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豪農屋敷の門

江戸時代、豪農屋敷に立派な瓦の門、藁の門を、をよく建ててましたが、門って、確か士分の家にしか建ててはダメでしたよね? 豪農は名主以外でも特別だったのでしょうか?権力とかもありそうですし

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回答No.1

>江戸時代、豪農屋敷に立派な瓦の門、藁の門を、をよく建ててましたが 現在見受けられるものの中には江戸時代の習慣や規制が緩んだ明治時代になってから建てられたものが多々ありますのでご注意下さい。 >門って、確か士分の家にしか建ててはダメでしたよね? 絶対にダメだったということでもありませんでした。 領主である大名家へ多額の献金などをして何等かの功績があった場合に認められることがありました。 名主、庄屋などという身分というか役職は大名家の行政上の末端官僚に位置づけられていました。 身分こそ百姓ですが一般の百姓よりも一段高い階層として扱われていました。 江戸時代の年貢は個人単位ではなく村落単位で課税されていました。 これを村落内の誰がどれだけ負担するのかを庄屋や名主を頂点とする村役人が決めていました。 この分配や徴収に必用な事務処理などを庄屋や名主の屋敷で行っていました。 この他に特殊な例として、村落内でもめ事があった場合には玄関が臨時の裁判所というか御白州として使われていました。 領主である大名などへ訴え出る前にお玄関先と呼ばれて利用されていました。 庄屋や名主は町奉行のように採決を下していました。 このような性格を持った屋敷でしたので格式として門が設けられていました。 >豪農は名主以外でも特別だったのでしょうか? 特別だったから豪農になれたとも言えます。 江戸時代に入って身分制度が固まる以前から続く豪族の末裔だというケースがありました。 特に関東地方に多く見受けられます。 家康が秀吉の命令で関東地方へ移封された頃には武田氏、上杉氏、小田原北条氏などに所縁の武士が割拠していました。 これ等の人達の末裔で江戸幕府へは伺候せずに百姓となった人達がいました。 先祖からの土地を支配していましたので広大な田畑を持つ豪農になっていました。 村役人の頂点に立つ庄屋や名主に就任していましたので、庄屋や名主を務めたことがない豪農というのはそれほど数は多くありませんでした。 このようなご先祖を持つ庄屋や名主の屋敷には周囲に掘り割りが設けられているところもありました。 参考 一之江名主屋敷 www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/shiro/ichinoe.htm 屋敷の写真が掲載されています。 蛇足 水田は河川に近い水田で水を取り入れて順次河川から離れて水田へ流す方法が採られていました。 水田の水位は稲の生育状態に応じて水位を調節します。 村落全体で調節していて途中の水田が勝手に取水したり放流することは禁じられていました。 このようなこともあり江戸時代の田畑の所有権は個人のものであると同時に村落の共有財産でもあるという性格がありました。 何等かの理由で所有者が田畑を手放した場合村落が耕作を続けましたが、その費用や労力を経済的に余裕のある農家が引き受けていました。 結果的に経済的な余裕のある農家は資産である耕作地が増えて豪農と呼ばれるようになっていきました。