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士族の人数

明治初期、士族は戸数30万~50万くらいというのを、ネットで書かれてました 江戸後期、幕末は士分、戸数150万~200万ぐらいはいたはずなんですが、士族になれた士分(一部の郷士)の人たちの人数が少な過ぎるのは何故ですか? 地方の藩では、幕末に江戸詰めの藩士を地元城下に戻したみたいですが、その人たちが召し放ちになったのでしょうか?

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回答No.3

No.2です お礼を頂戴しました お礼にご意見があるようですので追加の説明をさせて下さい。 >武士末裔の人は北海道にたくさんいるんでしょうか 比率は知りませんがおられることはおられます。 ただ北海道の開拓は幕末以降も続き屯田兵という制度がありました。 兵という名称がつけられているように開拓だけではなくロシアに対する警備も義務付けられた一種の軍隊でした。 屯田兵制度が廃止された以降も陸軍省の管轄に組み込まれ予備役のような位置づけだったこともあり日清戦争、日露戦争にも派遣されていました。 要員も原則志願兵で当初は本州内で失業した武士階級でしたが西南戦争以降は平民が主体でした。 明治末期には37兵村、7,337戸、39,911人居たとされています。 北海道は耕作地の開拓だけではなく炭鉱など他の産業の開発も幅広くおこなわれていました。 農業関係も作物を育てる農業だけではなく海外の新しい技術を取り入れた酪農が盛んに行われました。 海外の技術を学ぶために北海道大学の前身の札幌農学校も設けられました。 大正時代以降は経済不況の際に職を求めて農業以外の分野へ移住する人達が数多くいました。 参考 北海道開拓政策の変遷 http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02 2-4 明治中期以降の北海道開拓政策 に詳しく掲載されています。 このように初期に武士が多かったからと言ってその末裔だけではありませんのでご注意下さい。 >土浦には昔から続く田んぼが今でも、たくさんあります 土浦市そのものの歴史はよく知りませんが、江戸時代から続く水田が数多く残っているのは土浦に限られたことではないのではないのでしょうか。 土浦藩の政策もさることながら霞ヶ浦との関わり合いがあるではないかと思います。 参考 土 浦 茨城県 土浦市 - Koutaro.name http://www2.koutaro.name/machi/tsuchiura.htm .

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回答No.2

>人数が少な過ぎるのは何故ですか? 「明治初期、士族は戸数30万~50万くらい」「江戸後期、幕末は士分、戸数150万~200万ぐらいはいたはず」 とされておられますが明治初期に関する推定と江戸後期に関する推定は根拠になる文献等が異なっているかと思います。 つまり根拠が異なる数値ですので単純に150万~200万から30万~50万になったと考えられると混乱しますのでご注意下さい。 江戸時代には幕府は享保(1721)以降ほぼ5年おきに全国の人口調査を行っていましたが武家層に関しては各大名家の国力に関わることから調査されていなかったというか調査できませんでした。 つまり江戸時代の身分別の構成比は正確には分かりません。 あくまでも専門家による推定です。 参考 図録 江戸時代の身分別人口 http://honkawa2.sakura.ne.jp/7860.html 戸数で議論されておられますが、明治時代には戸主制度と呼ばれる制度が定められていました。 この「戸」と江戸時代までの「家」とは内容が異なります。 江戸時代までの「家」をそのまま「戸」に当てはめますと混乱が生じます。 ただイメージとして明治時代に士族とされた武士層の人口が江戸時代の武士層の人口よりも少なくなっていた可能性はあります。 初期の明治政府は廃藩置県や秩禄処分で禄を失った武士層に公債を発行しましたがこの公債を償還する財力がありませんでした。 これを補うために帰農して平民となり自力で生活することを勧めましたが旧来の藩域内では農地が確保できませんでした。 結果として帰農者は極僅かでした。 そこで広大な土地がある北海道に目を付けて開拓使制度を設けて北海道への移住を勧めました。 これに応じて各大名家から数百戸単位で移住者が現われました。 結果的に明治時代に戸籍上士族とされた武士の人口が江戸時代の武士の人口よりも少ないことに最も影響していたと思われます。 参考 北海道開拓政策の変遷 heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02 >地方の藩では、幕末に江戸詰めの藩士を地元城下に戻したみたいですが、その人たちが召し放ちになったのでしょうか? 召し放つ大名そのものが華族とさせられていて旧家臣に対する権限が取り上げられていました。 言い換えれば大名による召し放ちなどはなかったということです。 有名なのが最後の将軍慶喜が駿府へ移住した際に1400人近い幕臣が自主的に移住して来て茶畑を開拓したことで静岡がお茶の産地となった由来です。

sokoo0823
質問者

補足

北海道に移住された元武士の人が多くいたみたいですが、先祖が武士だった武士末裔の人は北海道にたくさんいるんでしょうか 例えば、土浦藩では華族となった元藩主が武士に農業を勧めました。だからか、土浦には昔から続く田んぼが今でも、たくさんあります

  • rakujin
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回答No.1

戊辰戦争などが影響しているのではないでしょうか? 戦争の結果として、士分のはく奪などがあったと思われます。