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定府大名とは: 歴史的背景と特徴について調査します
- 定府大名についての理由と特徴について調査します。定府は領地と江戸の二重生活をしなくてすむため、財政面で助かります。
- 定府大名には譜代や外様も含まれますが、一部の大名家だけが定府とされています。
- 歴代の藩主を例に挙げながら、定府になる経緯についても調査します。また、幕府の要職に就いた大名が期間中に定府となることもあります。
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定府大名を調べると、37家ありました。 全大名の一割にもなります。 水戸家及び松平氏 8家 普代大名 22家 外様大名 7家 (すべて新田藩) その理由はいろいろあるようです。 1 大きい大名からの分知による 2 〃 分家 3 新田藩 4 除封後復活した際 5 旗本が加増で一万石を越え諸候に 列せられた際 6 きめられた番役に付く場合 4以下はすべて定府かどうか判りません。 (特に 5 の場合、旗本時代の定府の慣習が残って いるのか、あるいは加増されるほどの能力を買われて 要職に使われてか) 三草藩は1~5でなく6のようです。 藩史によると薫、氏栄は大坂定番、氏福は大番頭、 氏輝は奏者番、氏賢、氏中は大番頭など務めています。 広瀬藩は松江藩の支藩で綱隆が弟に3万石分け与え て成立し、実際は宗藩の松江藩が仕切っており、藩主は 在府です。 このような例は多く、他の場合でも支藩は在府のようです。 宮川藩は堀田正盛の子正信が11万石を除封されたのち その子正休に1万石が与えられ定府になりました。
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- Pinhole-09
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私も興味があり少し調べただけなので お礼をいわれるほどのものではありません。 外様新田藩について 熊本新田藩の場合ですが、細川綱利が肥後藩主の時 弟利重に新田の増収分の3万5千石を分け、新田支藩 (高瀬藩)を作った。知行は名だけで、蔵米3万5千石を 支給するだけで藩主は定府であった。 新田分知はこのように名だけのものも多く、宗家の石高 は従前と変わらない。 つまり支藩の石高は幕府より与えられたものではない。 従い支藩が改易になっても宗家の石高(表高)には 変わりない。 支藩の藩主はロボットみたいなものですが、大名に なると諸候に列すという名誉で喜んだわけです。 武士は家格をとりわけ重視しました。 ただし支藩の藩主にも英邁気骨あるものも居り宗藩と 折衝し知行地を治めたものもいます。 熊本新田藩では9代利永が帰国し、わざわざ陣屋を作ったと いいます。 広瀬藩の場合は普代なのですが、同様な事情でしょう。 幕府はこのようなごたごたには不干渉です。 分知の支藩の場合は新田支藩と異なり、支藩の石高 分宗藩の石高が減ります。 多くは宗藩、支藩が実質同体と見なされて、支藩主定府 で改易の場合知行は宗藩に返されます。 分家の新藩の場合は改易になると、新藩の知行は 幕府に没収され、宗藩の石高は新藩の分だけ減ります。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 新田藩という名に惑わされていました。 次男、三男を独立させるために農地を新規開拓して「新田藩」をつくったのかと思っていましたが、そうではないようです。 >支藩の藩主はロボットみたいなものですが、大名になると諸候に列すという名誉で喜んだわけです。 名だけの藩主ですから国元の政事をするわけではなく、定府ということになったのでしょうね。 支藩の小藩でも定府でない大名もいますから、これらも1件ずつ事情を調べてみます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 態々調べて下さったのですね、37家もありましたか! 理由はいろいろあるのですね。 一件ずつ当たっていくしかないですね。 三草藩の場合、大坂定番は大坂城に勤めるわけですから、なるほどそういう訳かと納得できます。 この職は、慶応3年に廃止になるまで京橋口に29人・玉造口に28人が歴任しているそうですから、他の大名家はどうなんだろうと思います。 これら29人と28人を調べてみます。 「外様大名7家(すべて新田藩)」も気になります。 新田藩そのものをよく知りませんので、これもおいおい調べてみます。 広瀬藩の場合、ネットの情報ですが「歴代藩主はほとんど定府だったが、松平直諒は在任中広瀬から参勤し、藩政に力を入れた。」そうです。 これが許されるほどの何か格別なコネがあったのか、疑問は尽きません。 質問すれば答えてもらえるという安易な考えではダメですね。