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時間は存在しないが創る?

時間は人が考えた観念、概念で、天体など運動しているにすぎないなど。 そう読みましたが、 楽しい時間を作る。ある祭りの時間、仕事の時間、誰かと共有する時間など創りますね。 田舎はゆっくりした時間が流れているとか。 時間が観念なのに、勝手に個人が概念を作ってはいけないですし。 でも、楽しみの時間、公私の時間などは創りますよね。 ある場の時間ってやはり誰かが考えた概念なのでしょうか? 観念やバイアスだけで流れても困りますね。 どういうときに主体持って創っていいのでしょうか? 連続したものをどういうときに自律性で作っていいのか。

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回答No.1

まず、観念と概念は違いますから、区別しないといけません。 よく観念というと、フィクションだとか、幻想だとか、そう考える人が多いと思いますが、デカルトやロックやカントにとって、観念とは実在です。 ご飯を食べることも観念、旅行に行くことも観念、そしてセックスすることも観念です。 それに対して概念というのは、基本的に言葉です。 ある物事を大雑把に一括りして呼ぶ時に概念といいます。 だから観念と概念は違います。 「時間は人が考えた観念、概念で、天体など運動しているにすぎない」 アリストテレスは「自然学」の中の、時間についてで、時間は運動を「その前」と「その後」に分割して、その数を数えることといい、時間は運動そのものではないが、運動と切り離せない、とも言いました。 つまり、時間というのは運動に基礎を置く派生体ということで、派生体という意味では実在とは言えないかもしれませんが、運動に基礎を置くという意味では、実在でもあります。 ベルグソンは「意識に直接与えられているもの試論・時間と自由」の中で、運動・持続・変化を知性は知ることはできないが、人間の直観によって、それを知ることができると言って、「純粋持続」の時間がある、といいました。 つまり人間の知性は静止したもの、固定したものは知ることができるけど、運動するもの・持続するもの・変化するものは捉えることができない、それを捉えるとしたら直観である、と。 そうしてベルグソンは量的差異のほかに質的差異としての時間があるといい、それを実在と考えました。 このベルグソンの時間論はだいたいアリストテレスの時間論によく似ています。 もし、あなたが時間というものをフィクション、人間が作ったものと考えているとしたら、それは間違いです。 だから、時間は人間が勝手に作ったりできません。 あなたの仰る「楽しい時間」とか「祭りの時間」とか「仕事の時間」とか「誰かと共有する時間」とか、「田舎はゆっくりとした時間が流れている」とか、そういう時間は実在としての時間を念頭に、そのメタファーとして、二次的に作ったもの、それこそフィクションです。 アリストテレスのいう、数としての時間は、運動を測定するための時間で、いわば量としての時間で、ベルグソンに言わせれば、時間は空間ではないのですから、長さを持たず、広がりを持たず、測ることはできない。 たとえば、私たちは時間というと時計の時間をイメージしますが、ベルグソンに言わせれば時計の時間は空間としての時間であって、本来の時間ではない。 そして時計の時間は天体運動を基準に作られたものですが、現代の時計は光の速度やセシウム周波数に基準を取った原子時計もあり、別に天体運動でなくても、規則的なものなら何でもいい。 たまたま天体運動が地上で観測される運動の中で季節に左右されることなく、もっとも規則的だったので、それに基準を取ったにすぎない。 たとえば、あなたが、桜の木から花びらが風に吹かれて飛び散っている光景を見ているとして、果たして時間があり、その時間が流れているか、といったら、時間があっても無くても、花びらは桜の木から、飛び散ります。 時間と出来事は別です。 それを認識するために、私たちは時間というフィルターを通して、光景を見ているにすぎない。 運動は流れたり、変化するかもしれないけど、時間そのものは二次的な派生体だから、流れたりしない。 出来事が流れるから、それを私たちは「時間は流れる」と言っているにすぎない。 時間は「公的なもの」ですが、それを「私的に」感じることはできます。 つまり主観的に。 そこから、あなたの言う「時間を作る」という考え方が出てきます。 「公的なもの」を「私的」なものとして「作る」ということです。 時間は「公的なもの」ですから、個人が勝手に作ることはできないけど、それを主観的に、「私的」に作ることだったらできます。 「楽しい時間」とか「祭りの時間」とか、「仕事の時間」とか。 そして時間は「公的なもの」ですから、誰かと共有するのは当然です。 「田舎はゆったりとした時間が流れている」というのも同じ、主観的な時間、「私的」な時間です。

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回答No.6

作りたいときに作ればいい 人間は どこまでも自由だ それを縛るのは 自分に以外にはない クオーツが固有の振動数を持つ なぜか? ものと時間が実は同次元にあるからだ

  • hekiyu
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回答No.5

時間には実体たる時間と、概念の時間とがあります。 物質の変化を時間といいます。 だから時間は概念ではなく、実体です。 楽しみの時間とか、仕事の時間てのは 概念の時間のことで、実体の時間とは 異なります。

noname#208196
noname#208196
回答No.4

私の書き込みから疑問を持ったのでしょうか。 あまり言及したくないのですが、 直線的時間とか円環的時間とかそういうのです。 それで教相判釈は中国で始まっていますから、 日本での仏教の古い新しいとかは中国の影響が大きいのではないか? まあ、ヨーロッパから仏教学を輸入したのならヨーロッパの影響でしょうけれど。 時系列に並べる歴史も発明というか思想というか。 そういえばパーリ語聖典の分類は時系列とか歴史順ではないですね。 仏典を編纂しようとした人は時系列には関心がなかったようです。 配列が時系列ではないから、こうしてどれが古い新しいと調べていたわけですから。

回答No.3

「物理法則は時間独立である」と言われる。 時間の経過を前提とせずに、物理法則は成り立っている、 という事だ。 それは相対性理論における4次元時空において、時間軸の 方向は、相対運動によって異なる方向になる、という事実 (絶対時空の否定)につながる。 そもそも、相対性理論の「光速で運動すると時間停止する」 という点で、存在の奥に潜む階層現象性(意識体(脳)>細胞 >分子>原子>素粒子>クォーク>超弦(量子定常波))に おいて、本質的に光速に還元される=時間経過は階層現象性 に基づく非光速性に由来して流れる、仮想的なものだと言える。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に 詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に 認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動(時系列化= プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用 パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)として の宇宙を認識するのだ。

回答No.2

自然科学では時間は変数です。 この意味するところは「時間だけを取り出して議論する意味が無い」ということですから、まずはこれを押さえておく必要があります。 ===変数に関するおさらい=== 数学、特に解析学において変数(へんすう、英: variable)とは、未知あるいは不定の数・対象を表す文字記号のことである。 代数学の文脈では不定元(ふていげん、英: indeterminate)の意味で変数と言うことがしばしばある。 方程式において、特別な値をとることがあらかじめ期待されている場合、未知数(みちすう)とも呼ばれる。 また、記号論理学などでは(変数の表す対象が「数」に限らないという意味合いを込めて)変項(へんこう)とも言う。 ===出展 Wikipedia=== 自然科学が時間が変数にすぎないことを解明した以降、哲学ごときが時間だけを取り出して云々する意味は薄れました。(まあ、時間つぶしにはなるが、、、) 残された領域は心理学でしょうか。 心理学では時間は属人的です。 「朝飯喰ってから昼飯までの時間」を長いと感じるか短いと感じるか、などが心理学のテーマになるのかもしれませんが、回答は属人的で、答えが一致することもないし、一致する必要もありません。

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