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白血病に舌癌、必ず生還する?
イギリス人ブライアン・ポール氏が「My Humorous Japan」に書いている。 日本の侍は本当に強い人間だった。死に直面しても平常心だった。これを赤穂浪士の例を上げて論じている。 江戸時代まで遡らなくても、私の身近にもこういう人は居た。現代の宗教界にも居るし、実は明治生まれの私の父もそうだった。58才で斃れた時「ワシは、いつ死んでもいい」と繰り返していた。 戦後、日本人は日本の伝統的価値観の殆どを捨て、欧米の価値観に乗り換えた。 「人生は素晴らしい」「人生を精一杯楽しもう」「命は最優先されるべき価値あるもの」「生きることは素晴らしい」等、何が何でも生きることを最優先する価値観である。 私からすると、惨めである。自分の寿命を知った時「OK、なら死にましょか」と従容と死に赴く人に好感を持つ。痩せ我慢だろと言う人がいるかも知れないけれど、現にそうして従容と死んで行った人を身近に見ている。決して痩せ我慢ではない。 命はいずれ尽きる。命に優先する価値観はないのか?昔の日本にはあったけれど、今の日本にはなくなった。 私は”人権”を否定するものでは決してない。それどころか、現代日本で人権が余りにも踏みにじられている現状には立腹している。そうではなく、死に対する潔さを失くし、そのせいで返って苦しんでいる日本人が可哀そうに見えるのである。
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- eroero4649
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私は三度死にかけた。一度目は赤ちゃんのとき。これは記憶に残っていない。 二度目は小学生のとき。食事はもちろん、ジュースも喉を通らなくなった。原因不明で、国立小児病院に入院した。ずっとずっと大人になってから、自分がガン病棟にいたことを知らされた。病棟には、幼稚園児からの子供たちがいた。 一度、こんな光景を見た。病棟奥の個室を覗くと、自分と同じくらいの年齢の子が横になっていて人工呼吸器がとりつけられていた。その傍らで両親がただ茫然と立ち尽くしていた。あの後ろ姿を忘れることはできない。両親の、自らの生命力をわずかでも与えることができない無力さはいかほどであっただろうか。 20代前半の頃、ちょっとした病気をこじらせて死にかかった。後で主治医から「あと数日遅れていたらマズかった」と聞かされた。どうりで苦しかったわけだ。リアルに死ぬんじゃないかと思った。 緊急手術を終えて、人生の中で一番長かった苦しい夜が明けて、食事で出てきた重湯のなんと美味かったことか。あれこそ「生」の味だった。「あなたが今まで食べてきた中で、一番美味しい食べものはなんでしたか?」と聞かれたら、私は迷わずあの重湯と答える。 従姉が、若くして世を去った。スキルス性胃ガンが発見され、長い闘病生活の末だった。現代医療というのはすごいもので、彼女は1年間なにも食べることができなかったのに、生きることはできた。しかし棺の中の彼女は、骸に皮がついただけの姿だった。火葬場への道すがら、町中には食べ物屋が並んでいた。私はそれを眺めながら、世の中には捨てるくらいに食べ物が溢れているのに、彼女はそれを口にすることができなかったのかと思うと、悔しくて悲しくて仕方がなかった。従姉を亡くしてから、私には食べることが従姉への供養であり、病気への復讐となった。以来、出されたものは全て残さずに食べることを自らに命じている。 自分が死にかけるほど恐ろしいものはないし、大切な人を失うほど悲しいものはない。今の私は「死ぬことが、死ぬほど恐ろしい」と堂々ということができる。死ぬことは本当に恐ろしいからだ。 だからこのような意見を見ると、本当に唾棄する嫌悪感が止まらなくなる。若者ならまあいい。生命力に溢れた若者なら、死などというものはピンとこないものだ。 しかしそれなりに齢を重ねた者がこのようなことを口にする愚かさはどうしたものだろう。それなりに人生を重ねた57歳と、まだ成人にも満たぬ嫁入り前の娘さんの出来事を同じ土俵で論じてしまう、なんという想像力の欠如だろう。 もし近年の日本人が劣化したというのなら、それは間違いなく中高年の劣化だ。いい齢をしてこのようなことを口にして恥ずかしいとも思わない、人生経験の欠如というほかはない。「昔の日本人は死に直面しても平常心だった」と軽々しく口にする愚かさよ。討ち入ったのはわずかに47名で、他の何百名もの藩士はみな討ち入らなかったということに気づかない。同じ武士なのに。吉良邸は討ち入りに備えて何名もの用心棒を雇っていたにもかかわらず、その用心棒たちは雨戸が浪士たちに固定されたことを口実に出てこようとしなかった。やろうと思えば雨戸の板などけ破る方法があった。邸内には他にも多くの者がいたが、物音で何が起きたのかを察し、ほとんどは出てこようとはしなかった。彼らも武士なのに。そういったことが分からない大人がこんなに増えたものなのか。まったくもって嘆かわしい。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6876/20336)
それは医術の進歩とも関連してくることですね。植物状態になってもチューブをつないで放置しておけばいつまでも生かし続けることができて 病院には手間いらずで医療費が入ってくる。そういった医術は算術ということも絡んできます。 残される側の「どんな形でも生きてさえいれば」という喪失感からの回避も問題です。 こういうところは いろいろと悪口を言われているエホバの「自然のままに任せる」という価値観もいいと思ってしまう。私は無神論者だから 神様がこう言ってる というのではなく こういった価値観だけを取り出した場合の感想です。
それはただ命の尊さを感じていないだけの話。 だからこそ執着がなく、いつ死んでもいいと言っているだけ。
- KoalaGold
- ベストアンサー率20% (2539/12475)
>命に優先する価値観はないのか?昔の日本にはあったけれど、今の日本にはなくなった。 ここは意見表明ですね。で、ご質問は?皆さんはどう思いますか?でしたら私の意見を。 私は常に流れに乗って行きているので自分で勝手に風に乗ったり流れに乗ったりします。逆走はできないので(疲れますから)病に侵されたら原因追求したり自己治癒を試みますが、自分で治せない場合病院にお世話になり、そこでできる程度の治療をします。 絶対死ねないと思ったのは子育て中と仕事の契約中で、それが終わればいつ死んでもいいような断捨離しながら余生を行きている感じです。50代後半ですが。 でも人生上り坂、やりたいことがある人、子育て中は幽霊になってでも張って地中から出てきて全うしようと思います。うらめしや~と出てきても復讐が目的でなく意思半ばで挫けた自分を情けないと思う意味でのうらめしや~です。 と言うわけで質問者様がいつ死んでも悔いなしと思えるのは人生が後半に差し掛かってる証拠と思います。
補足
タイトルに質問していますように、最近ニュースになっている水泳選手やタレントの姿勢について、それに対する世間の反応についての意見を求めています。私は違和感を感じましたが、何故違和感を感じたのかその背景を説明したのが質問文です。
補足
「命が尊い」誰が決めたのですか? この価値観は、いついかなる場合も最上位にあると思いますか?