- ベストアンサー
鳥羽伏見の戦いと朝敵
- 鳥羽伏見の戦いにおいて津藩は「朝敵」とされ、戦いに参加することを恐れて幕府軍から離反した藩はあるのか?また、戦いの結果、「朝敵」とされた津藩や徳川慶喜の反応は何だったのか?
- 700年間続いた天皇、朝廷の空白ののち、鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」がよみがえったが、その背景には何があったのか?また、「錦の御旗」の登場は日本人の古代からの「万世一系」に対する畏怖の象徴とも言えるのか?
- 鳥羽伏見の戦いにおける「反政府軍」の原動力は何だったのか?戦いの結果、幕府軍に勝利した新政府軍は、大きな時代の変わり目における存在ということができるのか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
慣用句としての「錦の御旗」を考えればいいのです。 社長と、次期社長と目される専務との間で争いが起きた。みんなどっちについたらいいか迷っている状態だったとします。そのときに「会長は専務に従えといっていた」となったら、それで「専務は会長の錦の御旗を得た」と専務の勝利で社長は辞任、なんてのはよくある話ではないかなと思います。 そういうときに、会長にどれだけ実権があるかは問題にならないケースは多いですね。どちらにつこうか迷っている社員たちには「会長が専務に従えといった」というのは絶好の口実になりますよね。「だって会長がそういったんだもん」と。また会長に実権がなくても「会長を動かせる専務はすごい」ということで専務の実力の裏付けになる場合もありますよね。「社長は会長を動かせないけれど、専務は会長を動かせた。じゃあ次期会長が現社長ってことはないから、現社長の負けじゃないか」って。 昔の話だと思うから、理解しづらくなるのです。今現在の自分たちの身に起きることに置き換えれば何の不思議もありません。だって同じ日本人ですから。民族性なんてそう簡単に変わらないのですよ。 どっちにするー?えーみんながそうするならするー、みたいにお互いに横目で見て決めかねている状況のときに、絶好の口実の「錦の御旗」がやってきたらそこにみんな飛びつくじゃないですか。 裏付けは「実権」ではないのです。「口実」です。「こういう決断をするしかなかった」という口実のための錦の御旗なのですよ。 >「朝敵」に対する津藩や徳川慶喜の反応にもかかわらず、「朝敵」とされながらも、なおかつ戦っていった、「反政府軍」の原動力は何だったのでしょうか? それは「武士道」ですよ。江戸時代中期以降の武士道は「武士は二君にまみえず」です。なにせ官僚たる武士が反乱を起こしたらいけませんから、家臣つうものは君主がどんなに愚鈍でも忠義は尽くさないといけなのです。 その忠義の王道が「忠臣蔵」でございましょ。お殿様が謎の理由でブチ切れて家臣に大迷惑をかけても、家臣はそのお殿様に忠義を尽くさないといけなのです。 その忠義の道を貫いたのが、会津藩の松平容保です。会津松平家の藩祖は忘れられた名君である保科正之です。保科正之は、家訓として徳川家への絶対忠誠を命じました。「例えお前(徳川家)が世界を敵に回そうと、俺だけは最後までお前の味方」と永遠の愛を誓ったのです。そして会津藩といえば「ならぬものはならぬのです」の言葉が有名です。会津藩は最後まで徳川家の忠臣。それを外れることはならぬことで、ならぬものはならぬのですよ。地獄の底までお前と一緒。会津藩は徳川への愛を貫いたのです。 もうひとつ、その忠義の道を貫いたのが千葉のたった一万石の請西藩の藩主、林忠崇でした。現代なら零細企業にも相当する請西藩の忠崇は当時二十歳の青年でした。新政府に恭順か抗戦か、意見は分かれましたがそもそも抗戦なんてしきれるような大きな藩ではありません。けれど青年藩主忠崇は、武士道を曲げることを潔しとしませんでした。かといって藩に迷惑はかけられないと、忠崇はなんと藩主自らが脱藩するという空前絶後の行動で忠義の道を選んだのです。 例え我が身が滅ぼうとも、武士道を貫いて潔く散りたい。思わず講談調になりましたが、そう、こういうのはどうも我々日本人の琴線に触れまくりますね。辞世の句まで残して抗戦を選びますが、紆余曲折あって戊辰戦争を生き残りました。本来は君主自ら脱藩するというとんでもない違法行為ではあるのですが、新政府の主だったメンバーも元はといえば身分は低くても武士ですから、林忠崇の行動は琴線に触れるものがあるわけです。武士道を貫いた者を咎めるわけにはいきません。 結局、林忠崇はなんと昭和16年に92歳で天寿を全うするという長寿に恵まれました。数奇な運命というのはまさにこのことでしょう。昭和初期には「最後のお殿様」と新聞にも取り上げられたようです。晩年、辞世の句を求められたら「明治元年にやった。今はない」と答えたとか。シビれるほどカッコいいですね。
その他の回答 (2)
- cse_ri3
- ベストアンサー率25% (165/640)
とりあえず3について。 江戸時代に、武士たちは儒学の奨励と水戸学の普及により、えらく観念的になりました。 戦国時代までは、武士の忠誠は俸禄を支給する主君だけだったのですが、観念的になることで、藩の殿様や将軍の上に天皇があることを知ったのです。 そのため天皇に対する忠義という観念が生まれ、幕末の動乱期にはその忠義による行動も増えました。 いわゆる「錦の御旗」が政治的に莫大な効果を発揮したのは、そのためです。 過去には天皇に対する忠義という観念はなく、せいぜい官位をくれるだけのものでした。 そのため、武士の忠義は主君だけにしかなかったので、承久の乱では、天皇方が幕府にボロ負けしたわけです。
お礼
藩の殿様や将軍の上に天皇があることを知ったのです。……「学問」が時代を変える原動力のひとつになったということですね。 「儒学」だとか、「水戸学」というようなことの具体的な内容は理解していませんが、ご回答の趣旨はよくわかりました。ありがとうございました。 最近、「言葉」だとか、「文字」だとか、「道具」だとか、「火」だとか、身の回りの何気ないものが、「歴史」を変えてきた重要な要素になりうるのだという気がしています。 もちろん、「学問の在り方」とか「文化」とかも歴史や時代を理解する重要な要素だとは感じているのですが、まだ、そこまでいきません。
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
1、ありません。 2、薩長以外のほぼすべてがそうです。 3、戦国時代から安土桃山時代にかけて朝廷の実力は地に墜ちました。 その後江戸時代になり、江戸幕府は鎌倉から戦国時代にかけて培われた実力主義を全否定し、儒教を根本にした忠孝や上下関係を絶対とする教えを広めたのです。そうすれば将軍として大名に君臨する幕府は大名の上に立つ存在として安泰です。この時代は朝廷を幕府が支配し朝廷などなんの力もないので名目上朝廷がトップにたっていてもその矛盾など意に介さなかったわけです。 ところが時代を経て水戸学などが盛んになると、学問的に一番えらいのは朝廷ではということが広がりだし、江戸時代徐々に朝廷の権威が復興します。 そして単独で朝廷の権威が復興すると幕末に江戸幕府と薩長での朝廷の奪い合いがおき、うまいこと掠め取った薩長側が官軍として錦の御旗を掲げるのです。 4まあ基本的には急に世界がひっくりかえると、時代についていけない頭の固い武士というのは少なくないですよ、現代でもね。 ひとつは幕府の中で大将の慶喜自信がもっとも朝廷の権威を認めていて先に降伏したことです、武力的に優越していた幕府の武士兵士は戦いもせず慶喜の恭順を認められません。 東北諸藩を見ると会津が明確に叛旗を翻しました。会津の松平容保は京で新撰組を使い薩長の武士を切りまくってます。誰よりも恨みを買ってるので降伏したら自分の命がありません。あと仙台伊達藩が勅旨とトラブルを起こし新政府と敵対する形となります。東北でこの二藩は絶大な存在感を誇るので、ここが敵対となると、周りの小藩は身の振り方に苦慮します。
お礼
ありがとうございました。 2 薩長以外のほぼすべてがそうです。……ということは、津藩が「裏切り者」呼ばわりされることはないということですね。 3 江戸幕府は鎌倉から~~幕府は大名の上に立つ存在として安泰です。……分かるような気がします。 名目上朝廷がトップにたっていてもその矛盾など意に介さなかったわけです。……名目上とはいえ、朝廷がトップに立っていたのでしょうか???朝廷の権威は、「官位を与えること」だったと思いますが、それさえも、幕府の意向なり、幕府内での各大名の序列や幕府内での役職が単に反映されただけなのではないでしょうか??? ところが時代を経て水戸学などが盛んになると、~~うまいこと掠め取った薩長側が官軍として錦の御旗を掲げるのです。……この辺の「流れ」は、まだ理解していません。ただ、「水戸学などの学問」によって、朝廷の権威が復興したというのは、一つの要因ではあると思いますが、もっと大きな要因として、「外圧」に対する幕府の対応や孝明天皇の思想、それを利用しようとした周辺の取り巻き等々が複雑に絡んでいたのではないか???と。素人の考えはこれ以上に発展しませんが。 4 まあ基本的には急に世界がひっくりかえると、時代についていけない頭の固い武士というのは少なくないですよ、現代でもね。……ですよね。笑。私も、「現代についていけない」化石化してしまった高齢者ですが。 ひとつは幕府の中で大将の慶喜自信がもっとも朝廷の権威を認めていて先に降伏したことです……どんなに新鮮で、高級な鯛でも、時間が経過すれば腐ってしまう、ということですかねぇ???「歴史」を考える一つの視点が見えてきたような気がします。 誰よりも恨みを買ってるので降伏したら自分の命がありません。……まぁ、トップのことなんで、どう転んでも、殺されることはなかったとは思いますが、それにしても、一連の経過から、「慶喜、ずるい」というのが、ぬぐえない私の印象です。
お礼
ありがとうございました。 昔の話だと思うから、理解しづらくなるのです。今現在の自分たちの身に起きることに置き換えれば何の不思議もありません。だって同じ日本人ですから。民族性なんてそう簡単に変わらないのですよ。……「日本史を理解する」ためのひとつのヒントがありそうな気がします。今、日本史関係の本を、読んでいます。とはいっても、超スローペースですが。時々、「棺桶に片足を突っ込んでいる、今になって、何のために、日本史を学ぼうとしているのだろうか???」と自問することがあります。人生の最期、もっと有意義な暮らし方ってあるのではないか、と考えないこともないのですが。高校3年の時の担任が、「日本史」の教師でして、卒業アルバムの寄せ書きに、「温故知新」と書いていました。私は「日本史」が大嫌いで、「温故知新」の意味さえも知らなかったし、卒業後も知ろうとも思いませんでした。ただ、最近になって、ようやく、「温故知新」の意味だとか、「歴史を学ぶこと」の意義のようなものが分かりかけてきたような気がします。歴史を学ぶことによって、「今の時代はどういう時代なのだろうか???今の自分は、社会の中で、歴史の中で、どういう自分なのだろうか???」という漠然とした「知りたい」気持ちがあるのですが、到底、その境地には、到達できそうもありません。 「ボーっと、生きてきたツケ」を今、支払わされているような気がします。泣・笑 「口実」です。「こういう決断をするしかなかった」という口実のための錦の御旗なのですよ。……分かります。そういえば、現職のころ、「苦境に立たされた時」、いろいろと対処方法を検討しましたが、つまるところ、「こういう決断をするしかなかった」という口実も一緒に検討していたような。むしろ、「口実」のほうを先に説明したりして。笑 それは「武士道」ですよ。江戸時代中期以降の武士道は「武士は二君にまみえず」です。……発生当時の「武士の在り方」とは違うようですね。徳川政権の教育の成果ですかねぇ???半世紀も前に、三島由紀夫の「葉隠入門」というのを、気まぐれに読んで、たしかその冒頭に「死ぬことと見つけたり。」というのがあった記憶だけが残っていますが、「武士道とは何なのか、武士道の変遷とは」というのも、700年間の歴史を理解する視点のひとつなのかもしれないという気がしてきました。 そして会津藩といえば「ならぬものはならぬのです」の言葉が有名です。……「什の掟」ですね。「理屈じゃないよ」ということでしょうかねぇ???白虎隊と姿と重なって、目が潤んできます。すみません。涙もろいタイプなので。またぞろ最後の将軍のことが思い浮かんできました。慶喜の一連の対応は、「結果オーライ」という評価も十分すぎるほど成り立つと思うのですが、この「理屈じゃないよ」という精神が、全く欠如しているように思えるのです。それと将軍として、「鳥羽伏見の戦い以降の戊辰戦争の悲劇を止められなかったのか???」、「あんたがやらなければならなかったことは謹慎することだったのか???」という疑問が付きまとうのです。 林忠崇でした。……文字を追っても、ほとんど頭に残らないようになってしまいましたが、微かにそのような人がいたことを覚えています。 「明治元年にやった。今はない」と答えたとか。シビれるほどカッコいいですね。……私の先祖は「武士」ではありませんが、同感です。まさに「武士道」ですか???あるいは「男の生き方」として考えるテーマの提起なのかも。現代における「什の掟」って何だろう?????