- ベストアンサー
旗本の軍事力、行動
例えば天草四郎の乱や第二次長州征討では近隣の藩に命令して「幕府軍」を組織して戦ったんですよね 俗に「旗本八万騎」と言われるほど幕府は譜代大名に頼らずとも旗本、御家人による直参による自前の軍事力を持っていたのではないのでしょうか? 旗本の軍が活躍したことは江戸時代を通じてありませんよね 八万騎は誇張されているとしても、旗本、御家人とその部下をかき集めればどの藩よりも強大な軍事力を持っていたのですよね、だからこそ、それを背景に幕府を維持できたのではないでしょうか? なのにそれらが活躍したことが無いのはなぜなのでしょうか? 教えてください
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
家康が生きている頃は旗本はいくつかの集団にまとめられ寄親、与力のような関係がありました。その中で活躍したものがだんだんと大名となっていきそれまで与力としていたものたちを家臣化していきました。 譜代大名家の家臣にはもともと旗本だったものが吸収されていったわけです。はじめは同じ徳川家の家臣ですからそれで機能していったわけですが、江戸時代も後になってくると大名家の家臣は大名家の家臣であり、旗本は旗本になってくるわけです。 また、江戸時代になっても大番などの五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)がありましたが、実態は役人化していきましたので、戦争時の統率能力があるものがそのリーダ(大番の場合、大番頭)になるわけではなくなりました。番頭は家柄がよく、官僚として機能しうる人が選ばれるわけです。 そのような番頭に有効な攻撃、防御が行なえるわけがありません。戦争と行政の能力はもともと異なる能力です。軍として機能するためにはリーダがしっかりしている必要があります。軍備や人員ではありません。 だから幕末に世情が不安定になるとそれを解決するために新たな血を入れる必要が出てきたわけです。 それは幕府だけではなく、諸藩も同じでそれをうまく乗り切ったところが薩摩などの雄藩となるわけです。 中には水戸藩のように既存権力を持っている上級藩士と能力がある抜擢組とで抗争を繰り広げ藩自体の能力を下げてしまったところもあります。
その他の回答 (8)
- suisinohyo
- ベストアンサー率0% (0/3)
彰義隊は幕臣中心でなかったか 五稜郭で戦ったのも
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
旗本は名の通り将軍の旗の元で将軍を守る直衛軍で、特命がなければ将軍が出陣しない限り前線で戦うことはありません。 江戸260年間将軍が出陣する戦がなかったと言うことです。 長州征伐(戦役)では将軍家持が戦支度で大坂城まで出向き、旗本も同行しましたが戦場に赴くことはありませんでした。 将軍慶喜の時も大坂城から江戸へ逃げ帰った時、同行していた旗本も後を追い江戸へ帰りました。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
>なのにそれらが活躍したことが無いのはなぜなのでしょうか? そりゃ簡単な話で、天草の乱以降幕末に至るまで国内で戦乱らしい戦乱が全く起きていないからです。唯一起きた反乱が「大塩平八郎の乱」です。江戸幕府が長年に渡って権力を維持してこれたのは、軍事力ではなく、「お家取り潰し」の権力を持っていたからです。江戸時代の間中、一説には百を越える大名が取り潰されたといわれていますが、不思議なことに、これに異議を唱えて反乱を起こした家はひとつもありませんでした。みな、唯々諾々と幕府の命令に従ったのです。 幕末に幕府軍があっさり敗北したのは、装備が旧式化していたのと、士気が低かったからです。そもそもいわゆる第二次長州征討のときに8万を越すといわれた幕府軍は1万にも満たなかった長州軍に敗れています。原因は、長州軍の装備が近代化されていたのに対し幕府軍は鎧に槍というような旧式な装備が多かったこと、そして長州存亡の危機ということで士気が高かった長州軍に対し、幕府方の各軍はしょせん各大名の寄せ集め軍に過ぎず幕府のために一生懸命戦う理由がなかったからです。 そもそも旗本も御家人も百年以上戦争をやったことがないのでいざ戦争のときに自分がどうすればいいのかぜーんぜんわかんなかったのです。 それは現代の私たちも同じで、戦前から戦中の日本人はみんな軍隊を経験していたので災害があったときなどにスムースに組織的に対応ができたそうですが、現代日本人の私たちは軍隊経験がないので、何かあったときにどうすればいいかわからないのです。 蛇足・何年か前に拘置所からイラン人が大規模に脱獄したという事件があったのですが、お互い見ず知らずのはずのイラン人たちが脱獄するにあたってはお互いの軍隊時代(イランも徴兵のようです)の階級を元にミニ「イラン軍」を作って「大脱走」を実行したそうです。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
NO3ですが No5さんへ 元ネタその通りです。 回答するにあたって、「んじゃ 西洋はどうだったのかな?」と思って調べてみたら、同時代のスペインもユニットというか備えが同程度の1000人で 発見でした。 幕末の第二次長州征伐では、幕府側が各口数万単位なのに対して、長州側は数隊で少ないところは総数、千名で、散兵形式で勝っています。戦闘ユニットがより小さくなっているように思います。 現代の海兵隊は6名ほどがもっとも有効な戦闘単位と言われています。
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
No3さんの回答を補足する形になりますが、旗本というのは、徳川将軍家(あえて、「幕府」とは言いません)の軍制上は 「総大将本陣を守る親衛隊」 「徳川家直轄の足軽隊、鉄砲隊の指揮官」(足軽大将) といった役割を担います。 大坂夏の陣では、旗本による家康本陣の守備が危なくなり、大坂方に今ひとつの戦力があれば家康本陣を崩壊させ、家康を討ち取ることが出来たのではと言われています。 No3さんは、恐らく、 関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 講談社学術文庫 笠谷和比古/〔著〕 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31996747 を読まれているのではないでしょうか。この本は、以前は「講談社選書メチエ」で発行されておりました。「名著」と言える本です。 この本の中で 「関ヶ原合戦の際、家康が率いていた徳川軍3万はほぼ旗本のみで『本陣親衛隊』の役割しか担えなかった」 「『備』を形成し、攻撃的な役割を担えるのは、万石以上の大名だけ」 「関ヶ原合戦の海戦直前の配置図を見ると、『井伊直政』と『松平忠吉』が、福島正則の大部隊の脇で最前線にいるのが見える。井伊隊と松平忠吉隊は、いずれも3千人程度であるが、徳川軍の中で備えを形成し、西軍を攻撃できるのはこの2隊のみであった」 ことが詳細に論証され、 「備とは何か」 についても詳しく図を交えて説明されています。 なお、笠谷氏の上記の本は約10年前に出版されたものですが、笠谷氏はその後さらに研究を進め、 関ケ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17) 笠谷和比古/著 吉川弘文館 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31967389 で更に進んだ論考を展開しています。こちらの本もあわせて読まれると良いでしょう。 ただ、「旗本」と「備」に関しては、最初に紹介した「関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)」の方が詳細に書いてあります。この本を読まれれば質問者様の疑問はほぼ解消されるでしょう。 要するに 「徳川将軍家の軍事力は、万石以上の譜代大名、親藩大名が担っていた。旗本はあくまで防御兵力に過ぎない」 「幕末に、鳥羽伏見の戦いの後で大坂から軍鑑で江戸に戻った徳川慶喜が、西から江戸を目指す新政府軍に一戦も交えずに降伏したのは、『譜代大名や親藩大名たちが新政府軍に寝返った以上は将軍家に新政府軍と戦う力はない』と冷静に見切ったから」 といったことです。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
旗本は守備的な兵力であったという特性があります。 戦闘というのは「備え」という概念でまとまっています。「備え」の人数がまとまっていないと、まともな戦争が出来ません。だいたの歴史では、そのユニットの人数は減ってきており、第二次世界大戦の連続ドラマ「コンバット」では軍曹以下の分隊10名程度が戦闘単位となっております。ローマ時代は5千名が一軍団でした。 日本の戦国時代と同時期に、ヨーロッパで無敵を誇ったスペイン方陣で1000名。実は、同時期の日本の備えもこの単位でした。(戦国時代や大坂の陣の戦記を見ていると○○隊といって、だいたい千名単位で書いてあるのは、備えが一つあると 千人 二つあると 二千人といういみで、書き手が適当に千人単位で書いているわけではありません) 軍役から逆算すると1000名を出すには、3万石程度の領地を持っている必要があります。これをまた逆に言うと、3万石以上の領主でないと、攻撃的な部隊を日頃から持っているのは不可能と言うことです。 関ヶ原の戦いで、家康麾下の軍勢が3万ほどいましたが、これの主力が万石以下の旗本軍の集合体であるため、攻撃的部隊ではなかったため、最終的な追討戦まで戦闘に参加できませんでした。島津家が戦闘に参加できなかったのも、一つには500名ほどで有効な戦闘単位になっていなかったため。徳川の攻撃的な部隊は、秀忠麾下の大久保忠隣(6.5万石)榊原康政(10万石)本多忠政(10万石)などでありました。 ということで、そもそも攻撃的な部隊を構成するのには、旗本は不適切な軍隊でした。 ただ、守備的な兵力としては、圧倒的です。 旗本領260万石とすると、軍役上8万程度の兵力になり、これらが籠城した日には三倍の兵力が必要とすると20万。つまり、秀吉が朝鮮に出兵させた兵力や、関ヶ原に集まった東西両軍、あるいは大坂の陣で徳川方に付いた兵力・・・と日本中が束にならないと勝てないのです。 ということで、使わない あるいは 使えない兵力という意味では「核兵器」みたいなものですね 旗本って。
- ashunar
- ベストアンサー率23% (57/241)
> 旗本の軍が活躍したことは江戸時代を通じてありませんよね 大坂の陣で旗本が活躍していますよ。確か柳生但馬守が まだ万石の家禄を貰っていませんでしたから、旗本のはずです。 幕末期の活躍についても、新撰組と名を分かち合った 京都見回り組みの佐々木某とか、丹念に調べれば 出てきます。大鳥圭介とかも旗本だったような? 幕臣ではありますが。 新撰組の近藤勇も最終的には旗本扱いですので、 広い意味では旗本の活躍と言えます。 幕末期の活躍の少なさはあるかもしれませんが、 まったく活躍していなかった訳ではありません。 ただ、組織だって機能しなかったと言う指摘は確かにあるでしょう。 そのあたりはNo1の方の説明のしかたはとても分かりやすい見立てです。
- SVOC
- ベストアンサー率34% (219/634)
現代の企業社会に置き換えてみましょう とある大企業グループの話です 本社の人事権・決裁権は絶対的です、逆らえば簡単にクビが飛びます 本社直属はエリート部隊と呼ばれています ある日地方で面倒な問題が起こったとします そこで最近吸収合併した、その地方の子会社に「そっちの近所の問題処理しとけ」と命令します 人的・金銭的損害が出たら、所詮元は他人である子会社なので切り捨てちゃえば良いんです 本社からエリート部隊を送ると本社の経費がかかってもったいないですからね そんなことを繰り返しているうちに、長年の放漫経営がたたって本社が赤字に転落します エリートと呼ばれていた本社の人員も、赤字によるリストラや減収でモチベーションが下がってボロボロです 日々安穏と暮らしていたので実力低下も甚だしい事になっています 「武士は喰わねど高楊枝」という言葉は、この頃の旗本御家人のありようを示した言葉です そんな中、地方の支社や子会社は頑張って力を蓄えてたんですね ある日気が付いてみたら、本社と子会社の実力が逆転しちゃってたんです そこへライバル企業が本社乗っ取りを企ててきました 「ライバルに乗っ取られる位なら」と子会社たちは一致団結して本社経営陣の総退陣を迫り、社内クーデターは成功しました ライバル企業からはグループ全体を守り、新しい経営陣はグループを再編してより良い・強い企業グループに作り替える事に成功しました