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徳川慶喜はなぜ?
いろいろな考え方があるようですが、私は、幕末の将軍が徳川慶喜のような方(タイプ)で よかったと思っています。 引くことも大事だと思います。ただ、なぜ、鳥羽・伏見の戦いから逃げるときに、撤退命令を 出さなかったのでしょうか。 また、錦旗を見て、自分が賊軍なっていることを知って急いで退散。淀川を下ったのもわかり ますが、開陽丸と間違えてアメリカの軍艦で一夜過ごす?というのも、今一つわかりません。 宜しくお願いします。
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heriotoro-pu さん、こんばんは。 この人はこの時代の人には珍しく正室の子です。有栖川宮の息女ですから、朝廷の敵にはなりたくなかったのでしょう。 この人はどちらかといえば、頭の回転は速いですが、性格はおっとりしています。たぶん、幕府軍のことなど忘れてしまっていたのでしょう。自分の家来が主人ある自分の事を考えるのは当然と考える人ですからね。 これが家康だったら、どう考えますかね?
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- oska2
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>幕末の将軍が徳川慶喜のような方(タイプ)でよかったと思っています。 戦後70年も経って、日本史も天皇・朝廷中心の考えから解放されましたよね。 今まで「国賊」として正史で扱われていた足利尊氏・井伊直弼・徳川慶喜なども名誉回復をしています。 慶喜は、明治天皇から公爵を授かっているので子孫も優雅に過ごす事が出来ました。 が、足利家は「1945年の敗戦まで、天皇に弓を引いた逆賊扱い」 が、井伊家も「1945年の敗戦まで、天皇・朝廷をないがしろにした逆賊扱い」 子孫の方々は、苦労されたと思います。 >なぜ、鳥羽・伏見の戦いから逃げるときに、撤退命令を出さなかったのでしょうか。 幕府軍としては、「孝明天皇の命で、長州軍と戦っていた」訳です。 三条実美らは、孝明天皇の勅書を偽造するなど調停をないがしろにしていましたよね。 ※この偽勅書を信じて、天誅組の乱が奈良で起きました。 孝明天皇から「国賊・逆賊」として、(三条実美ら公家11名・長州藩の)追討令を幕府・京都所司代に出しています。 ※7卿の長州への都落ちは、追討令から逃れる為に逃げたのです。 ※この時、長州藩は1500名で7卿を警護しました。 ※鳥羽・伏見の戦いも、長州征伐の一環でした。 ところが、またも三条実美(岩倉具視?)による「偽物の錦の旗」が長州藩側に立ちましたよね。 この時点で、幕府軍は「朝敵」になったのです。 朝廷の為に戦っていたと思っていたのに、朝敵になってしまった。 幕府軍としては、大混乱ですよね。 ここで「慶喜が、全軍撤収命令」を出すと、幕府軍の敗戦が確定します。 戦場からの敗戦離脱は、精神的に「恐怖」しかありません。 歴史に「もし」はありませんが、命令を出していれば「幕府軍の戦死者は、もっと増えている」でしようね。 公爵徳川慶喜は、明治・大正と「何も語らず」でしたから、本当の事は分かりません。 が、明治天皇が慶喜と会った時「大政奉還・鳥羽伏見の戦いでの行動」を、高く評価した事は有名です。 慶喜の「敵前逃亡」は、慶喜が全ての責任を負う!との覚悟とも言えます。 実際、この戦い以降は「朝廷と幕府の戦いは無い」ですからね。 ※幕府残党軍の小競り合いや藩単位での戦いは、函館まで続きます。 >開陽丸と間違えてアメリカの軍艦で一夜過ごす?というのも、今一つわかりません。 間違って乗った事は、無いでしよう。 朝廷・討幕軍には、イギリス。幕府軍にはフランスがバックに付いていますよね。 開陽丸乗るよりも、中立的なアメリカ艦船に乗る方が安全です。 アメリカとしても、日米和親条約の当事者である幕府責任者を守る必要があります。 まぁ、慶喜が「黙して語らず」ですからね。 慶喜の子供・孫にも、何も語っていません。記録も残っていません。 ただ、先に書いた「公爵」が重要な意味を持つように思いますね。
お礼
慶喜でなければ、外国勢に占領されていたのかも・・・・? 慶喜は大局をみていた・・・これは、言い方をかえれば、 日本は運がよいのだと思います。 詳細をありがとうございました。
いろいろな考え方があるようですが、……徳川慶喜の評価については、おっしゃるとおり「いろいろな考え方」があるようです。自分の信じる慶喜像を描けば良いことです。 よかったと思っています。……結果として維新を迎えることが出来たので、私も同感です。 引くことも大事だと思います。……戦においては「引くこと」も大事ですが、鳥羽・伏見の戦いでは、「引いた」のではなく、heriotoro-puさんも記述されているように、「逃げた」のです。大将が「逃げる」ためには、部下をも騙し、しかも誰にも知られない極めて隠密な行動が必要だったのだと思います。 仕方なく徹底的に戦う意思表示をした後に、「撤退命令」は出せません。大きな混乱を生じ、「逃げる」ことも出来なくなります。頭脳明晰な慶喜であればこそ、出来た行動です。武士の親分としては失格ですが。もっといえば、武士の社会では、「人間失格」ですが。 開陽丸と間違えてアメリカの軍艦で一夜過ごす?というのも、今一つわかりません。……深夜のことですから。「間違えた」というよりも、ともかく、とりあえず何かの船に乗り込めば、「助かる」、「開陽丸に乗り込むのは朝でも良い」と、私なら考えます。慶喜ほど頭脳明晰ではありませんが。(*^_^*)
お礼
開陽丸が拾って、その後、要人なので開陽丸に受け渡した、という記述(本)も ありました。ありがとうございました。
補足
失礼しました。 アメリカの軍艦が、迷子の小舟を拾ったところ、要人だったので 開陽丸に受け渡した・・・という本もありました、です。
- eroero4649
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今に残る慶喜の若い頃の写真を見ると、理知的で頭が良さそうな顔をしています。明治以降の写真に傾倒した暮らしぶりなどを見ると、おそらくどちらかというならば理系の人だったようにも思います。そして、理系で頭がいい人だったからこそ「徳川幕府は、もうだめだ」ということもわかっていたのだと思います。 しかし理系で理知的である一方で、ある種の繊細さというか、すごく小心者だったであろうとも思います。終生自分が襲われることを恐れていたともいいますよね。 理知的で気が小さい人というのは、考えすぎてパニックになってしまいます。頭が良くて先が見通せる分、余計なことまで考えてああだこうだと落ち着かなくなるのですね。大胆な行動はできなくなりますし、彼のエピソードで「気が小さい」というのが伝わるエピソードはあっても「大胆」を連想させる話は一切ないので、小心者だったと断じていいと思います。 小心者がパニックになったら、あの行動は何ひとつ不思議はないと思います。まさに右往左往という言葉がピッタリですよね。「こうしよう。いやあ、やっぱりああしよう。いや、ここは動かないのが策か。しかし・・・」と決断できなくなってしまったのではないでしょうか。そして勝海舟を除けばそこで腹が据わっていられる部下もまたいなかったのです。 これは慶喜やその周囲を責めてもしょうがないと思います。我々日本人は、物事が計画通りに進んでいるときはものすごく優秀な能力を発揮するのですが、その計画が崩れると途端にどうしていいのかわからなくなってフリーズしてしまう欠点があります。これはもう民族性といっていいと思います。 慶喜は大政奉還という必殺技をくり出して、薩長側を追い込んだつもりでした。実際に岩倉具視や西郷隆盛はかなり焦ったと思います。自分が有利と思っていたところに、岩倉らの予想もしなかった強引な手が出て、しかもそれがおそらく岩倉の予想以上に薩長側に一気に有利になってしまったので、「ええ?ちょっとなんでそうなるの?え?どうすればいい?俺、どうすればいい?」となってしまったのではないかなと思います。
お礼
ありがとうございます。 日本民族パニック説! 慶喜が、再度再度の奏請ののちに兵庫開港の勅許を獲得したあたりは 大胆なところがみえる・・・ような気がします・・・ 題材からそれます。 eroeroさんは、芸人はいいにしても、「落語家」への道は捨ててほしく なかったです。人当たりやハナシさばきはかなりうまいと思います。 若手「大喜利」で座布団の枚数を競ってほしかったです。真骨頂~
- akiye2
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自身が死ねば幕府を上手く終わらせられないと考えていた。 汚名を残そうが松平容保を犠牲にしようが、生き残る必要があった。
お礼
ありがとうございます。 「戦い」というか「戦場にいること」がいやみたいですね。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
なぜ、鳥羽・伏見の戦いから逃げるときに、撤退命令を 出さなかったのでしょうか。 ↑ 自分が助かるためです。 部下に戦わせて、その間に逃げようとした のです。 それ以外に説明がつきますか? 開陽丸と間違えてアメリカの軍艦で一夜過ごす?というのも、 今一つわかりません。 ↑ 命欲しさに逃げ回っただけ、と考えれば 説明が容易です。
お礼
ものの資料には、開陽丸を探したけれど見つからず、アメリカの軍艦に 拾われた、という説明がありました。 アメリカは、日本の幕府と朝廷の関係は何でもいいや、どうせ力で捻じ 伏せようと思っていた、のではないでしょうか。
補足
自分だけ助かるために逃亡した・・・だけではないと思います。 身をよせていた上野の寛永寺からも、すぐに水戸に動いていますが、 やはり戦いたくないという判断があったのだと思います。 私が知りたかったのは、そのあたりの事情や心情が知りたくて質問しました。 ただ、フィリッピン撤退のマッカーサーのように、副官を残す、任せる、 一言いい残していくなどもあってもよかったのではないかと思いました。 トランシーバーも携帯もない時代ですが。 ありがとうございました。
- tzd78886
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慶喜は当時としては先進的な考えを持っていたことで知られています。ですから、「汚名」などという考えは持たなかったのではないかと。何しろ光圀公のいた水戸藩の出ですからね。徳川政権が終焉を迎えていたのは誰の目にも明らかで就任当初からうまく幕府を終わらせることだけ考えていて、戦う気など初めから無かったのだと思います。私の想像にすぎませんが。
お礼
終焉を迎えていたのは誰の目にも明らかだったと思います。 勝海舟らによれば、勝機はあったのに・・・ということを言って いますが。 ありがとうございます。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
あそこで撤退命令など出したとして、兵たちはおとなしく従ったでしょうか。将軍といえどもできないことはできないのです。それが証拠に大政奉還後も戦闘を続けていた武将は少なくないです。
お礼
おとなしく従うものがいようといなかろうと、撤退命令を出しておけば、少なくとも 敵前逃亡という汚名は被らなかったのではないでしょうか。
お礼
ithiさん、ありがとうございます。 慶喜は、とにかく大局は読めていたのだと思います。 家康は武器調達がうまく、朝廷の動きにも敏感なので、自分をはずす ような御前会議を開かせるはずがなく・・・ ただ、外交手腕についてはわかりません。
補足
総大将がいなくなったら、大混乱の中、てんでバラバラに江戸へ落ちていくしかない・・・。 いつの世も、下部はつらいですねぇ。