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それぞれの考え方があると思いますが・・・
なぜ私たちはテツガク(哲学)を学ばなくてはいけないのでしょう? この質問こそ哲学の問いっぽいですけど・・・学ぶことが必要ということを前提に皆さんの考えを教えて頂けませんか?ちなみに私は理系ですがちょっと興味がありまして・・お願いしますm(__)m
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それこそ、あなたの仰るとおり、 それぞれの考え方があると思いますが・・・ ということを先に申し上げておきますが、 哲学を学ぶ意味はありません。 ということを悟るために哲学はあると いうのが、私の今の結論です。 なぜなのかというと、 哲学は、人間如何に生きるべきか?と問い掛ける学問 であるはずなのですが、 1)もし、人間が単なる偶然に生まれてきた宇宙の塵にも 等しい、産物でしかないのなら、 創造目的が最初からないので、存在目的が本源的に ありえない。ゆえに、存在価値も生来ありえないことに なりますので、如何に生きるべきか?という答えが あるはずがない! ただただ、国家権力という枠組みの中で、その公権力に 制限された範囲内で、かって気ままに生きればよいという ことになってしまう・・・善も悪も本源的にはない。 ただ、国家の法律に違反したら悪・・・というだけに 過ぎない・・・もちろん、良心に従って生きるべき でしょうが、良心は、神様から与えられたものだと 思いますので、哲学では、学問できない領域でしょうね・・・? 限界があります。 論理的ですよね?間違いないですね? 2)もし、人間が単なる偶然ではなく、願われて生まれ てきた、すなわち、創造主なる神によって創造されたのなら、 創造された目的があるはずでしょうから、存在目的が あるはずです。ゆえに、存在価値がとりあえず成立する。 というわけなので、とにかく、存在している何らかの 価値があるわけです。(神様にとって・・・) つまり、人間如何に生きるべきかは、 神様の創造目的に合致した生き方をすれば、 最高度に存在しているその価値を発揮することになる わけです。これが答えです。論理的でね。 間違いないですね? ということは、原因的存在である神様を知らなければ ならないわけで、なのに、結果的存在である人間だけを いくら研究してみても、あるいは、人間だけで人間を いくら調べても、どうして存在するようになったのか 分かるはずがないということなのです。 つまり、哲学は、結果的存在である人間達だけで、 自分の意志で生まれてもいないのに人間自身を 考えよう、としたところに、そもそも重大な過ち・ おごり、があったのではないでしょうか?? そのテーブルにどうしてカレーライスが置いてあるのか? は、カレーライスをいくら調べても分かりません。 存在している目的は、カレーライスを作った方の中に あるのです。カレーライスの中にはありません。 人間が存在している目的があるというのなら、 (すなわち、人間に、生まれながらの人権や尊厳性など という存在価値があるというのなら・・・) 人間の中にその目的があるのではなく、 人間を創造された神様の中にあるのです。 それを考えずして、人間の価値を人間の中に見出すことは 到底不可能なのです。人間の本質を理解することもです。 ですから、哲学ではなく、宗教を求めなければならない のです。 「人間如何に生きるべきか?という最高原理を 人間は今喪失しているのです。 ですから、普遍的な宗教が人類に必要なのです。」 かつてロシアの文豪トルストイはそのように 言われたそうですが、全くの同感ですね・・・ それでは、どうも失礼します。
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- sowow
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数学も物理学も元々は、 「世界とはいったい何なんじゃ?」 という哲学的質問から生まれた。 ていうか、全てはそこから始まった? ・・とか思いました。
- BadCompany
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哲学とは,人間が営んできた思考の積み重ねであり,財産だと思います。 例えば,ナチスの行為について我々は学ぶことが沢山あります。 一般的には, キリストの処刑の責任はローマ総督のピラトにあります。 しかし,キリスト教がローマの国教として公認されるようになると,今度は,ユダヤ人がキリスト処刑に対する罪人としてスケープゴートにされるようになりました。 その後,ヨーロッパにユダヤ人排斥運動(Antisemitism)が生まれ、ポグロムが行われ、やがてナチスが台頭した。 そして,当時のローマ法王はナチスのユダヤ人迫害について容認をした。 ヒトラーは,「自分は教会がやり残した仕事をやり遂げるだけだ」と豪語してユダヤ人虐殺を決行した。 キリスト教徒は過去にも十字軍遠征や異端審問などを行っている。 各個人にとって,宗教は大事かもしれませんが,それが政治と結びつくことによりたびたび悲劇が繰り返されています(現在ではアメリカのキリスト教右派など)。 フランスでは,哲学を教育の重要な柱の一つとして力を入れています。 フランスではカルトの認定などを行い,将来,危険を及ぼす可能性のある宗教に対して警告を発しています。 日本はオウムから,一体,何を学んだのだろうか? 破防法の適用なども,創価学会などの反対によりなあなあになってはいまいか。 思考停止になっている場合ではない。 政治家にとってはくみしやすく,楽な国民なのかもしれないが… 日和見主義者が闊歩している間は,平和は訪れないような気がしてならない。 考える葦でいることが,人間であることのあかしかもしれん。
- tomozoukun
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学ぶことが必要ということを前提とするならば、 まず哲学的な考察が出来なければ、一つの重要な科学の枠組みの中にある推論ができないからですよ。 その方法論やヒントを与えてくれるのが、過去の偉大な哲学者達が残した既存の哲学ということです。 そもそも、 この世は何故存在しているのか?偶然に存在したのか?必然なのか?とか、それを理屈で解明したいという哲学的な考察こそが、科学の始まりです。 悟性的な実在する概念を数字というものに置き換えることによって、数学も生まれました。 しかし哲学のそもそもの根本的な問いかけに、現代科学はまだまだ明確な答えを用意できませんし、確認もできません。
6です。 念のため、一つ補足しておきますが、私の文章は信じることで納得いかないことを、悪とか傲慢として切り捨てているわけではありませんので^^。そのことに、善悪の意味があるとは思っていません。
哲学といっても、いろいろあります。たとえば、倫理学とも重なりますが、倫理というものの根拠を考えるのも哲学です。もともと二つは、兄弟のような関係にありますしね。 質問者さまは、理系でいらしゃいますから、理系の問題意識(かな?)にそって例をあげれば、人のクローンを作ることは善なのでしょうか? 悪なのでしょうか?という問題などがあります。 これは宗教の分野だと思われるかもしれませんし、宗教の分野でもあるのですけども、宗教ではおしいことに信者以外にはその言葉が普遍性を持たないことがあります。 クローンはいけない、なぜなら神様の領域だから、というので納得する人ばかりではないしょう。 宗教からは、その宗教で禁じられている行為に対して、行って良いという評価は基本的に出てきません。 議論して行くには、仮に宗教信者であれ、哲学的思考が必要になってきます。私は、一応、仏教信者ですが仏教の教えで、物事を考えても、それを世間に説明して行くには、普遍的な哲学的概念ははずせません。それがないと独善になります。 つぎに、こうした議論とは別に、個々人の信念に関わる部分があります。宗教は、ほとんどの場合、信仰が前提にありますので、宗教では~かもしれないが私は~だと思って行うという個人の生き方を、自律的に決めていくということは要素は薄いです。 私は神を信じないという信念や生き方は、哲学的立場からは認められても宗教的立場から容認することは一般的には困難です。生き方を自由に、自律的に決めるということ(ひょっとして神の目から見て間違いもあるかもしれませんが、そういったリスクも自分で背負って)が、すでに哲学的な行為なんです。対人関係において、たとえば人の悪口は決して言わないと決めている人がいるとします。神様がそうしなさいと言うからとか言うのではなく、自分で考えた方針であれば、それも哲学ですね。 実質的な必要性というか、有用性といったらこんなところが主になると思います。 でも、哲学の源流からいえば。 もともと、哲学者と理系科学者は、同じ畑から出てきたものですので、そもそもは、世界を自分の手で、理解・再構築したいという人々だったということですね。宇宙とはどうなってるんだろーとか、自分とはいったいなんなのだろーとか。両方とも、信じることでは、納得のいかない人たちですね^^。
>この質問こそ哲学の問いっぽいですけど・・・ ハハハ、そう思いますよ。 学ぶことが必要、というよりは 放っておいても哲学的てしまう より正確に言えば「真理とか本質とか絶対といったものを 求めずにはいられない」のが人なのではないかと思います。 求めずにはいられないとはいえ そのレベルは人それぞれでしょう。 中にはかなり求道的に求めがる人がいる。 そういう人にとって先人の考えを参照するのは 有効な手段だと思える。 そんなときの哲学なんだと思います。
- nabayosh
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私にもわからないので、他人の説を。とはいえ、古代ギリシア時代の方の発言なので、それが役に立つかどうか…… (「哲学を学ぶことによって何を得たか」と問われて) 「自分自身と対話する能力だよ」 他人と対話するのは簡単は簡単です。言葉を交わして話せばいいのですから。もちろんそこで相手の気持ちを考えるだとか、どういう風に切り出すかとか、いろいろな方法を学ぶのも必要です。 しかし同様に、自分の気持ちを考え、自分というものにどう向き合うか、という方法も学ばなければいけません。自分のことをわからないまま人生を終わるのは何か空しいものです。 同じくギリシア時代にはスローガンとして「汝自身を知れ」というものがありました。立法者ソロンの言葉とも、パルナッソス神殿にあった神託とも言われていますが、要するに「自分は何者なのか」という問いが西洋哲学のはじまりです。 時代を下るにつれ、社会というものが複雑になったせいで、哲学も複雑になりました。もっと簡単に言えるであろうことをこむつかしく言ってしまうような、そんな哲学が増えてしまったような気がします。「自分とは何か」という問いに対する回答も、多く出ました。 しかし、「自分とは何か」という原点を考えようとした時に、過去の哲学者の意見はあくまで参考にすぎず、自分自身で答を見つけなければなりません。だから哲学は必要だ、という風にいうしかありません。 「自分のことになんか興味ないよ」という人もたまにいますが、自分のことに興味をもたない人は、おそらく一切のことに無関心か、よほど1つのことに打ち込みすぎているか、どちらかでしょう。
ねばならぬというより、してしまうってとこでしょう。 大脳の肥大化と本能の退化で、宿命的作業になったってことです。
- livimex
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哲学を学ぶ、というのは、既存の哲学思想を学ぶ、ということでよろしいでしょうか? 広い意味での哲学とは、ある問題に対してその答えと納得の行く論理的な根拠とを示す事ではないかと思います。 その際、先人の膨大な思索を基盤に持っていると、答えへの到達が容易になるから、学ぶわけです。 人間生きていれば、好むと好まざるとに関わらず、心の内に問いが生まれてきます。過去に考え抜かれた考え方や見方を使って、そうした新しい問いを解釈する、問題の本質が何なのかを探る、哲学の目的はそこにあると、個人的には考えています。
お礼
確かに!!一度問われた問題を容易に解くために他の人の業績?考え方いわゆる哲学思想を学ぶわけですね。ありがとうございました。
お礼
哲学を学び必要ないことを理解し宗教を学べば人間如何に生きるべきか?という最高原理に到達できるわけですね。とても参考になりました。ありがとうございます。