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武士の家督

江戸時代、武士は家の当主が家督を渡さなくても、長男は結婚は出来ますよね? 当主が長生きして家督を渡さないままでいたら、その長男の息子が結婚して息子が出来てと大家族になってしまうパターンも・・ もう一つ疑問に思ったのが、家督を譲ったら世襲された、通称氏名を元当主は名乗ってもいいんですか?

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  • fumkum
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回答No.10

新年あけましておめでとうございます。 新年早々ですが、「諱を使わなくなる、忘れられる、だから最初から諱を付けないようになるとことだろうと思います。」の部分は次のように訂正してください。 「諱を使わなくなる、忘れられる、だから最初から諱を付けないようになるという傾向が出てくるということだと思います。」 諱が本当の名だという意識や、武士なので本来「名字」+「仮名」+「諱」があるのが当然だと思う人間もいるでしょうし、逆の人間もいたのだと思います。武士であっても諱を公式に使うのは、叙位・任官の時で、この時は諱だけでなく源平藤橘などの氏(うじ)も必要になります。逆に言うと叙位・任官に預からない武士は、公的な場面で諱を使うことはないわけです。箱館奉行所の明細短冊を見ても登場する人物の何人かは実際に諱を持っていない可能性はあるわけです。 箱館奉行所の明細短冊は慶応年間のもので、その10年で明治政府の方針のもと、全ての日本国民は「名字」+「名」(氏+名)の形に統一されます。その時に旧武士(士族)も仮名をとるか、諱をとるか選択を迫られます。

sokoo0823
質問者

補足

あけまして、おめでとうございます 逆修の供養塔には江戸中期の、ご先祖の戒名、4文字(二文字が道号)、信士と書いてあります。ただ、供養塔を建てた時点では90歳で亡くなってはないです 他の江戸時代の、ご先祖のお墓は三体ありますが、文字が消えていて読めないと思います 戒名からも諱は、わかる場合は結構あるみたいです

その他の回答 (9)

  • fumkum
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回答No.9

火災が原因かどうかは別にして過去帳がないということであれば、諱が記載されている可能性があるものとしては、墓石、位牌の俗名の記載があります。位牌については位牌の中(空洞)に小型の板・紙が存在することがあって、それに記載されていることがあります。 また、「江戸時代の家系図について」の質問に回答した時にご紹介した明細短冊などを見ても、幕末の明細短冊などには仮名(通称)の記載はあっても、諱の記載はされなくなります。 下記に『箱館奉行所文書』のURLのコピーをしましたが、この内容は箱館奉行所の奉行以下の明細短冊になります。この明細短冊には誰一人として諱の記載がありません。奉行の杉浦兵庫頭は450石の旗本ですが、「兵庫頭」という官途は記載されても、やはり諱は記載されていません。杉浦兵庫頭は他の史料から諱は「誠」(ちなみに仮名は正一郎)であったことがわかるので、諱は持っています。しかし、公的文書である明細短冊には記載がありません。 このように、諱は実際上で使うことが少ないので、諱を使わなくなる、忘れられる、だから最初から諱を付けないようになるとことだろうと思います。 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/guide/a/bosho00085.htm http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/guide/a/bosho00093.htm

  • fumkum
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回答No.8

NO7です。追記をします。 武士は出生届はないのですが、それに代わって「丈夫届」がありました。幼児の死亡率が高い時代なので、ある程度まで丈夫に育ってから届けられます。この届けが出されると公式に子であることが認められます。届けが出されない場合には子として公認されず、存在しない者として扱われます。そのため、当主が急死しても無子として家が改易されることもあります。この丈夫届が出された後は、仮名・諱を変えた場合に改名届を出します。ですから世襲の仮名があり、それを前(元)当主から受け継ぐ場合、前当主の改名届と現当主の改名(襲名)届を出せばよいことになります。逆に前当主が改名したくない場合、現当主との話し合いでしょうが、改名届を出さなければよいだけです。上記しましたが、仮名を世襲しない武士もあり、また世襲しても世襲仮名が一つと限らない場合もあります。官途ですが、鹿児島藩の島津家は薩摩守と大隅守の二つの官途があり、使い分けています。江戸時代も260年強続くわけで、時期により傾向も違ってきますし、家の格、置かれた状況等によっても変化しますので、固定的には考えられません。「家督を譲ったら世襲された、通称氏名を元当主は名乗ってもいいんですか?」ということについても、名乗ってはいけないという規定はなかったという程度ではないでしょうか。 *親も任官しています=武家の官職は名目化していますので、任官する官職については相応の官職であれば希望が通ることが一般的でした。ただ、現職の老中が任官している官職にはならない、同役と同じ官職にはならない等の規制・慣習はありました。例えば、大岡忠相は町奉行になる前は能登守に任官しており、「大岡能登守忠相」でしたが、江戸町奉行に任命されたときに、*同役で先任が坪内「能登守」定鑑であったため、能登守から越前守に変更しています。 *同役=江戸中町奉行-当時は南北江戸町奉行の他に江戸中町奉行があった) *初代=景吉は承応3年(1654)年に徳川家綱に初めて拝謁し、新規召し出しとなり、一家を立てます。 *それほど役職に恵まれない=6位相当の「布衣」まで行った者は、景吉・景好の2名、後の2名は書院番士どまりで、5位で大隅守などの官職に任じられる「諸大夫役」はなし。 武士の没落についても、調べてあったので。 郷士または藩士が持つ農地・屋敷地を、「給人名請地(きゅうにんなうけち)」または「家中手作地(かちゅうてづくりち)」・「家中名請地(かちゅうなうけち)」「奉公人前地」などといいます。定義であれば、兵農分離以前から自己で所有していた農地で、自らの所領の一部に組み込んだ土地のことを指します。ただ、土地所有のことですので、地域、大名・旗本家、慣習などにより名称、形態などに違いがあります。また、江戸時代に入っても武士が年貢納入の対象である農地・屋敷地を買い入れることも可能でした。 大名でも、天領、他の大名・旗本領などの農地・屋敷地を買い取り、その領主に年貢を納入し、諸役も果たします。大名自身が直接納入・諸役を果たすわけでは当然ありませんが、家臣が代行するにしても義務は一般の農民と同様です。これは大名の場合、江戸に屋敷を構えますが、上・中・下屋敷は将軍(幕府)からの拝領地ですが、屋敷地の増加の必要のある場合、大名が自分で購入した土地に抱屋敷を建てます。この場合でも、幕府の屋敷改(新地奉行とも)の支配と承諾が必要ではありますが、大名の農地の購入・所持を承知しています。また、大名も購入だけでなく、売却することもあります。大名の抱屋敷は一例にすぎませんが、江戸時代でも武士による農地・屋敷地の売買、所持ができたことになります。 さて、話が少しそれましたが、「給人」は、知行地を与えられている家臣を表します(知行地を与えられるのは上級家臣が多い)。しかし、実態として(蔵米知行も含め)知行地を持つ武士だけが名請地(農地・屋敷地)を持ったのではなく、切米取・扶持取のような中・下級武士も名請地を持つ例も多く、中間などの武家奉公人も名請地を持っています。「給人名請地」という歴史用語はあくまでも知行取についてのもので、藩士・家臣全員を表す「家中」を用いた「家中名請地」の方が、幅広い階層の武士の農地・屋敷地の所有を表しています。 名請地(農地・屋敷地)の由来ですが、豊臣時代までに所有していた農地・屋敷地に由来するもの。戦国時代には土侍クラス、それ以下の農民で兄弟がある場合、兄は農民を続け、弟が武士として村を出る、その逆などの関係が見られ、また武士だけでなく商人・職人になるなどでも兄弟間で同じような関係があったとされます。旗本・御家人の本家が農民であることもあるわけで、さらに農民の中には兵農分離・太閤検地などを契機として武士を捨て、帰農した者を祖先とする者もおります。このような層の中から、新たに郷士・藩士に取り立てられる層もあるわり、彼らはその成り立ちから、名請地を持っていたものが多くなります。次に、買い入れ地。さらに、家中開発新田などの開墾地があります。新田は、一般の農民でも数年間の年貢の免・減があるのが普通ですが、武士の名請地の場合、藩により恒久的な年貢の免除・低減がある場合があるなど優遇を受けることもあります。 1町数反の田ならば、*良ければ15石程度の収量が見込め、五公五民で7石強、減免があればそれ以上が手元に残ることになります。それ以外に郷士・藩士としての禄もあるでしょうから、屋敷地を借金のかたに売ったとしても、身分も、農地も残り、没落という状態ではないと思います。屋敷地を売った、もしくは借金のかたに流したということは、その屋敷地は名請地であったということです。これが、組屋敷などの拝領地であれば、売る・流すことはできませんし、もししようとすれば改易や切腹の可能性もあります。 建造物移築のため借財をし、神社仏閣に移築するということであれば、神社仏閣に寄進のために建造物を移築したことなのではないでしょうか。ところで、屋敷地の屋敷=建造物はあったのでしょうか。神社仏閣に移築した建造物なのか、それとも屋敷地と共に屋敷も人手に渡ったのでしょうか。 親戚が、みんなでお金を出しあって家を建ててくれとあるので、考えられることは2つあります。一つは建造物移築が一族を代表して寄進として行った可能性。今ひとつは、親族間の「結(ゆい)」であった可能性です。「結」は一般に農村での労働力などの相互扶助のことを言いますが、その中に家普請があり、普通は建前時や萱の葺替時などの労力の相互提供ですが、資力や木材(屋敷林なども含む)の提供、大工仕事を含む家の建築全体に及ぶこともあります。資力提供以下も相互扶助が原則なのも当然ですが。相当昔ですが、萱の葺替の結に参加というより見学したことがありますが、茨城の鹿行地域でのことでした。 話があちらこちらに飛びましたが、「借財が返せなくなり、お金の代わりに屋敷の土地で借財した相手に返しました」程度では、没落と言えることでもないと思います。 *名請=検地帳に記載された土地を名請地、記載された人を名請人と言います。 *良ければ15石=太閤検地頃には1反(0.1町)で一石程度の収量が見込めるようになったので、太閤検地時に従来の1反=360歩を300歩に改めたとされるので、おおよそ1反で1石~1石強で概算できます。

sokoo0823
質問者

補足

一つ、質問したいのですが その諱というものは、親の、ご先祖の由緒書き、日記には出てませんが何に載ってるんですか? お寺にあるはずの過去帳もないと住職に言われましたし(お寺は火災歴があるそうです)、諱がないのは武士階級が低いとはいえ考えにくいですし

  • fumkum
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回答No.7

武士の相続には2つあって、跡目(跡式)相続と家督相続です。跡目(跡式)相続は当主が死亡した場合です。この場合は、死亡を届け出ると共に、服忌届(ぶっきとどけ)を出し、50日の服喪に入ります。服忌期間が終わってから跡目(跡式)相続願(跡目書上)を出し、それが認められると、お目見え以上の武士は将軍・主君に拝謁し、跡目相続を「仰出」されて相続になります。 これに対して家督相続は、当主の隠居願と同時に家督相続願を同時に出します。まず、隠居が許され、そのあと家督相続が仰せ出される手順になります。同日に隠居と家督が認められる例が多いようです。 ただ、跡目相続にしろ、家督相続にしろ、お目見え以上でも身分が低い者は、同じような者をまとめて一緒に拝謁ということも多くあったようです。また、お目見え以下=幕府で言えば御家人身分でも、代々の相続が許される譜代席・准譜代席(二半場)の家格の者は、お目見え以上と同様に「仰渡」により跡目・家督相続が許されますが、「仰渡」は所属長または無役の場合には身分により小普請と目付支配に分かれ、それぞれの長より「仰渡」されます。 さて、武士の名前ですが、普通は「名字」+「仮名(けみょう・通称)」+「諱(いみな)」から成り立っています。遠山の金さんを例にすると、「遠山金四郎景元」が本来の名です。「遠山」が名字、「金四郎」が仮名(通称)、「景元」が諱になります。諱は言うことがはばかられる名の意味で、その名を言われると支配されるとされ、主君・父母などの目上の者しか知らない、言わない名であったのですが、江戸時代ごろではそのような習慣も薄れますが、一般にその人物を呼ぶときには、仮名(通称)で呼ぶことが普通でした。諱の内の一字は「通字」と言って代々用います。遠山家の場合、「景」が通字で、実父が「景晋」、養父が「景善」養祖父が「景好」と、全ての諱に「景」の一字が付いています。 諱は、養子に出て養家の通字を用いる時などに変えることがありますが、あまり変わることはありません。また、名字も同じですが、仮名の部分は変わります。例えば、遠山景元の場合、最初が通之助で「遠山通之助景元」、17歳で金四郎に仮名を変えて「遠山金四郎景元」となります。金四郎は実父の仮名を襲名したわけですが、通之助については由来はわかっていません。養父の死後33歳で小納戸で出仕(実父と親子勤め)しても仮名は変わらなかったようですが、40歳の時に小納戸頭取格に昇進し、従五位の下になり大隅守に任官して「遠山大隅守景元」、その後大隅守から左衛門少尉に転官して「遠山左衛門少尉景元」になるわけです。この左衛門少尉は*親も任官しています。「大隅守」「左衛門少尉」は官職ですが、このように名前に用いられるときは「官途(かんと・かんど)名」と呼ばれ、仮名にかわって用いられます。 仮名・官途名を親子で同じものを名乗ることは、大名家、上級旗本、代々任官しているような旗本には名乗る傾向があります。遠山家も、景晋‐景元‐景簒の実際上の親子孫は、すべて通称が金四郎ですが、遠山家を*初代から景晋までを見ると、景吉(吉三郎・権左衛門)-景義(九十郎・七郎右衛門)-景信(権蔵・権左衛門)-景好(権十郎)-景晋(金四郎)となっています。これを見ると仮名の継承と思われるのは、「権左衛門」だけで、どちらかというと継承はされていない印象があります。各代で役職にはついていても、*それほど役職に恵まれないことにもよるのだとも考えられます。景晋(血統がつながらない永井家からの養子)以降傾向が変わって顕職に就くようになり、仮名の継承・世襲もされるようになります。 武士の名前について調べた研究者がいて、江戸時代も時代が下るにしたがって、身分が低い武士の諱がわからなくなる、なくなる傾向があるということです。また、『寛政重修諸家譜』を見ても、1~4代までの遠山家のように仮名の継承をしない層も、下の階層から時代が下るに従い拡大する傾向にあったように見えます。仮名の世襲・継承も格の低い武士にとって必然ではないようです。逆に御庭番家筋の川村修就(初代新潟奉行)のように、仮名・官途・斎号を含め、八つもの名を持つ(代える)人物もいます。 長いので、追記します。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.6

>当主が長生きして家督を渡さないままでいたら、その長男の息子が結婚して息子が出来てと大家族になってしまうパターンも・・ 次男三男は厄介と呼ばれ結婚できませんが、嫡男嫡孫は結婚します。よって嫡男嫡孫が子だくさんだとどんどん家族が増え貧乏に・・・ってことは普通にあります。 >もう一つ疑問に思ったのが、家督を譲ったら世襲された、通称氏名を元当主は名乗ってもいいんですか? 武士場合通字と呼び、通称1文字しか相続しません。家康家光家綱のように。 商家の場合名前まるごと相続していきますが、この場合2代目柿右衛門3代目柿右衛門みたいに丸ごと相続して〇代目とつけます。ですから両方柿右衛門となります。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.5

跡継ぎとして正式に届けられている男子である嫡子(嫡男・世子)でも、その子(当主から見て孫)であっても結婚できますというよりも結婚しています。武士は、家名の継承が何より大事ですから、そのためにも男子の誕生が望まれます。ですから、適齢期になれば家督相続前であっても結婚することが当然と考えられています。ただ、時代が下がるにつれて、旗本でも正式な婚姻は、家督相続後である傾向がでてきます。(家督の若年化もあります) 嫡子以外に男子がいる場合、多くは養子先があれば養子に出します。しかし、相応の家では、嫡子にもしものことがあった場合の控えとして、嫡子の弟を家に残すことがありました。嫡子に(家督相続した後でも)男子が誕生した後は、控えとしての意義が失われますので、この後に養子に出されることがありますが、年齢が高くなっているので養子の先がない時には、余裕があれば分家をさせます。特に、嫡子と同腹の場合は分家の例が多く見られます。その場合でも石高が低くても、格式を高くし一門として処遇します。分家でない場合は、家臣の家に養子に出します。また、それもできない場合には厄介と俗に呼ばれ、捨扶持や小禄の家では小遣い銭程度で部屋住みとして飼い殺しにされる場合も多々ありました。中には一生結婚できない者もありました。井伊直弼は容姿が良くなかったらしく、養子の口がかからず、兄が家督を継いだため、捨扶持(30万石の大名で300俵)で部屋住みとして侘しく生活していましたが、世子であった兄の子が死去したために、代わりに世子となり、家を継ぎます。側室や正妻を持ったのも記録上は世子になってからだったようです。もし、兄の子が死去しなかった場合は、井伊直弼は一生部屋住みとして300俵の捨扶持で生活し、正式な婚姻もなさず、手を付けた女性に男子が生まれても正式に認められるかもわからず、仮に認められても、よほどの幸運がなければ300俵(石高に直して300石)の家臣となったことだろうと想像されます。(後述の景晋の養父は当主の弟の子で、当主の娘-いとこ-と結婚して跡を継いだ幸運の例になります。ただ、母は某女とされていますので、正式な婚姻ではなかったとみられます。) 禄高が低い家の男子は、嫡男以外は養子に出るのが普通で、それができない場合は、家に残って厄介になるか、それとも市井に出て自活の道を選ぶものも多く見られます。理由は少し異なりますが、遠山金四郎景元は父親の景晋が遠山家の養子で、養子に入った後に養父に実子(景善)ができます。その後に景晋に景元ができます。そこで、景晋は景善を養子とし、景善は景元を養子にします。景晋-(6歳差)-景善-(23歳差)-景元という義理の親‐子‐孫という複雑な関係が成立します。景元が17歳の時には実父景晋の通称であった金四郎を通称にし、実父景晋は景元への継承の意思を明らかにします。その上、対外関係の激化に伴い、蝦夷・長崎・対馬等への景晋の出張が度重なります。正確な原因はわからないものの景元は家を出ます。放蕩に身を持ち崩したとの説が多いのですが、歌舞伎の裏方や戯作者を目指したとの説もあります。戯作者については、下級武士出身者も多く見られます。市井で自活する武士出身者も多くいたということです。 さて、景元はしばらくして屋敷に帰り、22歳で結婚したとされ、その後には子供が誕生したことが記録にあるので、景晋-景善-景元の三代、実質2代は結婚し、子供もいて生活した時期があったことになります。 通称氏名については締め切りを2~3日待っていただければ、回答したいと思います。

sokoo0823
質問者

補足

回答待ちしますね

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6877/20341)
回答No.4

家督と姓名を相続ではなく 名前は違うと思います。姓だけだと思います。 外国では 先祖の名前を続けて全部相続するところもありますね。寿限無みたいに長ーーーーーい名前。 パブロ・ピカソもずいぶん長いみたい。 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

  • 1buthi
  • ベストアンサー率16% (194/1187)
回答No.3

そんなには大家族に膨れ上がらないと思います。 結婚出来るのは長男だけで、他に何人の男兄弟がいようともその人達は結婚してはならないと言う決まりです。それらの男兄弟が一生独身でいればそのさきの家族は増えないし、子供がいなくて家が取り潰される可能性のある家に養子に行っても生家を継ぐわけではないのでやはり増えません。 膨れ上がって権力が増すのを避けるために結婚は長男だけに許されていたのですから。

回答No.2

幕府に願い出て許可が出れば分家する事も可能でした あとは暗に上から「そろそろ隠居しなさい」みたいな圧力もあったらしいですよ

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6877/20341)
回答No.1

武士は軍役を担うものであるから あまりにも高齢では勤まらないということに という建前で 50才で隠居するのが適齢とされていたみたいですが はっきりとした決まりではなく 70才で家督を握っていた人も。 家督を相続するのは正妻の長男という決まりがあったので 長男以外は一生独身で長屋に住み内職で細々と暮らすしかなかった。 と書いてあるけど 追い出されるということですか!? http://history.c.ooco.jp/souzoku.htm

sokoo0823
質問者

補足

結局次男以降は悲惨だったんですね 隠居した当主はたぶん、いままで使ってきた通称氏名を使うと思うのですが、家督を渡しても世襲してきた氏名は渡さず当主が亡くなったら引き継ぐんですか?