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家督相続について

家督相続について調べています。 1:ある当主には実子がなく一族から養子を迎えて家督を譲った。それから何年かして当主の妻(あるいは妾)が男子を産んだ。 家督を継いでいる養子に嫡男がいた場合、当主の子は家督を継げるか? 養子に嫡男がいなかった場合、当主の子はいつどのような形で家督を継ぐことができるか? 2:ある当主の妻が病死した。この妻と当主の間には長男がいた。しばらくして当主は後妻を迎え、二人の間には次男ができた。 後妻の実家が前妻の実家より格上である場合、長男の扱いは嫡子・庶子のどちらとなるか? 後妻の実家と前妻の実家が同格あるいは後妻の実家が前妻の実家より格下の場合、次男の扱いは嫡流・庶流のどちらとなるか? 1・2について平安時代・鎌倉時代・室町時代・戦国時代・江戸時代・戦前・戦後の各時代における法、慣例、事例なんでもよいので教えてください。 一つの時代だけでもかまいません。 宜しくお願いします。

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  • ryutora
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回答No.3

家督を相続すると当主になるため、家督を継いでいる養子に嫡男がいた場合、当主の子は家督を継げるか?という質問は厳密に言うと跡目相続人の養子が家督を継いだ後は養子が当主となるため当主の子は自分の子となるので、家督を相続した当主が元の当主(隠居)の子供にわざわざ家督を譲ることはないと思います。(こういうケースがあったかもしれませんが) 質問は跡目相続人へ家督を相続させる前に当主が養子から実子へ変更する場合と思います。 平和な時代と、戦争の時代とでは考え方が大きく違います。また後の時代は朱子学等倫理がうるさくなってきます。 1.例は ・室町時代では義政と義視、義尚の関係で応仁の乱の原因です。安土桃山時代では秀吉、秀次、秀頼があります。(悪い?ケース) ・江戸時代では徳川(水戸)光圀が兄の子供に家督を相続した例があります。(いい?ケース) 昔は銚子相続ではなく主に兄弟相続でした。平和でないときは力のあるものが家を継ぎます。力がないと滅びるので長男などと言っているひまはありません。家督を継ぐ子供(嫡男)は当主が決めるので、長男でなければならない決まりはありません。(当主が決めていなくても力があるものが当主になります) 平和な時代になると規律を重んじるようになり、力より血のつながりが重要視されて長男が相続するケースが増えます(嫡子相続)。鎌倉時代の得宗がいい例でしょう。得宗は北条家の当主で執権とは違うときもありました。時頼が死んだ後時宗が執権になるまで親族が数人執権となりましたが、得宗は子供の時宗でした。江戸時代でも吉宗はうまくしゃべれない家重を将軍としましたし、13代家定も将軍でした。 当主の権力は強いので、嫡男を廃嫡して相続人を変更できました。(廃嫡されたため反乱を起こして当主を獲得した例はありますが) 2.当主が決定権を持っているので、後妻に子供が生まれる前に相続人を長男としたならば長男です。まだ相続人を決めていなければその時に当主が決めた子供が相続人となります。それを変更することは1.で説明しました。 家康は2代目を次男の秀康ではなく秀忠としています。 (長男の信康は既に死亡しているので秀康が相続してもよいはず) 相続人となれない子供は一生部屋住みとなるか、庶流として分家するか、他家へ養子となるか、家来となるかはその家の格や時代にもよってきます。 戦争中は家来となるケースが多いでしょう。 平和な時代で人(武士階級)が足りないとき(江戸時代初期)は分家できましたが、人(武士階級)が多くなると一生部屋住みとして飼い殺しもでてきます。 明治時代以降は江戸時代の嫡子相続制が続いて長男の相続が一般的です。現在は制度が崩壊しているように思えます。

kouunlove
質問者

お礼

返事ありがとうございます。 とてもくわしいですね。 やはり、世情が安定している時と不安定な時では家督継承者がちがうんですね。

その他の回答 (3)

  • notnot
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回答No.4

1) 上手く行った実例は思いつきませんが、上手く行かなかった例は応仁の乱のときの足利氏、畠山氏等ですね。上手く継ぐには、実子が養子の養子になって継ぐんでしょうね。 2) 格上・格下もあるでしょうけど、正妻かどうか。後妻より格下でも正妻だったのならその長男は嫡子では?もちろん、後妻に言われて廃嫡もあるでしょうけど。実例としては新田氏(兄)と足利氏(弟)で弟が後を継ぎましたけど、母の上下は知りません。 桓武天皇は渡来人の先妻(皇后でない)の子ですが、皇女である後妻(皇后)の子を罠にはめて後をついでます。 秀忠の兄の秀康が後を継がなかったのは、母の出自というより他家(結城家)に養子に行ったからでは?築山殿の死後、家康には正妻は秀吉の妹朝日姫だけですから。 信長の次男・三男が後を継げなかったのも、秀吉の意向ではありますが、建前としては他家に養子に行ったからですね。

kouunlove
質問者

お礼

返事ありがとうございます。 やはり家督相続って難しいですね。 一つ間違えば応仁の乱のように日本全体が戦争状態になったりしますから。

  • tanuki4u
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回答No.2

藩政改革でおなじみの 上杉鷹山。 参考URLの九代目となりますが。 実は、彼が米沢藩というか、上杉家で評判がいいのは、実子がいるのにもかかわらず、義理の父の実子(鷹山が養子に入ってから生まれた子供)に家督を譲ったところにあります。 これを逆に言うと、建前として家長絶対優位でありながら、やっぱりちょっとねぇぇという関係者の気持ちを汲み取った人が偉いといわれるようです。 徳川宗家でも、五代将軍は宮将軍か?という流れの中で、四代将軍家綱の一言で、弟綱吉が家督をついでいます。そのくらい家長の発言権はつよかったそうです。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/mutudewa/yonezawa.html
kouunlove
質問者

お礼

返事ありがとうございます。 上杉鷹山も、実子以外に家督を譲ったんですか。 実子に譲らなかったのは徳川光圀だけかと思ってましたが違ったんですね。 江戸時代も家長の権限が強かったみたいですね。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

鎌倉時代、御成敗式目では 悔返し権がありましたので、親権絶対です>参照URL 平安末期でいうと http://www.tabiken.com/history/doc/P/P328L100.HTM 正室の長男から父親が、妾腹の次男に氏の長者を引っぺがして渡していますね。

参考URL:
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu852.html
kouunlove
質問者

お礼

返事ありがとうございます。 平安の頃は、父親の一言で後継者が決定されたんですね。