荒木村重の生き方と徳川慶喜
司馬遼太郎の小説に基づく質問です。
なお、司馬遼太郎の小説自体を評価しないのであれば、以下の質問とは関係なく、その理由などを挙げていただいてもかまいません。司馬遼太郎の小説に描かれていることが、事実かどうかは、私には分からないし、司馬史観も見直されていると聞いておりますので。
なお、4つの質問のどれか1つだけのご回答でも、日本史のほんの一端を学びたい私にはありがたいです。
1 下記の文章は、司馬遼太郎の「播磨灘物語」の一節です。
記
「殺される」
という恐迫感が、村重の心を、ついには針のようにするどくした。村重にはもはや戦闘も戦略も考えるゆとりがなく、まして毛利氏の援軍云々などの大戦略は遠い夢になった。村重のいまの心はたしかに針のかたちをしてしまっている。何事も入るゆとりはなく、ただ殺されまいとする神経だけが、尖をするどくしている。村重は、常人でなくなってしまっていた。
九月二日夜、掻き消えるように伊丹の城から落ちてしまったのである。
重臣にも洩らさず、士卒も捨てた。また妻子や、多くの妾たちにも何もいわず、それらを置き去りにした。脱出のために、五、六人の従者だけを連れて出たが、まったく身一つといっていい。
かれは、毛利圏へ逃げるつもりであったであろう。
(以上)
この一文で、私(質問者)は、荒木村重のその後が気になり、検索してみたのですが、なんと、WIKに「茶人として復活」とありました。大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかも、利休十哲の一人だとか。驚きです。
質問1) 司馬の文章からは、荒木村重は、「卑怯・卑劣漢」のように描かれていますが、村重の人物像に近いと理解してもよいでしょうか???
質問2) 私(質問者)は、質問1で、荒木村重を「卑怯・卑劣漢」と表現しましたが、戦国時代では、妻子や部下を見捨てるくらいは卑怯・卑劣漢とは言わないのではないか???という疑問も生じました。どうでしょうか???
質問3)かりに、村重が、小説に描かれるような人物(=卑怯・卑劣漢のような)だったとして、戦国時代というのは、村重のような人物でも復活させるような時代(武将に寛容、あるいは男に寛容、あるいは男として評価される何らかの能力に寛容)だったと理解してもよいのでしょうか???
2 上記の司馬遼太郎の文章を読んでいて、どこかで似たような文章を読んだような気がして、しばらく考えたのですが、……そうだ、徳川慶喜公が似ていると思いだし、同じ司馬遼太郎の小説「最後の将軍」のページを「おしまい」の方からめくってみました。そして「あった」と思いました。下記はその一節です。
記
慶喜はついに上段から立ちあがり、
「承知した。出陣となれば即刻がよい。さればこれより打って立とう。みな、用意せよ」と叫んだ。満堂どよめき、歓声をあげ、慶喜が奥へひっこむと同時に出戦支度のためどっと室外へとびだし、持ち場持ち場にかけだした。慶喜は奥に入ると、すぐ容保、定敬、それに板倉勝静、さらには大目付や外国総奉行など八、九人を連れだした。みな平服であった。城内を駈けたが、混雑と夜陰のため、たれもそれが自分たちの主将であるとは気づかない。時刻は夜十時ごろである。城の後門からひそかに忍び出た。このとき城門の衛兵が、「たれか」と銃をかまえて誰何した。慶喜はすかさず、「御小姓の交代である」といった。才能というほかない。とっさにこの智恵が出るがために慶喜はひとから権詐奸謀のひとであるといわれるのであろう。ともあれ、慶喜は自軍のすべてをあざむいた。
(以上)
質問4)荒木村重と徳川慶喜は、生きた時代こそ違え、同類の人間として理解してもよいでしょうか???また、違うとすれば何が違うのでしょうか???
お礼
有力な大名は華族に列せられたそうですが、明治になって随分経ってからなんですね。 明治35年あたりですか・・・。 なるほど、どうもありがとうございました!