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東海道五十三次の本陣・脇本陣。

参勤交代時、大名の宿舎となる本陣・脇本陣は、いつごろ、だれが決めたのですか。 本陣・脇本陣が決まっていない所では、大名も野営したのですか。 東海道は、幕府領や譜代の私領を通っているので、参勤交代が制度化された初期のころは、西国の豊臣系の大名にとっては、何かと気を使ったというようなことがあれば教えてください。 よろしくお願いします。

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  • jkpawapuro
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回答No.2

そうですね、宿の手配というか指定ともう一つ重要なのは渡し舟の手配です。 街道整備の一環として街道藩側の大事な役目ですね。 参勤交代は一応軍役としての行軍ですので、この辺定めておかないと他領で木を切って焚き火するとかイカダにしてしまうとかトラブルが絶対起きるでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 そうですね。 渡し舟の手配もぬかりなくやったことでしょう。 参勤制度初年度は何もかも大変だったでしょうね。

その他の回答 (1)

  • jkpawapuro
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回答No.1

>本陣の由来については、南北朝時代や戦国時代に遡らせる説もあるが、明確なものとしては、寛永11年(1634年)に将軍徳川家光が上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役・本陣職」に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代導入とともに制度化された。 wikipedia 基本的にはこの説明となります。 ただし家康が1601年に東海道の宿場制度と伝馬制度を発布していますので、 この時点である程度本陣となる宿は指定されたでしょうから、起源としてはこちらのほうが正解に近いかと思います。 >本陣・脇本陣が決まっていない所では、大名も野営したのですか。 行程表が定められていますので、基本的には決まったところで泊まるはずですしそこまで夜通しでも歩いたと思われます。 雨で渡しが渡れないなんてケースは、おそらく本陣に留まったと思います。 >東海道は、幕府領や譜代の私領を通っているので、参勤交代が制度化された初期のころは、西国の豊臣系の大名にとっては、何かと気を使ったというようなことがあれば教えてください。 基本的にはどこの藩も通過前に使者を立てお互いトラブルが起きないように配慮するものであり、そういった意味では(西国大名に限らず)お互いに気を使うものです。トラブルの事例は私は松平斉宣の例しか知りません。(これも事実かどうか怪しい) wiki松平斉宣より抜粋。 ”斉宣が参勤交代で尾張藩領(当時の藩主は斉宣の異母兄にあたる斉荘)を通過中、3歳の幼児が行列を横切った。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行した。村民たちは斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが許されずこの幼児は処刑された。この処置に激怒した尾張藩は、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石藩主の尾張領内通行を認めないと通告するに至った。このため以降明石藩は尾張領内においては行列を立てず、藩士たちは脇差し一本のみ帯び、農民や町人に変装して通行したという。 ”

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >寛永11年(1634年)に将軍徳川家光が上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役・本陣職」に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代導入とともに制度化された。 ということは、西国の外様大名が初めて東海道を通って江戸へ参勤したとき、すでに本陣は幕府が決めており、大名はその本陣を利用したと言うことですね。 分かりました。 幕府も参勤を命じた以上は、宿に関して便宜を図ってやったということでしょうか。 寛永11年(1634年)家光が上洛したときの宿舎の大半は、街道筋の大名の城だと思っていました。