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京屋敷について

江戸時代に幕府は各藩が朝廷と接触をするのを嫌ってたにもかかわらずなぜ各藩に商売とは言え京屋敷を持たせてたのですか?また御所護衛は昔から各藩にさせてたのですか?

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  • 6dou_rinne
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回答No.1

京屋敷は豊臣時代からの慣例があり、全面的に禁止はできなかったのでしょう。 御所の警備については各藩に任せるのは幕末だけで、それ以前は京都所司代の責任だとおもいます。ちなみに二条城には大番組から1組交代で駐屯していました。

akiy
質問者

お礼

慣例があったということですか、ありがとうございます。

その他の回答 (1)

回答No.2

京屋敷は基本的に豊臣時代の伏見屋敷が、豊臣時代の伏見城及び徳川初期の徳川家康の伏見屋敷に対して、主に外交的理由で構成された物が始まりで、伏見の現代の町名に各大名の名称が並ぶ様は非常に興味深い物です。 その後、江戸前期から中期にかけては、大阪屋敷と同じ理由であくまで商業的な意味合いを持って屋敷を構えました。 米商い、普請材料の調達、国元の二次産出品の売買、京都でしか手に入らない伝統工芸品や上級生活必需品の買い付け等の意味合いが強かった様です。 只、各藩共に幕府にはばかって「買い物方」や城方の物品管理系の各種「奉行」等を京都に派遣する程度で、重臣や藩主等はもちろん京都への接近をさけました。 「元禄御畳奉行の日記」中公新書等を参照してみて下さい そしてやがて江戸後期頃から正常が不安定になり出すと西国雄藩は京屋敷の外交的役割を活発化させ、幕末の幕府のアジールとしての京都が誕生していきます。 1#の方も書いておられますが、幕府が「御所」をおもわず監視警護しなければならなくなるのは江戸後期の国学復興と幕府権力衰退以降で、それ以前には京都に幕府以外の兵力が入る等もっての他でした。 京都が治外法権化するのはやはり大塩平八郎の乱・長州征伐等により幕府の実質権力が形骸化している事に、西国を中心にした大藩が気付きはじめて以降になります。 他にも外様格大名の幕閣への登用や参勤交代の形骸化等、例外的な権力内部の混乱も同時に進行しており、江戸においても同様にそれまでの慣例をやぶるような出来事が頻発して行きました。 結論として、豊臣滅亡以降に京都に幕府以外の軍隊が駐留するという異常事態に成るのは、幕末の動乱期以降に限定されます。

参考URL:
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.56.3.215&el=135.46.4.236&la=1&sc=3&prem=0&CE.x=400&CE.y=213
akiy
質問者

お礼

詳細に回答いただきありがとうございます。

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