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維新期における士族の行方と不平・不満
幕末期の武士というのは、今日でいう公務員のようなものだったと思うのですが、明治になって、それらの武士たちはどこへ行ったのですか???少なくとも地方においては、おおむねの武士たちが、明治の新しい組織の「公務員」になったと考えるのは間違いですか??? 士族にとって、版籍奉還とか廃藩置県というのは、大きな転機になったのかも知れませんが、例えば、「藩」がなくなっても、新しい「県」で、そのまま「公務員」として働けていたのであれば、「不平士族」なんて生じる必要はないように思うのですが……??? 確かに、徴兵令とか廃刀令の公布というのは士族のプライドを刺激したかも知れませんが、「公務員」として働けていたのであれば、そんなに不平・不満を持つ必要もないという気がするのですが、他に士族が不平・不満を持つ大きな理由があったのでしょうか???どんな種類の士族が、いわゆる「不平士族」ということになるのですか???
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- tknkk7
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☆色々と戦い終わり、終わってみたら、あれっ、何の、特別報酬とか・国_公的役職へ、自動進級なんて事が、実際には行われなくて、あっと言う間に、”みんな解散です。・・・ ●従って、命を的に働いたのに。・・・騙されたかしらと、考えつつ、自分の田舎へ戻り、百姓へ戻るが、70%程度。いいえ、新しき時代へ挑戦が、20%、その他が10%程度でしょう。 ➡あの当時の方々は、あの時代は、正に”何、まるで、色々な熱に動かされていた様なものでしょう、返りみて、本当ガッカリだから、誰も話したく無いのが、心境でしょう。 ●士族と、言うのは、常に”敵は、どこかを、考えておりました。 江戸時代・後半では、殆ど、”社会が、平和で、のんびりと、し過ぎて、気力も度胸も、無くして、いました。 ●ビックリ、したのが、海外からの”ペリー艦隊・・・ソ連(今のロシア)・・・そう、言えば中国が、可笑しいらしい、日本も植民地となるなんて、飛んでも無い:ふざけてるし、エネルギーの発散し処が、無くて、”不平士族へ、変身。これをカバーしよう、西郷隆盛先生でした。●ともかく国の状態、誰でもいいから助けてよ!から、幕末になり、その時だけは、”武士らしき人達も薩摩・長州・肥前・土佐・会津・長岡・静岡・一生懸命に、考え戦いました。・・・結果は、どうあれ辛い苦しい切ない時代なのでしょう。 ●遠い過去の、出来事なのでしょう。・・・
- GIANTOFGANYMEDE
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士族と言っても幕末に公の仕事をしていた百姓身分の人が維新によって士族に列せられた事例もあるので、実数を正確に把握することは困難です。資料から推測するしかありません。 幕臣について考えて見ましょう。 幕末、幕臣の総数は33400人でした。このうち明治政府の官吏となった人は5200人です。 徳川宗家静岡移住に付き従った人が15000人。13200人、全体の40%は自動的に失職しています。 幕末の武士人口はおよそ100万人。その30%が働き盛りの成人男性だとして30万人。 その40%というと12万人。 現代であっても12万人がいきなり失業したらかなりの大事でしょう。 私の高祖父は維新後は文筆業に転向しました。国会図書館のアーカイブで高祖父の著作を見ることが出来ます。武士は知識階級でもありましたから、そういう流れも多かったでしょう。 高祖父の息子である曽祖父は維新の時点では少年でした。彼は帝大を出た後、大蔵省、司法省に奉職していますが、これは士族だからというより帝大を出た実力によるものと思われます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 全体の40%は自動的に失職しています。……認識を新たにしました。かなりの幕臣が失職しているのですね。ただ、幕臣の場合は、他藩の武士とは状況が異なったのではないか???と想像します。 私の高祖父は維新後は文筆業に転向しました。……「上手く転職できるような能力を、普段から培っておれば」というのは、いつの時代でも言えそうですね。
- hekiyu
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明治になって、それらの武士たちはどこへ行ったのですか??? 少なくとも地方においては、おおむねの武士たちが、 明治の新しい組織の「公務員」になったと考えるのは間違いですか??? ↑ かなりの人が、軍人、警察官、そして教師 になっています。 商人になって失敗し没落した人も おります。 ここから、武士の商法、という言葉が産まれました。 他に士族が不平・不満を持つ大きな理由があったのでしょうか??? ↑ 江戸時代の武士のほとんどは働いていませんでした。 何もしなくても、家禄がもらえたわけです。 それが廃止されました。 軍人、警察官、教師になれなかった武士も 沢山おります。 どんな種類の士族が、いわゆる「不平士族」 ということになるのですか??? ↑ 収入が減った武士 仕事にあぶれた武士 高い地位を失った武士 無職になった武士
お礼
ご回答ありがとうございました。 かなりの人が、軍人、警察官、そして教師になっています。……想像は付きますし、新しい時代の武士の生き方として無難な選択だったのだと思います。この道を選ばなかった武士、選べなかった武士もいたということですね。
- meido2010
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そうですね、萩の乱とか見ると松下村塾の塾生が先頭に立って暴動を 起こしています。また西南戦争でも、いよいよ新政府の鹿児島県への 圧力が際立ってきて暴発した。と言えそうです。 明治政府は兵隊に武士はいらない。という今までの軍事の常識を覆し て主に徴兵によって兵士を育成しようとしました。つまり戊辰戦争での 奇兵隊の成功にあやかったのです。 しかし、それでは今まで武士として禄を貰っていた者たちの不満は解消 するどころか余計に高まってしまいます。 明治政府は廃藩置県によって武士ではなく公募によって役人を採用しま した。これも武士にとっては居場所がなくなることになります。 では、どうしたか。 元新選組の斎藤一は藤田五郎と名を変え警視庁に勤めています。 つまり、元武士は警察官になっていたのです。元会津藩士佐川官兵衛も 警察官になっていました。 元武士の人の多くは警察官になりましたが、なれない人もいた訳でそれは 人それぞれでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。 明治政府は廃藩置県によって武士ではなく公募によって役人を採用しました。……そうなのですか???知りませんでした。調べてみます。
- eroero4649
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私の「父の母」のご先祖は某藩の江戸家老という立場だったそうでして、明治維新の廃藩置県で自らも失職(江戸家老なので、地元にほとんど行ったことがない)したそうで。 ほんで、同じような失業武士家族をまとめて北海道に移住したと伝わっています。 また武士というのは額面上の禄すなわち給料が低くても、立場上ワイロを受け取ることで給料の足しにしていた人たちも大勢いました。そのワイロが事実上の給料の一部と認識されていたのです。ワイロというより、出向先から給料をもらう感覚に近かったでしょうね。そうすることによって藩の負担を減らすという意味もあったと思います。 しかし廃藩置県で失職すれば、もうワイロはもらえません。新しい仕事がもらえたとしてもそれは当然以前の給料が基準になるでしょうから「そんな給料じゃとても一家が暮らしていけません」という事態も発生するかと思います。現代でも、関連会社に転籍という形で給料を半分くらいに減らすっていうリストラがありますよね。 長州藩なんかはあの関ヶ原の敗戦で責任をとらされて120万石が30万石に減らされたこともあって体質的に武士過剰状態で、明治維新で勝ち組になったわけですから、当然藩士を始め多くの関係者が「これで天下とったんだから俺たちゃ大出世」かと思っていたら全くアテが外れたのでめちゃくちゃ不満になったようです。 それは薩摩藩も同じで、薩摩藩も借金が莫大だった藩だからストレスは余計で、だから西南戦争にまでなったんですね。 つまり不平士族とは、「負けて落ちぶれた人たち」と「勝ったのに流れに乗れなかった人たち」と「どっちにも与しなかったのに、とばっちりで落ちぶれた人たち」だったというわけです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 失業武士家族をまとめて北海道に移住したと伝わっています。……なかなか骨のある人物だったのですね。 立場上ワイロを受け取ることで給料の足しにしていた人たちも大勢いました。……時代劇の見方が変わってきますね。(*^_^*) 廃藩置県で失職すれば、……この辺のところが良く分からなかったのです。廃藩置県によって「失職」があったのですね。 「これで天下とったんだから俺たちゃ大出世」かと思っていたら全くアテが外れたのでめちゃくちゃ不満になったようです。……確かに維新での功績は大きいとは思いますが、誰に、どんな功績があったのか???ということを考えると、かなり難しいと思います。司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んでも、何やってんだ、筋が通らん、無茶苦茶、オイオイもう少し方向をしっかりしろよという印象で、ごくごく一部の歴史上の人物を除いて、「これで天下とったんだから俺たちゃ大出世」というほど威張れるものでもない気がします。(*^_^*) つまり不平士族とは、「負けて~~~落ちぶれた人たち」だったというわけです。……現代社会の中にもありそうな……。(*^_^*)(T_T)
- ithi
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minamiahoudori さん、こんにちは。 幕末期の武士というのは、今日でいう公務員のようなものだったと思うのですが、明治になって、それらの武士たちはどこへ行ったのですか???少なくとも地方においては、おおむねの武士たちが、明治の新しい組織の「公務員」になったと考えるのは間違いですか??? 大体そうですけど、その登用人数や禄はかなり削られていたようですし、四民平等だとか、ちょんまげはやめろとか、刀の帯刀が禁止になりました。つまり、武士の特権をどんどん削っていったのです。極め付けが秩禄処分でしょう。政府がもうあなたたちに禄を与えることができないから、その分の証書を出して、自分で自由に商売や生活を始めてくださいといったのです。だから、特権をはく奪された武士は怒ったのです。 四民平等 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86 廃刀令 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%88%80%E4%BB%A4 秩禄処分 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%A6%84%E5%87%A6%E5%88%86
お礼
ご回答ありがとうございました。 その登用人数や禄はかなり削られていたようです……やはり全員というわけでもなかったのですね。 秩禄処分による影響というのはかなり大きかっただろうという認識はあったのですが、どうも実態が分かりませんでした。もう少し調べてみます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 自分の田舎へ戻り、百姓へ戻るが、70%程度。……薩摩藩や土佐藩に普段は農業をしながら、……というのは、何かで読んだ記憶がありますが、田舎に戻って、百姓で生計を立てられる武士が70%もいたのですか。認識を新たにしました。