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「存在と時間」の一節について

ハイデガー「存在と時間」について質問があります。 ちくま学芸文庫、細谷貞雄訳のp288~p289に「世界=内=存在ということによって本質的に構成される存在者は、みずから各自の「現」(「そこ」)を存在している。(中略)《ここ》や《あそこ》が可能であるのは、ひとえに、ある《そこ》(「現」)においてである。すなわち、《そこ》(「現」)の存在としてすでに空間性を開示している存在者が存在するときにである。(中略)この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現=存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在しているのである。」とあります。 私の素朴な感じ方から言うと、「この私」自身の存在が開示され、引き受けられているのは「ここ」においてである、と思うのですがなぜハイデガーは「そこ」だと言うのでしょうか。また「Da=Sein」の「Da」を「そこ」ではなく、「現」と訳すのは、どうしてなのか、またどのような意図が組み込まれているのでしょうか。 どなたかご回答をお願いいたします。

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.2

(その昔かじって、歯が立たずに投げ出した立場ですので、あまりあてにはならないと思いますが)以下のとおりお答えします。 >「この私」自身の存在が開示され、引き受けられているのは「ここ」においてである、と思うのですがなぜハイデガーは「そこ」だと言うのでしょうか。 ⇒確かに、「この私」の視点から見て言えば、「ここにおいてである」、となりますね。しかし、ハイデガーはその考察対象を「存在者」と呼び、「各自」と呼んで言っているのですから、そういう彼の目からは、「そこ」になる、ということではないでしょうか。 >また「Da=Sein」の「Da」を「そこ」ではなく、「現」と訳すのは、どうしてなのか、またどのような意図が組み込まれているのでしょうか。 ⇒指示副詞としてのDaは確かに「そこ」を指しますが、この場合のDaseinは、DaとSeinの合成によって造語された名詞ですよね。ですから、DaseinのDaは起源的には分離動詞の前つづりとしてのDaなどと無関係ではないでしょうが、ここでは名詞の接頭辞として、「示されたところに/位置を占めて(存在すること・もの)」というような意味を担っているのだと思います。それで、ヘーゲルでは「定有」となり、ハイデガーでは「現存在」となった、ということではないでしょうか。(そう推測します)。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1154/9141)
回答No.1

他人にとっての「ここ」は「そこ」なのでは。現は空間的ですが時間的には今ということでは。

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