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バタイユの「神の不在」と仏教の「諸法無我」

いつもお世話になっております。 バタイユのテクストの一節です。 「もしも私の対象が恍惚に達するまで私を感動させるのならば、存在も虚無もありはしない。 そしてそうなったときには、私に狂気のごとく見えないようなどんな肯定も、どんな否定も存在しなくなる。」(「神の不在」p144) 「神の不在とはもはや、閉じるということではない。 無限なものに向かって開かれているということだ。 神の不在は、神よりも大きく、神よりも神的だ(それ故私はもはや〈自我〉ではなく、〈自我〉の不在になる。 私はこの消去[手品で巧みに隠すこと]を待っていたのであり、今はだから私は限りなく陽気だ)。(p147-148「神話の不在」) 共に『ランスの大聖堂』 バタイユ ちくま学芸文庫 上記のテクストの主張と仏教の「諸法無我」の境地とは、いかなる点が似て非なるものなのでしょうか。 ご教授いただけましたら幸いです。よろしくお願い申し上げます。

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  • mmky
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回答No.4

追伸まで >>この「生かされている我」というのは、森羅万象、生きとし生ける者としてあらゆる諸事象の恩恵によって生かしてもらっている、という意味なのでしょうか。 ○ 一義的にはそのような意味です。 二義的には我も同じ存在という意味ですから他を生かしているわけですね。例えて、いいますと木々の葉が濃くなる季節ですけど、木々の葉は木の枝から栄養分をもらって大きくなると同時に自らも光を浴びて栄養を作り枝から幹に供給してますね。生かされ、生かし、つまり同じ生命の木の一部という意味ですね。 >>「有神論に帰着する」というくだりが、納得できそうで、いまいちよくわかりません。 ○ 確かに飛躍がありましたね。この説明には「諸法無我」の「無我」を「空」と置き換えて、諸法はこれ空、空なる境地に「真空妙有」の境地あり、まで行くと説明的に「有神論に帰着する。」になるのですね。「真空」や「無我」で終わってないのですね。「妙有」、つまり妙なる世界があるといってますね。だからニヒリズムではないのです。 つまり「同じ生命の木の一部」である我を発見し、生命の木そのものが仏神そのものであることがわかるからですね。 >>また、「諸法無我」は「我が無い」境地でありながら「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」とは、何とも不思議な認識に思えるのですが。 ○ 私が私がと思う心や肉体がこの場合の「我」ですね。これを「仮の我」ともいいます。この「仮の我」を否定して、「真の我」を肯定しているのですね。「真の我」とは「もろもろの事象の中の一部である我」ですね。西洋哲学的な外観を捨て、内観でみているということですね。 昔の中国のお経には「無我」を「非我」と書いてるものもありますね。 「我にあらず」という「非我」のほうがわかりやすいのかもしれませんね。「無」だと何にもないと誤解してしまいますね。釈尊が否定論理や二重否定論理を使って教えを説いたということですね。 つまり、単純な言葉の解釈で理解できる哲学ではないということ、釈尊が最高の哲学者であったということでもあるのですね。 >>バタイユの外的要因による「存在も虚無もありはしない。」とは真逆の内的要因(自身の悟り?)だけで「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るということなのでしょうか。 ○ その通りです。正しい道(仏の教えに従う道)を通りさえすれば誰しも「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るのです。 >>で、こういった思想というのは世界中で仏教だけなのでしょうか。 ○ 仏教しかありません。それ故、仏教は最高にして最強、最強にして最大の教え、哲学であり宗教なのです。 ちなみに、お寺の山門には「あ像」と「ん像」がいますね。これギリシャ語で書けば「アルファ像」と「オメガ像」ということですね。お寺の中には仏像があり、仏陀は、私はアルファでありオメガですよといってるのですね。この世でわからないことがあれば我に聞け、その門は万人に開かれてる。これが悟りの門の意味ですね。 仏教は一神教ではありません、仏陀は神々の至高神(神々のなかの一番えらい神)であると言ってるだけですね。つまり、一番長老のものしり哲学者と思えばいいんじゃないかと。

noname#96756
質問者

お礼

mmky様、再度のご回答に心より感謝申し上げます。 ありがとうございます。 >生かされ、生かし、つまり同じ生命の木の一部という意味ですね。 なるほど。 以前2人の子供を出産した関係上、某キリスト教系の病院の院長による「葉っぱのフレディ」の朗読会に参加した経験をふと思い出しました。 この「生かし生かされ、命あるもの同じ生命の木の一部」という発想は、また同様に、宗教宗派を超えた「有神論」につながる、どこか孤独で無い温かみのあるものを感じます。 >「妙有」、つまり妙なる世界があるといってますね。だからニヒリズムではないのです。 >「同じ生命の木の一部」である我を発見し、生命の木そのものが仏神そのものであることがわかるからですね。 はい、ニヒリズムと似て全く非なるというか、ニヒリズムを高々と超越しきっている感じがします。  凄いですね。 >「我にあらず」という「非我」のほうがわかりやすいのかもしれませんね。 >「無」だと何にもないと誤解してしまいますね。釈尊が否定論理や二重否定論理を使って教えを説いたということですね。 初心者のわたくしにわかり易く噛み砕いてご教授下さっただけでも、仏教哲学の緻密さ、深遠さが伝わってくるような。 のちに仏教がヒンドゥーに駆逐されてしまったのは、この哲学的難解さによるものだったのでしょうか。 >仏教は一神教ではありません、仏陀は神々の至高神(神々のなかの一番えらい神)であると言ってるだけですね。 はい、この点はわたくしにとっては素直に心地良いものを感じます。 なまじ物ごころついたときにキリスト教文化に触れたせいか、「対人的に信仰面で過干渉」を幾度と体験して辟易しているところがあります。 ですが、「隣人愛」「ゆづる」の精神など、やはりあの時代においては前代未聞の画期的な発想であり、過分に或いは相応に、人類は恩恵を受けてきたはず。 たとえキリスト教圏でないにしても、です。 同様に、わたくしが抱く仏教の一抹の懸念として、どこか「唯我独尊」的ニュアンスを感じてしまうのです。 キリスト教とは真逆のベクトル、つまり、内なる方向へ働きかけるイメージでしょうか。 初心者の戯言です、一笑に付して下さいませ。

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noname#149752
noname#149752
回答No.6

すいません。 梵天勧請というのがありまして、 涅槃に入ろうとしたゴータマに 教えを説くように梵天が勧めます。 仏教にも神はいます。

noname#96756
質問者

お礼

yukiyama20様、更なるご回答をありがとうございます♪ >梵天勧請というのがありまして、 >涅槃に入ろうとしたゴータマに >教えを説くように梵天が勧めます。 >仏教にも神はいます。 フムフム。 あとでwikiで見てきます。 あまりwiki好きな世代ではないのだけども。←つまりおばちゃん 「神」って…いないよりはいたほうがいいと思います。 ただ、神に何を求めるか、にもよるのかもね。 やはり今まで幸せに生きてこられた事に対して、「神」のみならず、全てのものに対して謙虚に「感謝」すべきなのだなあ、と思うに至りました。 これが、哲学カテで得た最大の発見です。  しょぼいですかね?(笑) で、yukiyama20様はどうかしらん。

noname#149752
noname#149752
回答No.5

>何か「神」に求めていらっしゃるのです? いや、もういいです。 諦めました。 執着を捨てる ゴータマは家族を捨てたでしょう。 本当は嫌なんですけどね。 仕方ないです。

noname#96756
質問者

お礼

yukiyama20様、こんばんは。 何度もお書き下さって本当にありがとうございます♪ >>何か「神」に求めていらっしゃるのです? >いや、もういいです。 >諦めました。 ん? もういいのですか? 諦めた、というのは「執着を捨てる」ということなのです? >ゴータマは家族を捨てたでしょう。 ああ、これね。 妻子にしては相当に世知辛かったことでしょう。 この点につき「唯我独尊」的なるものをわたくしも感じるのです。 キビシーかもね。 >本当は嫌なんですけどね。 >仕方ないです。 まあ、そんなことも生きていればしょっちゅうありますって。 キリスト氏もゴーダマ氏も何かしら心の葛藤を抱いたはずですから。 わたくしたちがどうしてそれ以上に抱かないと言えましょう? なんちゃって。

回答No.3

マシュマロさん、こん〇〇は。ぽこぺろぽです。  バタイユの『神の不在』と、仏教の《諸法無我》にいかなる類似性があるのですか?正直に申し上げますと、その対称性であるならともかく、なぜ似て非なるものとされたのか掴みかねております。  ニヒリズムと諦観が似て非なるものということでしょうか?私の考えるところ、バタイユの唱える恍惚とは、内的な唯一神の克服で、醜や死への賛美は、ナルシシズムの屈曲表現としか思えないのですが。確かにバタイユは毒性に富み、妖しい魅力があります。私は8年ほど前に読んだのですが、あと5年前に読んだら騙されたに違いないと、胸を撫で下ろしたことを覚えています。それ以来、敬遠していますので、詳しいことはわかりませんが。  私には、あなたがバタイユを気にかけておられることが驚きです。バタイユの思想に魅了されたのでしょうか?それとも有用と考えられたのでしょうか?

noname#96756
質問者

お礼

pokoperopo様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 後ほど小部屋にお邪魔させていただくつもりです。 >ニヒリズムと諦観が似て非なるものということでしょうか? >私の考えるところ、バタイユの唱える恍惚とは、内的な唯一神の克服で、醜や死への賛美は、ナルシシズムの屈曲表現としか思えないのですが。 はい、おっしゃる通りかと。 ナルシシズムの屈曲表現ですか、相変わらず鋭いですね! >あと5年前に読んだら騙されたに違いないと >それ以来、敬遠していますので >バタイユの思想に魅了されたのでしょうか? >それとも有用と考えられたのでしょうか? 二-チェしかり、バタイユしかり、フーコにしかり。 あの歴史に裏打ちされて厳然たるキリスト教社会と司牧権力体制下において、公然とアンチを標ぼうする心の「闇」というものは、本当に想像を絶するものだと思います。 ちょっと日本人には理解し難いものがあるように感じます。 まさに、生活習慣全てを全否定するに近しい暴挙に等しいような。 もう、ゴーギャンも真っ青の「狂気」。ゴッホ並みでしょうかね。 彼等の「闇」「狂気」の全部が全部を理解しようなど、出来ようがないし、むろんそんな荒唐無稽なことは考えてもおりません。 でもね、何をもってして「妖しい」「騙される」「無用」とみなすのか、わたくしにはいまだ、よくわからないのです。 バタイユの「神の不在」はともかく、彼の描くエロティシズムの世界と、フツーのわたくしたちの抱くそれと、本質的には全く何ら違いがないはず。  本質をリアルに突いていると思いませんか。 むろん神秘思想に傾倒など致しませんが、人間のイマジネイションと業の深遠さがひしひしと伝わってくるのです。  その意味において、わたくしは「拒絶したくはない」のです。 むしろ一方的に上から押し付けの、根拠のない「善」「聖なる」「さとす」という語彙に抵抗を感じるのです。  これらはキリスト教とは関係ないのかもしれませんが。

  • mmky
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回答No.2

>>[上記のテクストの主張と仏教の「諸法無我」の境地とは、いかなる点が似て非なるものなのでしょうか。] ですか。説明の例えとして、 梵鐘と突き棒と坊主は、そろいものですが、坊主が突き棒で梵鐘を突けば、梵鐘は震えて妙なる音を出します。このとき、梵鐘の気分を推察すれば、「恍惚感」の状態にあるといえるでしょう。 この例えが、バタイユの「もしも私の対象が恍惚に達するまで私を感動させるのならば、存在も虚無もありはしない。」の状態でしょうね。 ところが、仏教の「諸法無我」の境地は、このような単純な「恍惚感」を意味しているのではないですね。 例えれば、梵鐘が突き棒と坊主、梵鐘の釣り部分や屋根、梵鐘のおかれている大地、周りの山河と一体となって存在しているということを体得しながら認識する状態ですね。 「諸法無我」の意味は、もろもろの事象のなかの一部である我を発見するという意味で外的に与えられる恍惚感とは違うものですね。 「もろもろの事象のなかの一部である我」というのは言い換えれば「生かされている我」ということですから有神論に帰着するのですね。

noname#96756
質問者

補足

mmky様、ご回答をありがとうございます。 なるほど、このような明確な差異があるということなのですね。 納得です。ありがとうございます! もう2点ほど、詳しくお伺いさせていただきたいのですが、 >「諸法無我」の意味は、もろもろの事象のなかの一部である我を発見するという意味で外的に与えられる恍惚感とは違うものですね。 >「もろもろの事象のなかの一部である我」というのは言い換えれば「生かされている我」ということですから有神論に帰着するのですね。 この「生かされている我」というのは、森羅万象、生きとし生ける者としてあらゆる諸事象の恩恵によって生かしてもらっている、という意味なのでしょうか。 「有神論に帰着する」というくだりが、納得できそうで、いまいちよくわかりません。 また、「諸法無我」は「我が無い」境地でありながら「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」とは、何とも不思議な認識に思えるのですが。 バタイユの外的要因による「存在も虚無もありはしない。」とは真逆の内的要因(自身の悟り?)だけで「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るということなのでしょうか。 で、こういった思想というのは世界中で仏教だけなのでしょうか。 以上の点につき、御手数ですがご教授頂けましたら光栄です。 なにとぞよろしくお願い申し上げます。

noname#149752
noname#149752
回答No.1

こんにちは。 バタイユのマダム・エドワルダを読んだことがあります。 引用してもいいのかな。 「分かってるでしょう、あたしは神なのよ・・・」 「おれは頭がおかしくなったのか・・・」 「とんでもない、見なくっちゃだめ。見るのよ!」 断っておくが、私が、マダム・エドワルダは神だというとき、 それを皮肉だと思うのは間違っている。 だが、神が売春宿の娼婦で、気の狂った女だというのも、筋のとおらない話だ。 ともかく私は人が私の悲しみを笑ってくれればそれで満足なのだ。 そして、いまのところは、無意味だ!「無意味氏」がものを書く。 この男は自分が狂人であることを承知している。恐ろしいことだ。 だが、この男の狂気、この無意味は――突然「確かな」ものとなって―― それこそが「意味」になるのだろうか? リストカット、風俗嬢、40代?、病人、カトリック信者 離婚経験者、アニメオタク。インターネット依存症。金の話ばかり。 神はいますよ。

noname#96756
質問者

お礼

『マダム・エドワルダ』を読みました。 >「神」はいますよ。 たしかに。 バタイユの描く神が「いた」とわたくしも思います。 それってキリスト教の「神」ではないのですよね?

noname#96756
質問者

補足

yukiyama20様、ご回答をありがとうございます。 せっかくだから、もいちどマダム・エドワルダを読んでみます。 明日いっぱい、お待ち下さいませ(ぺこり) >リストカット、風俗嬢、40代?、病人、カトリック信者 >離婚経験者、アニメオタク。インターネット依存症。金の話ばかり。 >神はいますよ。 「40代?」にわたくし、該当しちゃうわけなんですが(昭和40年代、笑) 「神」がいてもいなくても、全くもって、個人の信仰の自由だと思っております。 ちなみに…yukiyama20様は「神」がいる、と思っていらっしゃるのですね。 何か「神」に求めていらっしゃるのです?

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