まず、観念と概念は違いますから、区別しないといけません。
よく観念というと、フィクションだとか、幻想だとか、そう考える人が多いと思いますが、デカルトやロックやカントにとって、観念とは実在です。
ご飯を食べることも観念、旅行に行くことも観念、そしてセックスすることも観念です。
それに対して概念というのは、基本的に言葉です。
ある物事を大雑把に一括りして呼ぶ時に概念といいます。
だから観念と概念は違います。
「時間は人が考えた観念、概念で、天体など運動しているにすぎない」
アリストテレスは「自然学」の中の、時間についてで、時間は運動を「その前」と「その後」に分割して、その数を数えることといい、時間は運動そのものではないが、運動と切り離せない、とも言いました。
つまり、時間というのは運動に基礎を置く派生体ということで、派生体という意味では実在とは言えないかもしれませんが、運動に基礎を置くという意味では、実在でもあります。
ベルグソンは「意識に直接与えられているもの試論・時間と自由」の中で、運動・持続・変化を知性は知ることはできないが、人間の直観によって、それを知ることができると言って、「純粋持続」の時間がある、といいました。
つまり人間の知性は静止したもの、固定したものは知ることができるけど、運動するもの・持続するもの・変化するものは捉えることができない、それを捉えるとしたら直観である、と。
そうしてベルグソンは量的差異のほかに質的差異としての時間があるといい、それを実在と考えました。
このベルグソンの時間論はだいたいアリストテレスの時間論によく似ています。
もし、あなたが時間というものをフィクション、人間が作ったものと考えているとしたら、それは間違いです。
だから、時間は人間が勝手に作ったりできません。
あなたの仰る「楽しい時間」とか「祭りの時間」とか「仕事の時間」とか「誰かと共有する時間」とか、「田舎はゆっくりとした時間が流れている」とか、そういう時間は実在としての時間を念頭に、そのメタファーとして、二次的に作ったもの、それこそフィクションです。
アリストテレスのいう、数としての時間は、運動を測定するための時間で、いわば量としての時間で、ベルグソンに言わせれば、時間は空間ではないのですから、長さを持たず、広がりを持たず、測ることはできない。
たとえば、私たちは時間というと時計の時間をイメージしますが、ベルグソンに言わせれば時計の時間は空間としての時間であって、本来の時間ではない。
そして時計の時間は天体運動を基準に作られたものですが、現代の時計は光の速度やセシウム周波数に基準を取った原子時計もあり、別に天体運動でなくても、規則的なものなら何でもいい。
たまたま天体運動が地上で観測される運動の中で季節に左右されることなく、もっとも規則的だったので、それに基準を取ったにすぎない。
たとえば、あなたが、桜の木から花びらが風に吹かれて飛び散っている光景を見ているとして、果たして時間があり、その時間が流れているか、といったら、時間があっても無くても、花びらは桜の木から、飛び散ります。
時間と出来事は別です。
それを認識するために、私たちは時間というフィルターを通して、光景を見ているにすぎない。
運動は流れたり、変化するかもしれないけど、時間そのものは二次的な派生体だから、流れたりしない。
出来事が流れるから、それを私たちは「時間は流れる」と言っているにすぎない。
時間は「公的なもの」ですが、それを「私的に」感じることはできます。
つまり主観的に。
そこから、あなたの言う「時間を作る」という考え方が出てきます。
「公的なもの」を「私的」なものとして「作る」ということです。
時間は「公的なもの」ですから、個人が勝手に作ることはできないけど、それを主観的に、「私的」に作ることだったらできます。
「楽しい時間」とか「祭りの時間」とか、「仕事の時間」とか。
そして時間は「公的なもの」ですから、誰かと共有するのは当然です。
「田舎はゆったりとした時間が流れている」というのも同じ、主観的な時間、「私的」な時間です。