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戊辰戦争で、なぜ東海道では戦闘がなかったのか?
こんにちは。 戊辰戦争といえば、鳥羽伏見に始まり、東山道での甲州勝沼、北陸~東北での長岡や会津、それに函館の戦いが有名なところです。 一方、東海道では、戦いがなく、いきなり江戸城開城に至ったかのような印象があります。 尾張は徳川御三家のひとつであり、駿府は駿府城代が治める幕府直轄領なのに、なぜ戦闘がなかったのか、不思議で仕方ありません。 いろいろ調べるうち、第一次長州征伐の総大将(参謀は西郷)であり、藩内佐幕派を処罰(青松葉事件)したりした、尾張藩主の徳川慶勝という人物がキーパーソンのように思えました。次の将軍を誰にするかのゴタゴタで幕府中央に嫌悪感があったのか、鳥羽伏見の直後に逃げた慶喜への怒りなのか・・・? それとも、東海道軍にいた西郷の外交手腕で戦闘が回避されたのか・・・? ・・・わかりません。 なぜ東海道では戦闘がなかったのか、ご存知の方おられましたら、ぜひご教示下さい。 また、参考になる書籍やウェブサイトを教えてくだされば幸いです。 どうぞよろしくお願いします。 *wikipedia 戊辰戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89 *wikipedia 徳川慶勝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D
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軍事的に抵抗力があるか?というのと、藩主の意図という点から考えてみた。 軍事的抵抗力というのは、ある程度の兵力=藩士数=領国を持っているかということです。どんなに薩長側に反対しようと、実際の軍事力がなければ、恭順しか選択肢はありません。実際に奥羽越列藩同盟でも小藩は仙台藩や会津藩の意向に最初従い、会津が落城してからはさっさと薩長に恭順しています。奥羽越列藩同盟に逆らったのは、秋田・久保田藩20万石とかになります。力がなければ大勢順応になるということです。 この点で、抵抗力を持ち得るのは、だいたい5万石以上の石高でないと実質的な軍事力となり得ないと思われます。戦国末期~江戸初期で、10万石ないと「備」という軍事単位が成立しないということから、まぁ幕末は半分くらいでOKかなという、ざっくりとした見込みです。また、だいたい5万石以上ないと本格的な城を築くことができなかったので、防衛力が変わってきます。 で、東海道筋で抵抗力があるのは、尾張藩より東では 岡崎藩、吉田藩、浜松藩、田中藩、掛川藩、沼津藩、小田原藩。 薩長側からみれば、上記の城を一つずつ潰していくことが、東上作戦となります。 で、上記の幕末の藩主をみてみた・・・ これが全員が譜代・親藩であるがゆえに、「慶喜政権の内閣」とでもいうべき面々。つまり藩主の視点で考えると、慶喜が鳥羽伏見の戦いの後、大坂城で「朝廷恭順」と唱えたならば、右に従えとなるほかない。 ※ これの逆の構造が、ふと思うに、小山会議のあとの、関ヶ原の戦いまでの構造。秀吉は子飼いの福島正則を20万石余りで鍵となる尾張に起き、三河から箱根までの東海道筋には、最小抵抗力を持てるように、10万石以下の小大名をばらばらと配置していた。ところが、小山会議で鍵となる尾張の福島が徳川につき、東海道筋の大名は右倣えして徳川方に開城。
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- ceelee-boy
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当時の心ある人たちは100年も前から、外国と戦うことを考えていたわけ。中国もやられてしまったから、次は日本だって皆思っていた訳。攘夷運動ってやつね。 戊辰戦争なんてガス抜きだから。 志のある軍人は、内線なんか不毛の戦いしないで、日清日露戦争で外国と戦ったわけ、そして、奇跡的な勝利を呼び込んだわけ。 シュミレーションゲームのプログラムじゃないんだから、一度徳川派って設定されると、死ぬまで徳川の為に戦ったりはしない。 そもそも徳川家康は織田信長と違って、反対勢力と戦争でやっつけて政権とったんじゃないから。戦争でやっつけたのは、豊臣秀頼だけ。 関が原っていうけど、豊臣政権内での内紛だからね。 徳川幕府は、前の豊臣政権のやっていた国替えってことだけで、問題のありそうな有力者を潰して政権を安定させていっただけで、潰されるなんてへまをしない大名は現在の領地で満足する限り、ずっと続いて生き残っているわけで。 そういう大名からすれば、一応上になるのが、徳川でも天皇でも同じ。 第二次大戦後だって、戦争中は一生懸命戦争していた支配者層は、昨日まで敵だったアメリカというか、名目的には新憲法に鞍替えして9割以上生き残っている。 で、忠臣蔵の時は、赤穂藩を取り潰せた幕府が、長州征伐してるってことは、取り潰せなくなっていたってことで、その時点で、幕府としての力がなくなっていることは、ちゃんとした大名はわかっていた(そのことを書物に残すなんて馬鹿げた事をする人はいない)。 しかも、じゃあということで、武力で潰しにいったのに、それも失敗している。その時点で見切りが付かない地方大名は、為政者として失格な訳。 最後の最後の鳥羽伏見で大敗しているし。 鳥羽伏見は始まりじゃなく、最後の最後。 さらに、将軍の徳川慶喜も恭順を表明しているので、幕府の意向を尊重すれば官軍に協力すべきで、戦争するのは、名目的にも幕府の路線に反する。 シュミレーションゲームの世界や歴史小説の世界と、実世界を混同しないようにね。
お礼
そうなんですか。 ありがとうございました。
- komes
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東海道唯一の大藩である尾張藩の藩主は江戸時代、一度も将軍を出すこともなく冷や飯を余儀なくされてきました。 この為どちらかと言えば江戸の将軍家とは反目の間柄でした。 中期の藩主徳川光春は時の将軍徳川吉宗に反抗し吉宗の緊縮政策の向こうを張って娯楽を奨励し名古屋の繁栄をもたらし、吉宗の怒りを買い若くして隠居させられた位です。 この反目は代々受け継がれていましたから、戊申戦争でサッサと官軍側に参加してしまいました。 官軍側としては名古屋城を無血占領し兵力を取り込めたわけです。 東海道には徳川譜代の大名が配置されていましたが小藩が多く、しかも尾張が官軍側については抵抗の意欲も失せてなだれをうつように降伏してしまったのです。 鳥羽伏見の敗北の影響もありました。 もちろんこれらの諸藩のなかには少数ながら佐幕派の藩士もいましたし、徹底抗戦を主張しましたが、恭順派に押し切られ殺されるなど悲劇がありました。 大阪城を支えられず東海道を敗走してきた幕府軍の残党が箱根の険で抵抗を試みましたが簡単に破れてしまったのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ・尾張は御三家ではあるが、むしろ幕府に対し積年の恨みがあった ・その他東海道諸藩は小藩で、軍事力が弱かった ・形勢が新政府側に傾きつつあった の3点ですね。とても明快なご説明で、スッキリしました。 wikipediaの徳川慶勝の項目を見直したら、故城山三郎氏著「冬の派閥」という本が載っていました。早速読んでみたいと思います。
- PENPENMAKKY
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箱根の関所で戦争が起きてますが… 箱根戦争で伊庭八郎が腕を切断しています。
お礼
仰るとおり、「東海道では、戦いがなく」というのは誤りでした。失礼いたしました。 箱根戦争での小田原藩のように、他の諸藩も混乱・動揺していたと思います。その中で特に、尾張と駿府について知りたいと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 右へ倣えといえば、昨秋の自民党総裁選もそんな感じでしたね。ただ、あの時期の慶喜や幕府にはもうそれほど発言に重みはなく、むしろ慶喜逃走で戦意喪失という見方の方があり得るように思えます。 質問を投稿した後にふと思ったのは、東海地域という観点です。 ・将軍の上洛や、島津氏ら大名の参勤交代があったり、江戸(幕府)~京都(朝廷)のやりとりや状況連絡の通信などで東海道を通るので、そこから政局情報が他地域に比べ豊富だったため、幕府の衰退を読み取っていたのではないか・・・? ・あるいは、下田での異人との交流の中で、駿府地方の諸藩の人たちは外国の強大さをなんとなく感じており、幕府による封建体制ではこの先やっていけないのではと薄々考えるようになっていたのではないか・・・? という素地があったので、敢えて新政府と事を構えようとはならなかったのではないか、と。 勝手な想像ですみません。