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安土桃山時代は何故「桃山」?
安土桃山時代という時代呼称がありますが、なぜ安土伏見時代ではなく、桃山がつかわれるのでしょうか? 伏見城が無くなってから、桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになったとのことですが、そうすると、安土桃山時代には桃山という地名が存在しなかったと言うことですよね。 明治天皇のお墓が桃山御陵と、桃山を使ったから? 鳥羽伏見の戦いがあったので、伏見という地名を忌避?しかし現在の地名は伏見区。
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コトバンク「安土桃山時代」の日本大百科全書「安土桃山時代」の解説には https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3-26020 > 桃山時代の呼称は、秀吉の晩年の居城である山城(やましろ)(京都府)伏見(ふしみ)の地がのちに桃山ともよばれるようになったことに基づくもので、秀吉当時における呼称ではない。かつ政治の中心は、1583年(天正11)より秀吉の死んだ1598年(慶長3)まで大坂城にあったのであるから、政権の根拠地という点からいえば、むしろ「大坂時代」とでもいうのが妥当であろうが、「桃山」には当代の華麗な文化を連想するにふさわしい語感もあって、まず文化史上で時代呼称として定着し、政治史上でも一般に用いられているのである。 > とあります。 現在、一般に通用している日本史の時代区分は、政治の中心地の地名を冠する呼称で統一されていますが、それ以前は、とくに政治史で「足利時代」「織田豊臣時代」「徳川時代」のような政権を握った家名を冠するものが広く使われていたようです。たとえば、明治30年出版の『日本歴史 中学教程[正編]』では「鎌倉時代」「室町時代」とともに「織田豊臣時代」「徳川氏時代」という呼称が採用されています。 歴史区分の呼称を政治の中心地名で統一しようとした際に、豊臣時代に関しては文化史上ですでに定着していた「桃山」が採用され、織田時代に相当する地名安土とあわせて「安土桃山」となったのでしょう。 『日本歴史 中学教程[正編]』書誌情報(国会図書館サーチ) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001532144-00 なお国会図書館サーチで検索してみたところ「安土伏見時代」という呼称の使用例もないわけではないようです。 『和鏡聚英』(1919年)という和鏡の鏡背の拓本の写真集に「安土伏見時代」という呼称が使われています。 鈴木徳義『歴史百人一首 ~「万葉集」から現代までの旅』(2014年)にも「安土・伏見時代(19首)」が使われています。 中川正照『秀吉と伏見時代―「桃山時代」と呼ぶのは間違いである』(2015年)という本もあるようです。アマゾンの著者略歴によると京都市職員でアマチュア歴史家の方のようです。
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- jkpawapuro
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>安土桃山時代という呼称のできたのは、江戸時代なのですか 桃山という地名や桃山文化等の表現は江戸時代です。 桃山時代もおそらくそうかと思ってます。
- pri_tama
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私個人としては、以下が「桃山」を使った理由ではないかと推測しています。 1.伏見を冠する城は、3つある。 ①指月に築城した秀吉の隠居城。 慶長大地震で倒壊。(歌舞伎・落語「地震加藤」で有名な城) ②木幡山に築城した秀吉の城 関ケ原の戦いで徳川方が籠城し落城・焼失。 ③木幡山に徳川幕府が再建した城 2.江戸時代以降に伏見城と言えば、徳川の城だと思われていた。 ①秀吉没後は、徳川家康が伏見城で政務を取り仕切っていた。 ⇒小和田哲男『城と秀吉』だと、秀吉没後に家康が在城していた期間は、江戸城より伏見城の方が長い。 ②関ケ原の前哨戦で徳川方の鳥居元忠が奮戦・自刃した地。 ③家康から家光まで将軍の京での居館、3代の将軍宣下は此処。 (二条城は、将軍参内時の宿舎)
補足
安土桃山時代という名称の出来た明治以降の歴史学者についても、秀吉が伏見で政務を執ったという意識より、秀吉が政務を執ったのは桃山であると言う意識が強かったということでしょうか?ちょっと頷けない気がします。 江戸時代の庶民の意識はあまり関係ないのではと思います。
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
江戸時代に伏見城と呼ぶと、家康によって再建された伏見城を思い浮かべてしまいます。 あえてそのイメージを外したかったために地名の桃山を強調したのでは?
補足
安土桃山時代という呼称のできたのは、江戸時代なのですか?てっきり明治以降だと思ってました。
- oska2
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>なぜ安土伏見時代ではなく、桃山がつかわれるのでしょうか? 信長は、安土城を中心に政治を行いました。 秀吉は、伏見城を中心に政治を行いましたよね。 大坂城は、豊臣家の私邸で政治を行う場所ではありません。 そこで、「伏見」という地名が当時なかったので「桃山」という当時の地名を付けたのです。 似た例では、室町幕府。 幕府が、「室町」で政治を行ったからです。 >明治天皇のお墓が桃山御陵と、桃山を使ったから? 先に書いた通り、関係ありません。 が、伏見城址に御陵を設ける必要はないのですがね。 その代わり、伏見城址は「高度成長期の文化史跡破壊」を免れました。
補足
> そこで、「伏見」という地名が当時なかったので「桃山」という当時の地名を付けたのです。 すみません、「当時」とはいつのことですか? 秀吉生存時のことなら、伏見城という城はあったわけだし、桃山という呼称の出来た江戸時代や、安土桃山時代という呼称のできた明治以降についても地名はあったはずです。
- pupuwa33
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こちらの質問はご参考になりますか https://sp.okwave.jp/qa/q807743.html
お礼
ありがとうございます。類似の質問があったのですね。 なるほど「豪華絢爛な雰囲気が」という理由で美術史上の名称になったのは納得がいきます。美術史が先なんですね。逆かと思ってました。 ただ、桃山文化というのは信長時代も含まれるので、そうすると時代区分の名前は、安土桃山時代ではなく、単に桃山時代で良い気がします。Wikipedia:桃山文化には「桃山文化または安土桃山文化は、」とありますが、桃山文化は何度も聞いたことあるけど、安土桃山文化は初耳です。「豪華絢爛な雰囲気が」が正しいとすると、これは時代区分の安土桃山時代からの逆流でしょうね。 いずれにせよ、「何故、桃山時代や安土伏見時代でないのか?」は謎です。
- t_ohta
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安土桃山時代と名付けたのは後の歴史学者ですから、当時の人たちは桃山時代などとは呼んでいません。 伏見城のあった辺りが江戸時代には桃山と呼ばれたことで桃山時代と名付けたみたいです。 伏見城のあった辺りの現在の住所は伏見区桃山町です。
補足
ありがとうございます。 > 当時の人たちは桃山時代などとは呼んでいません。 そりゃそうですね。 すみません。質問意図が伝わりにくかったかも知れません。 今考えると、「明治以降になって時代呼称を決めるときに、何故、伏見が採用されなかったのか?」と書いた方が良かったですね。そういう意図の質問です。
お礼
調べていただいて、ありがとうございます。やはり他の方の回答にあった通り、文化史由来(豪華絢爛イメージ)ということですかね。 >「桃山時代」と呼ぶのは間違いである そこまで言う人もいるのですね。それを間違いとまで言っちゃうと、そのレベルの間違いは他にもたくさんありそうです。