• 締切済み

思考停止に陥る

哲学は無限。思考は有限。 問いに対する答えは問い。 知りたいのに、絶対知れない。 やめたいのに、止めれない。 哲学は進歩していない。 危ない。危ないですね~哲学は。 もはや私にとって哲学は恐怖の対象にしかなり得ません。 ドMの私でも、哲学の拷問には耐えれそうにありません。 これは誰?この世界は何? 皆さんは大丈夫なんでですか? なぜ大丈夫なんですか? 絶対にわからないことを必死に議論する意味ってなんですか? 哲学から身を守る方法おしえてください。

みんなの回答

  • mintarou1
  • ベストアンサー率30% (22/73)
回答No.12

. 簡単だと思いますよ。 答えは、ちゃんと哲学することですよ。 失礼とは思いますが、あなたの、「質問」他の人への「回答へのお礼」を読むと、とても哲学しているとは思えません。 自分で、やっていることを勝手に「哲学」と称しているだけと思われて仕方ありません。 どうしてそう判断するか? (あなた自身が、一番良く知っていると思いますが・・・・) 質問で、あなたが哲学に対する正しい認識を欠いているのが明らかです。 例えば、 ・哲学は無限。思考は有限 と書いてありますが、哲学は思考です。これは、哲学は無限、哲学は有限と言っていることと同じです。 ・哲学は進歩していない 哲学書を読めば、過去の哲学を踏まえ思考し、問題点を指摘し、そこを中心に思考して問題点を埋めて進歩している事が分かります。 あまり、多くは指摘しません。 哲学書をちゃんと読んで下さい。 それから、哲学には、長い間正しい結論に至るよう、間違った結論に至らないよう。 (同じところで、ぐるぐる回らない様)培われてきた、考える為の方法論があります。 例えば、考えるための方法論の本としては     論理トレーニング    野矢茂樹  産業図書株式会社     論理トレーニング101題   々      々 が、売れているようです。 又、同哲学カテゴリの中での質問 「論理学」または「科学哲学」のお勧め入門書の質問 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5446317.html が参考になると思います。 頑張って下さい。 (独り言::yy8yy8azさんは、「やはり、人間は馬鹿なのだろうか」の問いへの、回答はすばらしいな~) .

orayama
質問者

お礼

mintarou1様、具体的かつ率直なご意見に心から感謝いたします。 >答えは、ちゃんと哲学することですよ。 いやはや、おっしゃる通りです。高校の時に、倫理を学んで興味を持った程度です。単なる知識不足ですね。。。 >自分で、やっていることを勝手に「哲学」と称しているだけと思われて仕方ありません。 その通りだと思います。私自身が勉強して、一般的な「哲学」の定義について十分理解する必要があると思います。 つまり、適切な「哲学」を身につけるには、まず論理的思考方法のトレーニングをして、「哲学」に対する理解を深める必要があるということですね。 私自身、「哲学」に対する認識の甘さを理解しました。 どうやら、私には荷が重い学問のようです。 皆様ありがとうございました。

  • gigamax2
  • ベストアンサー率27% (170/628)
回答No.11

こんばんは。 思考が無限である事に気がつけば解決するのですが・・・。 そして思考が現実化の一因でもあることを付け加えておきます。

orayama
質問者

お礼

お礼が遅れてしまい申し訳ありませんでした。 回答ありがとうございます。 思考って無限なんですか?!!これは初耳です! これは難しい・・・ちょっと今はあまり考えたくないので・・・すみません・・・ 思考が現実化の一因であることについては理解しているつもりです。 こちらに関しては、"考えたことは現実に再現することができる"という意味であると私は解釈します。

回答No.10

 私の補足質問に答えていただき、ありがとうございました。  いきなりですが、前回の質問「感情を哲学的に・・・」は適当ではなかったように思うので、取り消したいのですが。  そしてさらに考えてみました。  互いに密接な関係にある状態を、車の両輪に例えて言ったりしますが、この例えは、一輪車ではバランスが取れなくても二輪車ならだいぶバランスは取りやすくなる、という事でもあります。  理性と感情は車の両輪であると、捉えてみてはどうでしょう。  理性は一人でもというか、一人のほうが働かせやすくなると思いますが、感情は他者との交流によって、その性能を効果的に働かせ、また発達させる(能力を高める)事ができるように思うのです。  哲学するならば、感情の能力も高める事が必要ではないでしょうか。  車の両輪に例えるならば、両方の輪の大きさが同じでなければ傾いてしまいます。  そのように理性と感情のバランスをとって、哲学する事が必要かと思います。  考えが浅く、軽いのが恥ずかしいですが、こんな事を考えてみました。    

orayama
質問者

お礼

yy8yy8az様、再度のアドバイスに心から感謝いたします。 yy8yy8az様の本意について理解できている自信がありませんが、お礼をさせていただきます。 >哲学するならば、感情の能力も高める事が必要ではないでしょうか。 勉強不足もあり、今の私にはこの辺が理解できません・・・ 今は欲求から思考が走っている状態なので、私自身は感情に振り回されている状態に感じています。 感情を高めるということは、喜怒哀楽よりももっと細分化された深い(?)感情を身につけるということでしょうか…うーん…すみません ん?いや、むしろyy8yy8az様は私の悩みの原因が感情によるものであることを認識したうえでのアドバイスであるとするならば・・・なるほど。 今ぼんやりと何かが見えました・・・。 また、他の回答者様の中に、yy8yy8az様の同意者がいるということは、私が一般的な"哲学"というものについて理解が足りないということであると解釈いたします。 なんだか疲れたのでしばらく"私流哲学"はお休みします。 エネルギー消費激しい・・・

noname#98608
noname#98608
回答No.9

こんにちは^^ 人間は、生きることが[哲学]そのもの。 そ・れ・だ・け☆ 思考停止→死の意味†

orayama
質問者

お礼

お礼が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。 回答ありがとうございます。 生きることが哲学そのものであることは理解しているつもりです、 しかし思考停止が死につながるといえるのかどうかについては同意致しかねます・・・全ての言葉の意味があいまい過ぎて、伝えていただいている意味を受け止めることができませんでした。 ありがとうございます。

noname#118718
noname#118718
回答No.8

>niki00001様の区分でいえば、論理哲学派になるのでしょうか・・・ 絶対わからないことへの知的欲求・・・これこそが私にとっての悪であり、善でもあるようです。 強いて言えば論理哲学派なのですね。 宗教哲学派かと思ってました。 私の経験から言えば、絶対わからないことへの知的欲求は感じたことはありませんが、解いても解いても不明点が生まれる状況を目前にして人生の儚さに思いが至ったことはあります。 では、人生の儚さに対してどう折り合いをつけたかですが、 結局、次世代の人間に希望を託しました。 そのことは、必然的に今の社会における市民としての責任感に通じ哲学漬けを回避することになると思います。 ご参考になればうれしいです。

この投稿のマルチメディアは削除されているためご覧いただけません。
回答No.7

人間には二つの思考方法が有ります。一つは左脳で考える事です。是は貴方が今やっている事です。左脳の分別脳で考える事は全てが壁にぶつかってしまいます。それは有限の壁です。左脳には有限と云う壁が有ります。有限と云う言葉が物語っています。割り切れるものと云う事です。 今の貴方の悩みは有限の壁を越えられない処に在ります。それは貴方の頭の仕掛けに在ります。脳の機能の事です。割り切れない問題を分別脳で解こうとしている事によります。割り切れる問題、この事を有限と云う名前が付けられています。 貴方が知りたい事は割り切れない問題の答えかと思います。この答が「永遠」と云う事になります。割り切れない問題の答えの事を「無限或いは永遠」と云う風に名前が付けられています。それは「矛盾」する問いかけの事かと思います。矛盾している問いは分別脳では解けません。この事は長い歴史が証明しています。 この矛盾をした問題が「宗教文化の発展を促しています」人間の意識を悩ませて来ました。もう既に仏教で言うならば2,500年間です。キリスト教で云うならば2,009年間の事になります。 この有限の壁を超える方法が日本には在ります。それは「禅問答」の中にあります。分別脳の機能では解けない問題を解く方法の事です。それは「分別を捨てる」と云う方法です。答えを見つける事を急がない事がコツとなります。 左脳の機能では解く事が出来ない事を体得させる方法です。右脳の意識「仏性」が出てくる方法です。この右脳の意識と出会う事を「悟りが開く」と云います。有限の壁を超える事が出来る方法です。 禅問答が解けた時の事を「生死の問題が解決した」と云います。永遠の命が既に自分の中に持っていたと言う事を体得する瞬間の事です。 あせらない事が大事です。いつの日か分かる時が来たら分かるかも知れない。と云う風に気長に構えた方が良いと思います。

orayama
質問者

お礼

お礼が遅れてしまい申し訳ありませんでした。 回答ありがとうございます。 なるほど、大変興味深いご意見をいただき感謝いたします。 仏教的観点からのアプローチをしてみれば、また違った答えを得られるのかもしれませんね。ありがとうございました◎

noname#99989
noname#99989
回答No.6

頭ん中だけでやっててもダメだね。実体がないから。

orayama
質問者

お礼

hrk5様 回答ありがとうございます。 つまり実体がないものを追いかけても、無意味であると・・・ しかし実体がないからこそ脳内で思考していくしかないのではないかと・・・ うーん… 無意味って本当に無意味なんでしょうか…

回答No.5

 補足質問させてください。  orayamaさんは、人間の精神の活動に、意志、理性、感情、がある事は知っていると思います  記憶や意識という能力については、ここでは、考えなくても良いでしょう。  orayamaさんは、感情について哲学的?に、考えてみた事はありますか。  あるならば、どう受け止めているのか聞いてみたいです。  感情についての考えがまだ、固まっていないのならそれでもいいのですが。  とりあえず、お気持ちを聞いてみたいです。  よろしくお願いいたします。           独り言(答えられるか心配だなぁ)

orayama
質問者

お礼

yy8yy8az様 回答ありがとうございます。 感情を哲学的に考える・・・ですか、あえて言いかえるならば、 感情の本質とはなにか・・・ですよね。 では本質とはなにか・・・真理、根本、原則・・・ 本質とはなにか・・・ 本質とはなにか・・・ 本質ってなんですか?w 本質って実は1つのようで、実は拡散するような代物・・・ 収束、拡散を繰り返す波のような・・・ しかし1つとして同じ収束点はない・・・ でも、ときどき現れるその収束点を集めてみたら、結局どこかに収束するのでしょうか? うーんー・・・ どうやら思考が螺旋を描いているようです。 つまり、この思考の螺旋が感情の本質ということでしょうか… どうやら私はアホのようですw

  • the-star
  • ベストアンサー率60% (3/5)
回答No.4

無限である哲学をするのは人間だけです。 しかしおっしゃるとおり、人間は有限です。 ここですでにパラドックスが起きています。 超えたい気持ちはわかりますが、 これを超えては行けません。 迷宮です。 哲学のスイッチを一日5時間は切りましょう。 無理してやめる事はありません。 しかし、哲学のために哲学してはいけません。 私は大丈夫です。 目的が生活にあるからです。

orayama
質問者

お礼

the-star様、早速の回答ありがとうございます。 正直に言いますと、超えたいです。 誰もが納得する答えが欲しいです。 問いに対する問い、に対する問い、に対する問い、に対する問い、に対する・・・おれ? 哲学って怖いってわかっていたはずなのに、どこで道を間違えたのか(そもそも間違っているのか?)こんなんになっちゃいました。 哲学のスイッチが、これまた固くて固くてなかなかOFFにならないんですよ…しかも自動でONになるしw しばらくは脳内リハビリの必要がありそうです。

noname#98473
noname#98473
回答No.3

焦らないこと。

orayama
質問者

お礼

ke-two様、早速の回答ありがとうございます。 哲学は無限。思考は有限。 これでは焦らずにはいられません。 自分の中で何かに対する内なる答えを求めているはずなのに、死ぬまでにはたどりつけない・・・ ではなぜここまで欲求が高まってしまうのか・・ 思考停止を含めた意味での思考の有限性? 焦っています・・・

関連するQ&A