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徳川慶喜
15代将軍になったのに、彼やその子孫が明治以降本家筋と見做されていないのはなぜでしょうか。やはり鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡したことを一族から非難されたとかですか。
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>彼やその子孫が明治以降本家筋と見做されていないのはなぜでしょうか。 明治政府が、慶喜を徳川15代宗家から引退を命令しました。 そして、同時に「徳川宗家16代当主として、田安家から家達を任命」しました。 ですから、今でも「徳川宗家」「徳川慶喜家」と分けて考える事になっていますね。 慶喜は、あくまで15代宗家で下野。徳川宗家は、16代家達が継承します。 となると、旧幕臣は「徳川家の家臣であって、慶喜の家臣では無い」ので本家筋と見做さないのです。 慶喜家の家臣は、あくまで慶喜の家臣として「明治期には、慶喜に従って静岡に下野。お茶の栽培」を行っています。 下野したと言っても、旧「公爵家」ですからね。 東京市(現、東京都文京区)に、莫大な敷地3000坪。建坪1000坪の豪邸に住んでいましたよ。 決して、旧幕臣・一族から非難されていた訳ではありません。 余談ですが・・・。 慶喜家直系子孫は、カメラマンをしています。 カメラ好きの慶喜の血を引いているのですね。^^;
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- kitsunetoneko
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徳川慶喜氏は,徳川将軍職や徳川宗家を継ぎましたが,結局,ほとんど関西に居て,いわゆる,将軍として活動することは,無かったそうで,正室の,一条家の養女から,徳川慶喜氏の妻になった,一条美賀子氏も,江戸城大奥に入ることは無く,いわゆる,徳川将軍の妻や,正室としての,周りからの認識なども,多分,当時,ほぼ,無かったようです..しかも,徳川慶喜氏と,一条美賀子氏の間には,男児が無く,当時の,徳川将軍家の恒例のように,私の前のご回答者様が,おっしゃるように,養嗣子が居た為,通常,その徳川慶喜氏の養嗣子の方が,徳川宗家を継ぐ手はずだったようですので,大政奉還を行い,小御所会議にも,仮病で,出席しなかった徳川慶喜氏が,徳川将軍家の,将軍職などから,完全に降ろされ,薩摩や,長州などの,明治新政府軍側の挑発に乗って,佐幕強硬派の,会津の軍勢などが,新政府軍側と,交戦になった時にも,大阪城に逃げた徳川慶喜氏は,既に,世の中の体勢や,新政府軍側の勢いなどは,十分,理解していたのではないでしょうか‥‥自身が尽力した,神戸港から,江戸へ,船で東下して,速やかに,新政府軍側に,降伏しています..多分,徳川慶喜氏には,徳川将軍家や,将軍職に対する執着などは,なかったのでしょう‥‥明治期には,側室達に,多くの子供をもうけ,自転車に乗り,悠々自適な生活などを,送っていたようです..徳川慶喜氏自身も,徳川家茂氏亡き後,成り行き的に,短期間ではありますが,将軍職に就き,第二次長州征伐にも,出陣せず,あまり,将軍らしいことも,していませんし,養嗣子に,徳川宗家を継がせることに,抵抗は,なかったように思えます..しかし,同じく,当時,将軍だった徳川慶喜氏から,養嗣子を授かった,会津藩主の松平容保氏は,その養嗣子では無く,自身の,側室との間に出来た息子に,後を継がせているようですね‥‥
- 441moe
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他の方の回答に詳しいです。 水戸藩は将軍になれるべべたの位置付けです。 有名な水戸光圀は将軍になれないと決められたらので、すねて女遊び、男遊び、辻斬りに明け暮れ、将軍より天皇が偉いんだぞと大日本史編纂開始しました。 幕末水戸学と言われ、志士達の思想根幹になり倒幕へと続きます。 尊皇攘夷、大政奉還、雄藩連合、船中八策の国体などの考えは、ペリー来航20年前に上奏された水戸学の正志斎の説です。 小説の坂本龍馬の考えはそのパクりです。 ぶっちゃけ、幕府解体して、内閣、議会制の国にしようという考えです。 慶喜、その親父などは子供の頃から叩き込まれた思想です。 紀州、静岡の徳川家に取っては裏切り者です。 鳥羽伏見での敵前逃亡は、薩長の表現です。 当時旗本は軍制改革済ませ、最新銃器で武装した最強部隊でした。 逃げる必要すらない武力優勢でした。 事実は、明治に薩長政府により消されたようで詳細不明です。 ラフに表現すれば、小説坂本龍馬は徳川慶喜だと思えば、見方も史実に近くなると思います。
- eroero4649
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6 こちらの徳川宗家の家系図をご覧ください。八代吉宗以降はいわゆる御三卿の中から将軍が選ばれています。つまり御三卿の直系が「徳川宗家の本筋」ということになります。 そこから考えると、慶喜がハズレにあるのが明らかですよね。そう、徳川慶喜は水戸家の血筋なのです。この「水戸徳川家」というのがキーになるのです。 水戸徳川家の藩祖は徳川頼房ですが、彼は家康のなんと十一男です。うーん、かなり下。だから一応御三家の中にありますけれど、尾張徳川家と紀州徳川家が大納言という官位にあったことに比べ水戸徳川家の官位は権中納言で尾張や紀州に比べると「格下」になるのです。 つまり、徳川慶喜は御三卿の血筋ではなく、御三家でも一番格下の水戸徳川家の血筋の人なんですね。これはもう外れの外れもいいところです。だから徳川慶喜が将軍になるのもすったもんだがあったのです。そもそも御三卿の一橋家には養子で入りましたしね。誰が将軍になるかの争いで一度は破れて、ところが十四代家茂が急死したために将軍のお鉢が回ってきたという経緯だったのです。 血統や格式を重んじる江戸時代の考え方からすれば「順番からいえば確かに慶喜だが、元々外れの血統の人だからもっと血統的に相応しい人物が次代にいるならそちらに戻すのが本筋」となるのは当然だと思います。 ただ、かくいう十六代徳川家達も田安家の血筋とはいえ、その田安家は絶やすけになって直系の血統は途絶えているのですが、家達はお父さんを辿っていくとちゃんと吉宗にたどり着くので、血統的には慶喜より正統であるのは間違いありません。慶喜の血統は前述の通り水戸徳川家です。水戸徳川家の血統が「徳川宗家」になるのはたぶん御三卿筋のみならず、尾張徳川家や紀州徳川家も納得がいかないところだったと思いますよ。自分たちより格下の家が宗家になるのですからね。 江戸時代の大名や将軍というのは能力で選ばれるのではなく、「血統的正当性」で選ばれるのです。これは今の天皇家も同じですね。保守層が女性宮家に反対するのは、天皇家に傍系の血が混じってしまって血統的正当性(いわゆる万世一系)に齟齬が生じるからです。
- ithi
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tzd78886 さん、こんにちは。 もうすでに彼が将軍職になった段階で後継者として田安亀之助(徳川家達)が決まっていました。もっとも彼には子供がいなかったという点もあると思います。朝敵となった彼が隠居謹慎した段階で、徳川宗家は田安亀之助が継ぐことになったのです。しかしながら、それまでは家達の家族というかたちでしたが、15代将軍であることには変わりがないので、明治の35年ころに公爵になって別の家を建てています。 徳川家達 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94 徳川慶喜 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
- tknkk7
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それも、大きな”一因ですが、”幕府内で”徳川慶喜公は、”敵対者が無数に有り”何より、幕府代表者としてか、サッサと、”上野寛永寺あたりで、”謹慎生活に、入ってしまわれた事が、”後世の”歴史家から、見れば”何とも”、これは”敵前逃亡だと、思われた事でしょう。 非難轟轟(ひなんごうごう)でしょう、戦いと言うのは、”敵も・味方も、”総大将の理念・信念・計画性・戦うヤル気持ちが矢張り”大事な事”一致結束でしょう、片や”薩摩・長州・土佐・肥前・肥後・・・反幕府勢力は、入れ替え・立ち替え”波状攻撃をされて来ましたから、早かれ遅かれ、”白旗でしょう・幕府自爆”現代マスコミで、自爆と言えば、”悪です明らかに、でも”当時の反幕府勢力だって、自爆テロの感じでは、無いでしょうか、”ご皇室の”旗印の基に。! ◎スペイン・バルセロナ地区で、IS等暗躍していますが、自爆テロですが、 ある意味で、ケースは逆ですが、似ていますでしょうか。・・・
お礼
確かに明治政府の命令なら逆らえないですね。家達も明治政府が任命したのですか。当時子どもだったから逆臣になる心配も無かったのかもしれないですね。考えてみれば明治天皇も当時少年。敵対する心配のない少年ばかりを傀儡にしたように思えます。