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生死を分けたもの(幕末・維新)

小説などを読んでいますと、幕末・維新期(ペリー来航から西南戦争までとします。)には、数多くの、しかも有能な人物が、登場し、活躍しています。 その中には、見解は異なるかも知れませんが、生きていれば、明治政府の中で、活躍したであろう、あるいはもっと活躍して欲しかったにもかかわらず、道半ばで、志を奪われた有能な人物が多くいます。例えば、刑死をした(吉田松陰、江藤新平、島義勇など……)、暗殺された(井伊直弼、坂本龍馬、中岡慎太郎、大村益次郎など……)、戦死をした(西郷隆盛、久坂玄瑞、河井継之助など……)人物です。 一方で、上手く立ち回って???、生き延びた人物も多くいます。例えば、敗軍の将であったにもかかわらず生き残った(徳川慶喜、松平容保、榎本武揚など……)や幕府方であったにもかかわらず生き残った(勝海舟、福沢諭吉など……)、明治政府の中で活躍した(岩倉具視、木戸孝允、大隈重信、板垣退助、大久保利通、伊藤博文、山県有朋、井上馨、西郷従道など……)人物です。 まだまだ、沢山あげられると思いますが、歴史の知識に乏しいので、思い浮かびません。 ふと、疑問に思ったのは、幕末・維新という動乱の時代、「この人物たちの生死を分けたものは一体何だったのだろうか???」という疑問です。もちろん「運」もあったと思いますが、「運が良かった」だけではないように思いました。 もちろん、人物ごとに、立場や性格など、多様すぎるほどに多様だったと思いますので、ひとくくりにして、「こうだ、ああだ」ということにはならないと思いますので、断片的なものでも構いません……いくつかのご回答が得られれば、自分なりに集約して方向が見いだせるかも……とも期待していますし、今後「幕末・維新」に関する小説を読むのに役立つのではないかと姑息なことも考えて、質問させていただいた次第です。特定の人物に注目したものや2人の人物を比較したもの(例えば大隈重信と江藤新平など)でも構いません。歴史に詳しい方、関心を持たれている方のご意見を伺いたいと思い、投稿させていただきました。 「ご意見・お考えを伺いたい」という趣旨ですので、BAは選ばないで締め切ります。それでもよろしければ、忌憚のないご意見・お考えをお寄せいただければ幸いです。

みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.4

確かに明治維新の時期はペリー来航から西南戦争までの間とはなっていますが、ご質問のご趣旨であれば、明治政府樹立直後とそれ以前とに分けて考えられませんと混乱されるかと思います。 徳川慶喜の業績につきましても、将軍職継承権を持ち御三家とされた尾張徳川、紀州徳川両家の戊辰戦争とくに鳥羽伏見の戦いで薩長側に加担して後に華族として延命したことをどう評価するかという問題が出てきてしまいます。 家康が何故に関ヶ原の後に名古屋城という巨大な城郭を造ったのか、ということに関わってきます。 家康の意向に従えば、鳥羽伏見の戦いの後で薩長軍の代表として大阪城受け取り役を務めるなど言語道断ということになります。 会津や長岡のように落城覚悟で本来の使命を果たしていれば明治維新も大分様子が変わっていたでしょう。 時代小説には非常に取り上げにくい人物かと思います。 時代小説では、明治維新の時期にはフランス革命やロシア革命のように全国が戦乱状態であったかのような錯覚を起こしますが、地理的に見ていただいてもお分かりのように戦闘はごく限られた場所で、個々の戦闘も数日程度という極めて短期間でした。 全国に影響が及ぶのはむしろ新政府発足後です。 農民一揆などもこの時期の方が遥かに多いということに御注意下さい。 新政府は治世に当たり経験のある幕府の官僚の協力を積極的にあおいでいました。 統治経験の乏しい外様大名家の下級武士には到底手には負えません。 幕府官僚の実務についての知見を聴取していて膨大な記録を残しています。 結果として旧幕臣がうまく立ち回っていた訳ではありません。 要は藩幕体制が制度疲労を起こして機能不全になっていた時期と明治新政府が立ち上がる時期とに区分しませんとご質問の趣旨にそった回答は難しいかと思います。 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と戊辰戦争とは性格が全く異なるということです。 伊藤博文などは維新の時期には若輩者で使い走り程度でした。 新政府を立ち上げた混乱時期の次の世代の人物です。 吉田松陰などの思想家を挙げられるのであれば佐久間象山、清河八郎、西周なども上げませんと全体像は見えてこないかと思います。 吉田松陰も次々と思想を変えています。 時代小説に取り上げられ易い人物達が関わっていたと言うだけです。 参考 博士論文要旨:「吉田松陰研究序説――幕末維新期における自他認識の ... www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/these_dr.html

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 確かに明治維新の時期はペリー来航から西南戦争までの間とはなっていますが、ご質問のご趣旨であれば、明治政府樹立直後とそれ以前とに分けて考えられませんと混乱されるかと思います。……確かに幕末と明治政府樹立後では、暗殺の理由・原因も異なると思い、調べたのですが、「明治政府樹立」というのがはっきり分かりませんでした。それに「西南戦争まで」という区分も適当かどうか分かりませんでしたが、それ以上に延ばすと、大久保利通も伊藤博文も暗殺されますので、これも私の質問の趣旨が曖昧になってくるように感じました。それにしても、幕末と明治では事情が異なるということですね。 徳川慶喜や尾張徳川、紀州徳川については、いろいろ評価は異なると思いますが、私の評価では0点です。(*^_^*)尾張徳川、紀州徳川両家とも、何故あの位置にあるのかということをすっかり忘れてしまったかのようですし、尾張徳川なんて、たんにお伊勢さんへの参道に過ぎないまでに落ちぶれてしまっています。徳川慶喜にしても、「将軍」ですよね。それが鳥羽伏見の戦いでのあの体たらく、武士の親分にあるまじき行動です。もっとも、旗本連中もほとんどが張り子の虎同然だったということですから、慶喜ばかりを責めるわけにもいかないかも知れませんが、聡明だったという頭脳の使い方を誤ってしまった上に、そもそも武士の親分としての生き方がなっとらんという印象ですね。 NHKの歴史講座でも、某大学教授が、遠慮がちに慶喜を擁護するような発言をしていましたが、なんだろう??徳川家というのは現在でも、隠然たる実力を持っているのだろうか??という後味の悪い印象を受けました。 会津や長岡のように落城覚悟で本来の使命を果たしていれば明治維新も大分様子が変わっていたでしょう。……そうでしょうね。大きな時代の潮流は変えられなかったかも知れませんが、現代日本の姿を肯定するのであれば、そして「風が吹けば桶屋が儲かる」式に考えれば、あるいは慶喜の態度も結果として評価される部分もあるのかも知れませんね。 新政府は治世に当たり経験のある幕府の官僚の協力を積極的にあおいでいました。……そもそも新政府の人材を薩摩と長州で担おうとするところに無理があるように思います。特に長州なんて、有能な人は、ほとんど死んでしまっていたのでは??? 要は藩幕体制が制度疲労を起こして機能不全になっていた時期と明治新政府が立ち上がる時期とに区分しませんとご質問の趣旨にそった回答は難しいかと思います。……このことも念頭に置いて、小説を読み進めていきたいと思います。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11072/34514)
回答No.3

こういう戦争を伴うような「波乱の時代」には、「まるでこの時代のために生まれたかのように登場し、役割を終えるとあっという間に消えていく」という彗星のような人物が必ず現れます。彼らは突然に表舞台に登場すると八面六臂の大活躍を見せますが、役割を終えるとその多くはだいたい誰かによって殺されて死ぬ運命にあります。彼らはいわゆる「非常(常ではない)の人」なので、そういう非常事態には水を得た魚のように大活躍しますが、しかして彼らというのは逆に平和な時代には「いらん騒ぎを起こす迷惑な人物」なのです。 だから波乱の時代が終わり新しい秩序を築く段階になると、彼らの存在はむしろ邪魔になるので彼らはろくでもない死に方をすることが多いのです。人間というのは、壊す役目の人と作る役目の人がいて、壊す人は作ることはできないし、作る人は壊すことはできないのです。 吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎なんてのはそういう人たちです。もし彼らが現代日本の我々の近くにいたら、単なる頭のおかしい社会不適合者で終わるでしょう。ああいう時代だったからこそ彼らの「狂の力」が必要だったのです。しかし明治政府というような新しい秩序が作られるなら、むしろああいう狂の力は邪魔になります。大村益次郎は戊辰戦争のためだけに必要な人物だったのではないかと思うほどですし、200年も続いた江戸幕府の秩序を壊すには吉田松陰や高杉晋作のような「トラブルメーカー」じゃないとできなかったと思います。 明治維新の面白いところは、「殺されたお殿様は一人もいない」ということです。徳川慶喜も松平容保も天寿を全うしています。世界史の視点からすると「旧体制の支配者」は殺さないと収まらないものですが、そうはならないのが日本のガラパゴスなところ。 しかしそれは今も変わらないのです。小渕優子議員のスキャンダルが発覚したとき、地元の人たちはみな口をそろえて「優子ちゃんが可哀想。番頭が悪い」といいました。そもそも父親の小渕恵三氏が首相在任中に倒れて不帰の人となったとき、地元の後援会は私は議員をやりたくないという優子氏に「御輿は我々がしっかり担ぐから、ただその上に座っていればいい」と三顧の礼で迎えたというので、地元の人たちはみんなそれを知っているんですね。 明治維新も同じで、松平容保の会津藩も「全ては秘書のせい」ということで家老が一人切腹することでお殿様は守られました。河井継之助は中間管理職だったので、一番割の合わない役回りでしたね。「日本の会社を回すのは社長でも取締役でも部長でもなく、課長」を地で行く感じでした。「課長が必死で東奔西走して、責任取らされて地方に飛ばされた」なんてのは実にサラリーマンあるあるですよね。 ところで千葉県木更津に請西藩というたった1万石の小さな藩があったのですが、戊辰戦争で新政府軍が関東に進駐してきたときに、ときの藩主であった林忠崇は自分たちは徳川幕府に忠義を尽くす立場であると周囲の諸藩がみな恭順するのに対してなんと藩主自らが脱藩をして新政府軍と戦うという選択をしました。文武両道に秀でていたそうですし、若干二十歳の若者であったので若い正義感があったのでしょう。 もちろん新政府軍としては許しがたい相手ではあったのですが、なにしろ新政府側も元はといえば武士ですから、「武士は二君にまみえずの武士道を貫いた」わけですから頭ごなしに否定もできない・笑。結局優秀な若者で名君の器であったことは地元では広く知られていたこともあり地元民や元藩士から減刑嘆願運動もあって明治26年に名誉を回復。なんと「最後のお殿様」として昭和(!)16年に92歳で天寿を全うしました。

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「こういう戦争を伴うような「波乱の時代」……彗星のような人物が必ず現れます。」…… うぅ~ん?うぅ~ん?うぅ~ん?確かに、拙い知識をフル回転させながら、戦国史や幕末・維新史を思い浮かべると考えさせられますね。「天の意志」だとか、「運命論」なんてものは信じませんが、「時代のために生まれてきた」とか、むしろ「時代背景が必要としたために、必然的に生まれてきた」というのが分かるような気持ちがします。一種のロマンもありますね。 「壊す人」、「創る人」、それに加えると「育てる人」というような役割でしょうかねぇ。そういえば「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」なんていうのも思い浮かべてしまいました。 「狂の力」が必要だったのです。……(*^_^*)(*^_^*)(*^_^*)「おいおい、いい加減にせんか。おまえらは、いったい何をやっているんだ」というようなところは感じますね。大村益次郎だって、「狂」とまでは言いませんが、常識人からすると「少し変」ですよね。もっとも、大村益次郎にしてみれば、「おまえらのほうがおかしいのではないか?」という気持ちだったのか、あるいはそんなことまでも超越していたのか、という印象は残りました。小説を読んで。 明治維新の面白いところは、「殺されたお殿様は一人もいない」ということです。……このことは、私も、ほとんど疑問は持ちません。ただ、だからこそ、逆に、あの聡明な15代将軍は、何を考えながら、何のためにあのような「みっともない行動……私の個人的な感想」(徳川家に<(_ _)>)に走ったのか???しかも、許しがたいのは……「什の掟」を精神の柱にしていた純粋な少年たちをなんで犠牲にしてまで……という単純な疑問です。 「全ては秘書のせい」ということで家老が一人切腹することでお殿様は守られました。……「秘書が」とか「妻が」とかというのは、当時から偉い人の「言い逃れ必携マニュアル」に入っていたのですね。知りませんでした。最近は、妻の方から「私にも、至らないところが……」なんていうのもありましたね。(*^_^*)……主題からそれてしまいました。<(_ _)> 「課長が必死で東奔西走して、責任取らされて地方に飛ばされた」なんてのは実にサラリーマンあるあるですよね。……「組織」というのはそんなものというか、そうでないと保てないのが「組織」ということかも。河井継之助とは比較するべきもない小生ではありますが、拙い経験からも感じます。 最後の挿話は初めて聞きました。笑うに笑えない「悲劇のような喜劇」なのか「喜劇のような悲劇」なのか??? 若干二十歳の若者であったので若い正義感があったのでしょう。……それもあると思いますが、これは考えさせられますね。乱世とはいいながら、このような「正義感のある若い殿様」を生み出す世界と、現代社会と……私も、自らを考えても恥ずかしいので、これ以上あえて言いませんが、……。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

幕末・維新という動乱の時代、「この人物たちの生死を分けた ものは一体何だったのだろうか???」    ↑ まあ、色々な要因が複雑に関係している のでしょうし、例外もありますが、強引にまとめると、己の 思想や信条などを曲げた人間と 曲げなかった人間の違いではないでしょうか。 吉田松陰、西郷隆盛、河井継之助などは曲げなかった 典型だと思います。 曲げたのが、徳川慶喜、榎本武揚などです。 中国で激動の現代史を生き抜いた鄧小平などは 簡単に曲げる派です。 だから生きのびました。

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 (*^_^*)(*^_^*)強引にまとめていただいたおかげで、本当にわかりやすくて、知識の浅い私にも、納得のいく思いがしました。目が悪くて、「これからどれくらい本が読めるのか」という困った事情もありますが、「龍馬がゆく」を読み始めたところです。「翔ぶが如く」まで、たどりつけるかどうか分かりませんが、ご回答が大きな視点になりそうです。

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3668)
回答No.1

一概には言えませんが 吉田松陰、江藤新平、島義勇、井伊直弼、坂本龍馬、中岡慎太郎、大村益次郎、西郷隆盛、久坂玄瑞、河井継之助といった面々は直接的、かつ積極的に動乱に参加した人達。 吉田松陰は、その名の穏やかさとは無縁の熱血漢。時代を切り開くためには家老暗殺も厭わない実践型人間。 また、坂本竜馬は幕府方から見れば当然に危険人物であり、西郷のように、元来温和を旨とする人物でさえ、自身の意思とは別なところで西南戦争の親分にならざるを得ない状況に陥ってしまう。 井伊直助は、安政の大獄さえしなければ、名君と言われた人物でもあり、あたら命を落とす必要などなかったでしょう。 以下も、同様で何らかの形で意見具申や戦闘もものともしない行動派です。 一方で、徳川慶喜、松平容保、榎本武揚、岩倉具視、木戸孝允、大隈重信、板垣退助、大久保利通、伊藤博文、山県有朋、井上馨、西郷従道などは、総大将を含めて、事務方や連絡係、調停役といった直接的な戦闘には少し遠いインテリのイメージがありますね。 徳川慶喜は幕府方総大将ですが、薩長革新派にとって重要なのは慶喜の命ではないですね。 また、岩倉はお公家さんの割には表立った活躍をしておりますが武闘派とは言えないでしょう。 また、幕府御家人勝は、それこそ調整役であり、江戸城無血開城などの功績もさることながらその路線は、幕臣でありながら、初めから改革派であり、竜馬との関係からも恨みを買い辛い感覚があります。 木戸、大久保、伊藤博文といった面々は、後の政府に不可欠な人材であり、西郷と時代を共にしたとは言え、現場というよりも中枢での指揮官というイメージですね。 最前線に立った者、立たざるを得なかった者は、必然的に命を落としたのではないでしょうか? 現場での行動派が命を落とし、事務室で考えるタイプが生きながらえたのでしょうかね。 また、吉田松陰、井伊直弼、坂本龍馬、西郷隆盛などは、生きながらえた面々と比較して、動乱の中での存在感という意味では群を抜いてます。 否応なしにターゲットとなってしかるべしでしょうね。

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 不慮の死を遂げた人物……「直接的、かつ積極的に動乱に参加した人達(最前線に立った者、立たざるを得なかった者)、「実践型人間」、「相手にとっての危険人物」、「周囲から担がれる人物」、「行動派」といった感じですかねぇ。 生き延びた人物……「戦闘には少し遠いインテリのイメージ」、「中枢での指揮官」、「事務室で考えるタイプ」ということですね。理解できるような気もしますが、少し「褒めすぎ」というのが、私の印象です。 薩長革新派にとって重要なのは慶喜の命ではないですね。……私の質問の方向とは少しずれてしまいましたが、大変興味深いご意見だと思いました。徳川慶喜が、家来を見捨て、大阪を遁走して、ひたすら恭順の態度を示したのは、「命乞い」以外のなにものでもないと、私は考えていました。だから、「慶喜にとってはあの行動しかない、頭の良い、ずる賢い奴だ」と考えていたのですが、「薩長革新派にとって重要なのは慶喜の命ではない」というのは、大変興味深いです。もしかしたら、慶喜は、「大政奉還」の背景、当時の幕府の真の実力などからすると、大局において、何か大きな「読み間違い」をしていたのでしょうか?