逃れることが出来ませんでした。 大久保は日本改造の意欲に燃えてその為には馬車馬のように突っ走り命をおとしました。 いずれも日本を愛したもので開国はその手段にしか過ぎなかったのです。