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興宣大院君の子
日本ではこの頃、長男が絶対的な跡継ぎとして、次男以下は家臣との立場でした。 王になった興宣君の息子、高宗は次男です。 長男は早世でもなく普通にいたようです。 長男はわかりませんが高宗の母は興宣君の妻です。 正妻の子を優先したのでしょうか? それとも当時の朝鮮は嫡子か庶子かに関わらず、好きな子を跡継ぎにできたのでしょうか。 あるいは、形式上興宣君の跡継ぎは長男であるから、余っている次男を養子にだした、ということでしょうか。
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noname#209756
回答No.1
私の知っている範囲で。 なぜか、長男以外が後を継ぐというケースが多いようですね。 日本で実力よりも長男が大事というのは特に平和を維持したい江戸時代は特にかと思います。 それでも養子にすでにだしたからとか違う弟があとを継いだりします。 昔なので、大きくなるまで病気で亡くなることも多かったです。 私が感じるのは、朝鮮も儒教ですが、違うのは後継ぎの世子や正妃などよく廃されることです。それも実力よりも政治力の影響が大きいように思えます。 後継ぎが決まっても争ったり、時には、朝鮮の国王になっても廃されることもあります。 平和で宮廷を開いているのと武士政権ではかなり様相が違います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、わたしが知っているのは平和な徳川幕府でした。 当時は波風が立たないよう、例え正妻でも公家の女性は子供が生まないようにしていたり、徹底的に世嗣ぎの管理をしていたようです。 武士政権とは違うものなのですね。