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『こころ』とは??
みなさんの意見を聞きたいと思います! みなさんが考えるに、『こころ』とはいったいどこにあると考えますか?そう思う理由、または科学的アプローチで説明してくれませんか? ちなみに私は五臓六腑にあるのではないかと考えました!
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>みなさんが考えるに、『こころ』とはいったいどこにあ >ると考えますか?そう思う理由、または科学的アプロー >チで説明してくれませんか? >ちなみに私は五臓六腑にあるのではないかと考えました! 「こころ」の所在を探求する前に、「こころ」の正確な意味概念を 定義する必要があります。 「こころ」を一般的な辞典で調べますと、 ○人間の知的、情意的な精神機能をつかさどる働き。精神。魂。 ○人間の理性、知識、感情、意志など、あらゆる精神活動のもとに なるもの。 ○先天的、または習慣的にそなわっている精神活動の傾向。性格。 ○人知れず考えや感情などを抱くところ。 ○物事を秩序だてて考え、行動を決定する精神活動。思慮分別。 また、細かなところまで行きとどいた気の配り。周到な配慮 ○ことばの発想のもとになる、人間の意識や感情。言語表現を支 える精神活動。 ○ある物事を意図し、その実現を望む気持。考え企てること。また、 その考え。企て。意向。意志。 ○気持の持ち方。心構え。また、意図を実現させるのに必要な意 気ごみや精神力。 ○宗教の方面に進んでいる気持。道心。宗教心。信仰心。信心。 ○世俗的なものに執着する気持。迷いのままで悟れない心。雑念。 妄念。我執。煩悩(ぼんのう)。俗情。 等と定義しています。 「こころ」を「人間の理性、知識、感情、意志など、あらゆる精神 活動のもとになるもの」と定義すれば、 思考、判断、記憶、創造、感情など人間らしい精神活動はすべて大 脳で行われていますので、大脳皮質内のシナプスを越えてニューロ ンからニューロンへ神経伝達物質の信号が伝達されることによる選 択的意志の発現される部位の全体ということになるでしょうか。 「こころ」を「先天的、または習慣的にそなわっている精神活動の 傾向。性格。」と定義すれば、 過去の行動傾向の記憶が保存されていると言われている心臓や肝臓 などの臓器にも「こころ」の座はありそうですが、解釈によっては 目、鼻、耳、食道、手、足、乳房、性器、皮膚、髪の毛などや DNA にもあると言えるかも知れません。 「こころ」の形而上学的論究 的なことをを試みますと、 「こころは存在の家である」という命題を提起しますと、 この命題の意味は、「存在があって人間のこころがある」 彼は「こころとは人間にとって何であるか」とは問わない。 彼は、「こころはこころとしてどのように真にあるか」と問い、 「こころが存在するとは一体何か」という問いを加えて「こころが 存在たらしめているのである」と答える。 そして、こころを人間主体から分離し、むしろ、「人間はこころに 応答するときにのみ存在する」ということになりましょうか。 「こころ」をつきつめて考えるということは、存在の究極に思考を 巡らすということです。 しかしながら、生きたまま存在の究極としての「こころ」を考える というのはいささか妙なことで、この思考には何か別の回路が必要 です。 「こころの存在」を感じるには、死や否定や放下や負といった回路 をいったん媒介にしたほうが、感じやすいということになります。 そこから見つめなおした「人間のこころ」こそが、この回路をへて 残った「こころ」というものが、「実存的こころ」とでもいうべき ものになり得ます。 「こころ」には、究極の依り所なんてものはないのだということで もあります。 「こころ」の起源や「こころ」の理由をもちだそうにも、もちだせ ない。 それが「こころ」なのだと。
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- murakumo
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難しいことですね。以前耳にした話を挙げます。 私達は心を持っています。そして私達は、原子(分子)の塊です。もし、鼻血を流したとしましょう。私達はその鼻血に心があるとは考えません。人から流れたもの、人を構築している要素なのにです。それはただの物質と考えます。では、そんな原子(分子)の塊の私達になぜ心があるのでしょう?それは、私達を形作る原子(分子)の組み立て方によって心ができるからだ。私達の構造を理解すれば心の仕組み、場所がわかるかもしれない。 と考えている学者がいるらしく、アメリカなどでは実際、そういった研究機関で研究しているらしいです。国家予算まで費やしているとか。哲学の先生が話していたのですが、事実だとしたらすごい話だと思います。
- Syo-ya
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「心」というのは、一つには、脳の【機能】だと思います。 人体を切り刻んでも、「心」は出てきません。 それは人体という【構造】を見ているからであって、 構造から機能は出て来ないんです。 例えば、自動車という【構造】を分解しても「走る」という【機能】が出てこないのと一緒です。 ・・・と、これは養老孟司氏のパクリです^^; 確かにそうですが、でも、私はそれだけでは無いと思います。 何故ならば、機能も、構造も、それを必要としたニーズがあるからだと思うからです。 脳は、そもそも「腸」から発達したという学者さんもいます(藤田恒夫氏) なぜならば、腸にも脳と同じような神経細胞があるんです。 脳が死んでも、腸は独自の判断で食べ物を送り続け、各内蔵に指令を出し、消化吸収作業を止めません。独立して働けるんです。 原子的な多細胞生物は腔腸生物「ヒドラ」と言って、全身「腸」で出来ています。ここで、私達人間(多細胞生物)の祖先は腸のお化けだったのではないかという仮説が成り立つんです。 で、ここからは私の空想科学なんですが、「腸」にも思考能力、心があって、この「腸能力」が、より効率よく食物を摂取するために大脳を発達させたのではないかと思うんです。。。 その昔、ヒドラのような、腸のお化けは海を漂っていました。 「あの草が食べたいな~」と腸が思うと、波に流されないように魚に進化しました。 別の腸のお化けは「陸地の草が食べたいなぁ」と思いました。 そうすると手足が生えてきて、陸地に進出したんです。 そして、さらに効率よく捕食するために、集団で獲物を捕獲したり、植物を栽培したりできる巨大な脳を進化させたのではないでしょうか?(誰に対する「?」でしょうか・・・) つまり、進化の歴史は「捕食の歴史」であると思います。 そして心の源泉は、欲求にあり、腸にあると思います。 ・・と、これが、ダーウインも真っ青の、正しい進化の歴史であり、正しい脳の歴史、心の起源、心の座であろうと思います。 じゃあ「腸に腸能力があるのか?」という疑問が湧いてきますが、これが、あるんです。。。 東洋の思想では腸に当たる部分を「丹田」と呼んでいます。ヨガでは「なんとかチャクラ」と言います。 ここは「気海丹田」といって、「気の海」とも言われています。 座禅でも丹田呼吸をします。 そうすると「腹が据わる」とか、無の境地になれるんです。 これを体得し、後世に伝えたのはお釈迦様なんです。 無の体験が出来る方法論が、丹田呼吸なんです。 これはその他にも自律神経の働きを整えたり、脳波が安定してきたり、脳内の癒し覚醒系の神経を強化したり、いろいろな効用が生理学的にも検証されていますし、宗教的にも古来より伝えられてきた心身の健康、潜在能力開発、瞑想のメソッドなんです。(私のHNをクリックしてもらえれば、呼吸法をご紹介してます) ・・・と、まだまだ話を続けようと思えば出来ますが、ここらでやめます。 (つまり心は腸にあります。。。><;)
- Diogenesis
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「こころは五臓六腑にある」とか 「こころは脳の中にある」という説明は 「インターネットはパソコンの中にある」という説明と同じ間違いを犯しているのはないでしょうか? そもそも「こころ」なるものは その所在を特定できるような空間的存在なのでしょうか? この点から疑ってみる必要がありそうに思います。 われわれがこころについて語るとき こころという言葉の慣用的用法に強く縛られています。 たとえば日本語では 「こころを開く/閉ざす」,「こころの底から」,「こころに残る」,「こころに響く」など 「蓋のある箱」ないし「扉のある部屋」のメタファ(=隠喩)でこころを語ります。 「こころが豊か/貧しい」というような表現はこの延長上にある「家」のメタファでしょう。 また「こころが痛む」,「こころ苦しい」のように こころを身体内部の器官であるかのように語ることもあります。 こころについての過去の学術的な考察がこれに拍車をかけています。 たとえばフロイトは こころをあるときは地層のようなもの, あるときは蒸気機関のようなもの, またあるときは家族のようなものとして語りましたが, ダルマの形をした小部屋の中の出来事としてそれらを図示しています。 (どこかで見かけたことがあるでしょう?) こういった過去の遺産?が知らず知らずのうちに私たちに こころを空間的存在として捉えるような思考の枠をはめてしまっているのではないでしょうか。 もとより私自身もそのような束縛から自由ではありませんが, 現時点での私の考えを述べておきますと, こころとは脳と環境が身体を通して行なう相互作用が一定の条件を満たすときに存在していると認められる現象であって こころ自体は明確に境界を特定できるような空間的存在ではないというものです。 これは紙幣の価値が紙幣そのものの中にあるわけではないというのに似ています。 脳の研究がこころの研究にとって必要不可欠なものであることは言うまでもありませんが, 脳の内側だけを見ていてはこころと呼ばれる現象の全体を見失ってしまうように思います。 また世間的な見方とは逆に こころと呼ばれる現象の理解なくしては脳の研究が進まないことも確かなのです。 このような問題を考える上で参考になりそうな本をいくつか挙げておきます。 いずれも現代の脳科学ないし認知科学の成果を踏まえた上で そのあり方に揺さぶりをかける議論です。 気が向いたら読んでみてください。 佐々木正人 『知性はどこに生まれるか/ダーウィンとアフォーダンス』 講談社現代新書 信原幸弘 『考える脳・考えない脳/心と知識の哲学』 講談社現代新書 柴田正良 『ロボットの心/7つの哲学物語』 講談社現代新書 橋爪大三郎 『「心」はあるのか』 ちくま新書
- tsukudani
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心臓移植で記憶が受け継がれる件ですが、心臓の神経に、記憶をする部分が見つかったと報道されていました。神経は単なる情報の通り道ではなくて、小規模のバックアップ機能を備えていたってことでしょうか。 ほかの臓器についてはその記事には書いていなかったのですが、これから見つかる可能性はあると思います。 五臓六腑で間違いないかもしれません。
- SCNK
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神経系にあります。人間などの高度な生物の場合、ほとんどが中枢神経系、とくに脳にまとまっています。 「こころ」そのものが実証しきれていませんが、「こころ」が思考活動の産物であることはほぼ間違いないでしょう。したがって神経系というのがもっとも的確であると考えます。ただし内分泌系もなんらかの影響を与えていると考えられ一部関与しているかもしれません。そういったものの総合的なものが「こころ」ですから、それらに広く分布しているのではないでしょうか。
- mojitto
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日本語で心臓は『心』の『臓』器と書きます。 英語ではheartは心臓、心と訳します。 例えば緊張するとドキドキするように、心臓は心の窓口ではないでしょうか? では緊張することで心臓を早くしているのはどこか、それは脳です。心は脳にあると思いますよ。ありきたりな回答かもしれませんが… しかし、心臓を移植した患者がドナーと似た趣向を持ったり、記憶を受け継いだという例をテレビで見た覚えがあります。もちろん稀有な例です。これを考慮すると心臓も捨てがたいんですね。 しかしなんでまた五臓六腑なんですか?ちなみに五臓六腑は肺、心、脾、肝、腎の五臓と大腸、小腸、胃、胆、膀胱、三焦の六腑ですよ。ちょっと答えの範囲が広くないですかね?心とは無縁そうな臓器もありますし。補足であなたの科学的アプローチを聞かせていただければ幸いです。
補足
確かに心臓移植によって記憶を受け継ぐといった傾向があろと聞いたことがあります。しかし、心臓でなくとも五臓六腑(何か一つでもいいんですが)を移植した際にmojittoさんが言われた様な傾向が同じように見られた例が何件もあります。このことからも心臓だけでなく五臓六腑ならなんでもいけると考えたわけですが。。。