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他者を感じるためには
皆さんに質問します。私は時々世界には自分一人っぽっちしかいないんじゃないか?などと自己中心的な考えに陥ってしまう時があります。皆さんにも少なからずそういう傾向は有ると思うのですが、そんな時どうやって他者を確認しようとしますか?あまり深く考えないで率直な意見を聞いてみたいです。哲学、あるいは宗教観に捕われない考え方も聞いてみたいです。 ちなみに私は23歳の男です。
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まずはご飯を食べてみると良いでしょう。 ラーメンを食べに行くだけでもいいです。 「このラーメンが出来るまでには、何人の手がかかっているのかな」と思いをはせれば… 小麦を作る人、小麦を粉にする人、粉を詰める人、運ぶ人。 小麦粉を麺にする人、麺をチェックする人、麺を運ぶ人、売る人、買う人。 ここでようやくラーメン屋さんがラーメンを作ってくれます。 麺だけでもこれだけ手間がかかってるんです。 自分ひとりぼっちだったら、小麦すら育てられないですよね? これがスープや具、あるいはドンブリ、割り箸、なんてなったら、あなたの目の前のラーメン1杯に、どれだけの人手がかかっていると思います? それを理解できたら、もう「この世には自分しかいない」なんて傲慢な考えは沸いてこないですよ。 両手をあわせて、ラーメンを自分の目の前につかわしてくださった皆さんのことを思い浮かべながら、「いただきます」して食べましょう。
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- neterukun
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ご機嫌いかがですか?neterukunです 前はそういうこともあったかもしれないけど 最近はあまりないですね。 実際簡単な方法は 「携帯電話のアドレス帳」を見る じゃないでしょうか? 親しいからメアド交換したわけだし、 こんなにたくさん自分とつながっているホットラインがあるって確認できますよね。 携帯がない人はPCのアドレス帳でもいいと思いますよ。 がんばってください。⌒(*^∇゜)v
お礼
返答が大変遅れまして申し訳ございません。良回答ありがとうございます。 neterukunさんの携帯電話のアドレス帳を見る、を試してみました。 希薄です。なぜなら携帯電話のアドレスは単なる文字でしかないように思えるからです。 しかし、neterukunさんの言うように、想像力を働かせて思いを馳せることが大事なんだ、と思うようになりました。そうすることでしか、体を交わらせる以外に他者を確認するすべがないのかも知れません。 neterukunさんの回答、大変参考になりました。
- yu-taro
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yousuke010さんこんばんは。 私の一人ぼっちは、実際にそういう場所に行く事で認識します。高くはなくても山歩きしていて1~2時間誰にも合わない時はこのまま一人ぼっちになってしまったらどうしようという事です。ちょっと例えが違うかもしれません。 山歩きでも城跡などを捜してあるくのでかつても古戦場だったのかもしれませんし、戦国の世では刀を持ってここで多くの武士が戦ったのだと思うと不思議な感覚になります。そういう場所には祠がある場所もあり、必ずお参りしてきます。 でも自己中心的にはなりませんね。今の自分がいるのは祖先があってこそで、自分一人で生きて来られた訳ではなく、必ず親や周囲の人に支えてもらって生きてきたと思っています。 ちよっと話はそれますが、阪神大震災があった日私は休みを取って関西方面に遊びに行っていました。当日は滋賀県にいて震度5で地震で目が覚めましたが、昼過ぎまで大きな地震だということは知りませんでした。神戸にも知人がいたので次の日に行こうからと思っていました。もし、一日出掛けるのが早かったら地震に巻き込まれて、こういて回答を書いていられなったかもしれません。何か見えない大きな力が私を助け、まだ働いて世の中ために尽くせと言われているような気がしています。特に宗教は信仰していません。 つまり、自己中心ではなくて、周囲の人や見えない力があって自分は存在しているのだと私は自分の事を思っています。yousuke010さんの考え方を否定するものではありませんので念のため。
お礼
返答が大変遅れまして申し訳ございません。良回答ありがとうございます。 yutaroさんのいう、私がうまれる以前、あるいは私の周囲にいる人が、私に多大な影響を与えていると最近非常に感じるようになりました。そう感じることで私の世界が物凄い勢いで広がっていくのを感じています。 私はただ、斜に構えていただけなのかも知れません。 自己にこだわり、他者を受け付けなくなっていた。 ただそれだけの事なのかも知れません。 yutaroさんのいう、見えざる力を、私はいつか知ることができるでしょうか。
- ribisi
- ベストアンサー率28% (247/864)
そういわれてみればわかる気がします。 自分が認識できるのは自分自身だけですからね。 他人のことは、想像するしかないし、それにしたって他人の気持ちというのは雲を掴むようなものです。 隣に重病人がいたって、その痛みはちっとも感じられませんからね。想像もしにくいし。 他者を確認する必要がありますかね? 思いつくのは、芸術(文学、音楽、映画など)に触れたときでしょうか。 感動する、心が動くというのは、何かが共鳴したわけで、それは作者と自分との共通した思いだと思うのですが、そうしたときに他者を感じることは可能だと思います。
お礼
返答が大変遅れまして申し訳ございません。良回答ありがとうございます。 私は生きている限り他者を確認し続けたいです。そうすることが私の生きている存在価値を確立するように思えるからです。ribisiさんの回答の前半部分はその通りだと思います。私には想像することしかできない。そのことについてとても心苦しくなります。偽善であると言うのではなく、私自身が他者と交わりたいのです。
- rnys
- ベストアンサー率0% (0/1)
一人ぼっちの感覚がどのような意味での一人なのかわからないので上手く答えられませんが、仮に夢のような状態でのひとりとして考えてみたいと思います。 寝ていて見る夢には、自分はもちろん他者も存在します。しかし実際には、自分の夢には自分しかいません。同じように、現実の世界でも自分のみが存在し、他者は存在していないのかもしれない。 仮に夢で一人ぼっち感を感じ、一人ぼっちを信じたら、それは夢だと気がついたと言うことだと思います。そうしたら何をしますか。すきかってなことをするのではないのでしょうか。 しかし現実で一人ぼっち感を感じて、好き勝手なことをしますか。恐らくしないと思います。それは一人ぼっちを信じきっていないから、つまり他者の存在を心のどこかで認めているからではないのでしょうか。 こう考えると、一人ぼっちと感じてはいるものの、ちゃんと他者も確認できていると思えませんか。
お礼
返答が大変遅れまして申し訳ございません。良回答ありがとうございます。 rnysさんの言う通り、私は他者の存在を確認できています。というより、他者の存在を絶対的に信じています。信じているからこそ、ふとした瞬間、例えば夜一人で寝ている時に、ああ、自分は自分を抜けだせることができないんだな、等と考え鬱に入ってしまうのです。
お礼
返答が大変遅れまして申し訳ございません。良回答ありがとうございます。 silverhawkさんの回答を見させていただいてから、自分の世界(本当の世界)が広がりました。私はこれまで、例えると、止まっている物しか見ることができず動いている物を見ようとしなかったように思えます。 昔、視野が狭いと人から言われたことも思い出しました。 とてもすばらしいことを教えて下さって、silverhawkさん、ありがとうございます。