こんにちは。
同様のご質問がありますと、あちらこちらで同じような回答を繰り返しておりますが、今回はひとつ新しいアイディアを用意致しました。
「心とは、本能行動を除く、学習行動を選択するための神経系の情報処理」
と定義することができます。
毎度のことながら少々長くなりますので、どうぞ暇なときにお読み下さい。
「心」といいますのは、「神経系の信号のやり取り」によって成り立っているものです。ですから、それは「心の動き」としてあるものです。脳科神経学というのは、この「心の動き」を解剖学的・生理学的に解明するものであり、現在ではこれを司るそれぞれの神経系の働きに就いて様々なことが分かっています。
「心の役割」とは、環境の変化に対して価値判断を下し、与えられた状況に対応した行動を選択するということであります。感覚神経系は身体内外の環境から様々な情報を獲得し、中枢神経系に入力します。中枢神経系は感覚神経系からの入力に対して価値判断を下し、その結果を運動神経系や自律神経系に出力します。これにより、我々動物は自分に与えられた環境の変化に対応した適切な反応や行動を選択しています。
ですから、我々の「心の動き」というものを横から眺めますと、
「知覚入力―価値判断―命令出力」
ということになり、ここでは信号が逆向きに流れるということは絶対にありません。このため、抹消神経系といいますのは、この信号の流れる方向によって「求心性神経(感覚神経系)」と「遠心性神経(運動神経系・自律神経系)」に分けられます。
そして、入力情報を基に価値判断を行い、身体に命令を下している中枢神経系といいますのは以下の三層に分類されるのですが、それぞれの中枢の機能の違いにより、これによって選択される行動や反応は「本能行動」と「学習行動」に分けられ、更に学習行動は「情動行動」と「計画行動」に分類されます。
「生命の中枢(脳幹以下、脊髄まで):本能行動」
「情動の中枢(大脳辺縁系):情動行動(学習行動)」
「思考の中枢(大脳皮質):計画行動(学習行動)」
このような中枢系の機能分類を「脳の三位一体説」といい、その後の脳科学の進歩によって解明された多くの事実と一致します。
「心の動き」といいますのは神経系における信号のやりとりでありますから、従来の「解剖学的分類」とは異なり、「心の構造」というものを明らかにするためには、このような「機能分類」が適用されなければなりません。そして、「心の役割」とは状況に応じた行動や反応を発生させるということでありますから、出力結果として選択される一連の行動も、その構造的な性質の違いによって明確に分類されることになります。
では同様に、我々の脳内に発生する様々な「心の動き」、即ち心理現象もこれに従ってきちんと分類されなければならないわけです。申し上げるまでもなく、「思考」や「記憶」といった高度な情報処理は大脳皮質において行われるものであり、「意識」とはこれに伴う現象であります。かたや「感情」という我々の生々しい心の変化は情動反応を司る大脳辺縁系を中心に生み出されるものです。そして、このような機能分類を当てはめますならば、「入力―判断―出力」という、全く同じ神経系の情報伝達であるにも拘わらず、「心の動き」といいますのは学習行動をその結果とするものに限定され、全ての本能行動がここからすっぱりと除外されることになります。では、心理現象と本能行動とはいったい何処が違うのかということになりますが、その前に、まず大脳皮質における「思考」「記憶」「意識」といったものから順番に整理させて頂きます。
「思考」や「記憶」といいますのは、大脳皮質「連合野」の、主に「認知機能」によって行われるものであり、「意識」とはこれに伴って発生する現象です。従いまして、これによって選択される行動は全てが意識行動であり、学習体験を基に未来の結果を予測した「計画行動」ということになります。
「知覚」とは感覚器官から送られて来る信号が大脳皮質の入り口であります「感覚野」に入力される過程で認知の可能な「ひと塊の情報」に整理されることであり、「認知」とは、このようにして獲得された「知覚情報」と、脳内に保持されている「記憶情報」など、「複数の情報」を比較することにより、それを特定の物事として選別する作業であります。そして、連合野におけるその認知結果は、これを以って様々な思考や新たな記憶の対象となり、同時に、我々は未来の結果を予測した計画行動というものの選択が可能になります。
「連合野」とは、「一次感覚野」や「一次運動野」といった特定の機能を持たない大脳皮質の領野のことを言います。知覚情報の認知を行うものを「感覚連合野」といい、「視覚認知」「聴覚認知」「内覚認知」etc.など、認知作業といいますはそれぞれの感覚野の辺縁に当たる連合野で別々に行われます。そして「思考」とは、この連合野における認知機能を基に成立するものでありますが、それは一過性の作業ではなく、複数の作業の継続や、それぞれの感覚連合野の連携など、より複雑なものとなります。
「記憶」といいますのは、記憶の「形成」「保持」「想起」という三つの作業に分けられます。只今申し上げました通り、「記憶の形成」とは連合野における認知作業によってその結果が記憶可能な情報になるということです。「記憶の保持」とは、記憶回路としての神経接続が化学的・物理的に強化され「長期記憶」として存続されるということであり、そして、繰り返される刺激入力によって起こるこのような神経接続の強化を「学習」といいます。「記憶の想起」とは、この長期記憶が一時的な「短期記憶」として感覚連合野などの認知器官に呼び出されるということです。視覚や聴覚などの「感覚記憶」はそれぞれの感覚連合野に、言語記憶や論理記憶などは言語野や海馬に呼び出されることになり、思考とは、これを統合する作業であります。
「認知」や「思考」といいますのは、脳内で複数の情報が同時に扱われるということです。このためには、知覚情や記憶情報は、「短期記憶」として一定の時間保持されなければなりません。そして、このような情報が連合野内に一時保持されることにより、我々は初めてそれを自覚することが可能になります。これを「意識」といい、意識とは大脳皮質「連合野」における認知作業によって発生する極めて特殊な心理現象であります。
どうして意識が特殊な心理現象なのかと申しますと、それは、このような意識を伴う計画行動の比率というのは実際にはほんの僅かでしかなく、我々の日常生活における学習行動といいますのは、そのほとんどが大脳辺縁系の情動反応に従った情動行動という無意識行動によって賄われているからです。ですから、我々の脳内に発生し、行動の選択というものを司る「心の動き」といいますのは、そのほとんどが大脳皮質の意識に上らない、目に見えないものということになります。
では、ほとんど自覚されていないにも拘わらず、我々はどうやって理に適った常識的な日常生活を送ることができるのでしょうか。これは、大脳辺縁系の情動反応によって選択される情動行動といいますのは、それは無意識行動ではありますが、生後体験から学習獲得された反応規準に基づく暦とした学習行動であるからです。つまり、我々は成長に伴い、生後環境や社会環境に適応した適切な行動様式を無意識のうちに身に着けているということですね。このため、いちいち大脳皮質の手を煩わせることなく、我々は状況に応じた迅速な行動選択ができるというわけです。そして、このほとんどを実現しているのが大脳皮質ではなく、「大脳辺縁系」を始めとする、「大脳基底核」や「小脳」といった無意識の領域に備わった学習機能であります。
さて、大脳基底核や小脳といいますのは運動機能に関わるものですので、この回答では説明を省かせて頂き、次に、大脳辺縁系の情動機能と、それに伴う「感情」というものの性質が現在の脳科学ではどのように捉えられているかに就いてご説明を致します。
「大脳辺縁系」には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対しての「価値判断」が行われ、「情動反応」が発生します。この情動反応に用いられる価値判断規準といいますのは、生後の体験結果を基に「扁桃体」という神経核に獲得保持された「情動記憶」という学習記憶です。ですから、この反応によって選択される「情動行動」は「無意識行動」ではありますが、これは全てそのひとの生後体験に基づく「学習行動」であります。
さて「感情」とは、知覚入力に対して大脳辺縁系に発生した情動反応が情動性身体反応として身体に表出され、それが体性感覚として大脳皮質に知覚され、認知・分類の可能になった状態を言います。
情動反応には「快情動」と「不快情動」の二種類しかなく、これにより、「報酬刺激」に対しては「報酬行動(接近行動)」が選択され、「嫌悪刺激」には間違いなく「回避行動」が選択されるようになっています。そして、このような大脳辺縁系の情動反応の結果が実際の反応や行動となって身体に表出されることを「情動性身体反応」といい、運動神経系に出力されたものは「情動性行動」、自律神経系に出力されたものは「情動性自律反応」となります。
大脳皮質には大脳辺縁系に発生した情動反応が信号として直接送られてくるのではありません。では、我々はどのようにして感情の発生を自覚するのかと申しますと、まず大脳皮質は情動反応に伴って身体に表出された情動性身体反応の結果を内臓感覚などの体性感覚を通して知覚します。そして、過去の学習体験に基づき、それが喜怒哀楽のどのようなパターンに当たるかを認知・分類します。これにより、自分がいったい何に対してその情動を発生させているのかといった状況判断が可能になるわけですが、これを「情動の原因帰結」といいます。
情動反応は発生するまで知覚することはできません。当たり前ですよね。ですから、情動といいますのは大脳皮質の認知よりも必ず先に発生するものです。知覚できないものを抑制するというのはまず以って不可能です。加えて、大脳皮質がそれに気付くまでの間に選択される反応や行動は全てが無意識行動です。このため、情動行動を自分の意思でコントロールするというのは、我々の脳の構造上、本質的に困難ということになるわけです。
「理性」とは「感情に左右されない判断」と定義され、「理性行動」とは大脳皮質における、未来の結果を予測した「計画行動」に含まれます。では、大脳皮質はどのようにして認知よりも先に選択された情動行動を抑制し、理性行動などの計画行動を実現しているのでしょうか。
情動を抑制すると言いましても、大脳皮質には大脳辺縁系の働きを抑止する「抑制信号」のようなものを発生させる機能は一切ありません。では、どのようにするのかと申しますと、大脳皮質が大脳辺縁系の情動行動を抑制するためには、それに勝る、より価値の高い計画行動を立案する必要があります。その場の感情に流されず、想定される未来報酬の方により価値が高いと判定が下されるならばその計画行動は実行に移され、結果的には情行動が抑制されたということになるわけです。
ところが、ここには興味深い事実がひとつ隠されておりまして、果たして、この判断を下しているのは大脳皮質ではなく、大脳辺縁系であります。これがどういうことかと申しますと、つまり、我々の脳内では大脳皮質には「行動選択の決定権」というものは一切与えられておらず、過去の体験を基に未来の結果を予測し、如何に高度な計画行動を立案しようとも、「そうか、よし! やろう」、大脳辺縁系の情動反応がYESと首を縦に振らない限り、それが実行に移されることはないということです。
では、大脳皮質に行動選択の決定権が与えられていないとしますならば、我々の「意志」とはいったい何でしょうか。
「心の動き」とは行動を選択するためにあるわけです。ならば意志というのは心理現象における全能的な役割を果たしていることになります。しかしながら、それは大脳皮質の中にあるものではなく、意志とは即ち「行動選択の動機」であり、本質的には情動行動や本能行動を選択するための「欲求」に伴って発生するものであります。つまり、どちらのリンゴが大きいかを判断するのは大脳皮質ですが、大きなリンゴを選ぶのは大脳辺縁系です。では、その情動行動をキャンセルして小さなリンゴの方を選択するためには、何らかの代理報酬・未来報酬が必要になります。
行動選択の動機が自覚されることによってより価値の高い未来の結果を獲得することができるというのは事実であります。ですが、それも即ち欲求の実現を効率良く行う手段以外の何物でもありません。我々はしばしば、理性的な計画行動を選択するための動機を意志と呼びます。ですが、前述のプロセスにおいて必ずしも小さなリンゴを選択することが自分の意志とされる根拠は何処にもありません。何故ならば、意志というものが行動選択の動機である限り全ては自分の欲求に従うものであり、紛れもなくそれは「自分の意志」であるからです。計画行動とは違い、情動行動は自覚の伴わない無意識行動であります。ですが、だからといってその行動選択の動機が他人の意志であるはずは間違ってもあり得ませんよね。
このように、意志とは大脳皮質の機能ではありません。それは、すべからく実現すべき欲求に伴って脳内に発生する心の変化であり、大脳皮質はただ単にそれを自覚しているだけに過ぎません。そして、大脳皮質の意識に上り、我々が自覚できるのは認知作業を伴うほんの一部でしかなく、それ以外の行動選択は全てが無意識のうちに行われています。
大脳皮質の計画行動が未来の結果を予測したより高度な行動選択であることは間違いありません。ですが、情動行動もまた、生後体験によって獲得された反応規準に基づく学習行動であるという点では、この両者に構造的な違いは全くありません。では、意識・無意識を問わず、全ての行動選択の動機を意志と呼ぶならば、本能行動の選択もまた自分の意志ということになります。ところがどっこい、この本能行動を選択するための動機といいますのは生得的に定められた「全人類に共通の反応規準」であり、意志は意志でも、こればかりは自分の意志ではありません。
何故、本能行動だけが除外され、神経系における何れも同様の信号伝達であるにも拘わらず、それは心理現象とはいったい何処が違うのでしょうか。果たして、生得的な本能行動の選択と、学習行動の選択に伴う心理現象では、その性質が全く異なります。
本能行動とは遺伝的に定められた「無条件反射」による「種に固有の先天的な行動様式」であります。まず、これは全人類に共通であり、反応の結果に「個人差・個体差」というものはなく、この規準が変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。これに対しまして、学習行動といいますのは生後体験によって獲得された「条件反射」です。それは「個体に特有の後天的な行動様式」であり、反応の結果は状況に応じて臨機応変に変更され、その判断規準は生後学習に基づくものであるため、それぞれの個人体験に応じて明らかな「個人差・個体差」が発生します。
本能行動は本質的に全人類共通であり、遺伝的な体質を除くならば個人差というものは一切ありません。そして、それは我々が動物として生きてゆくために最低限必要なものですから、如何なる状況においても確実に実行され、常に同じ結果が選択されなければなりません。しかしながら、ひとの心には明らかに個人差というものがあり、それは常にめまぐるしく変化するものです。ですから、
「ひとの心は十人十色」
「女心と秋の空」
このようなものが心理現象の性質として歴然と反映されている以上、それは本能行動とは全くの別物と解釈する以外にないわけです。
これが、心理現象から一切の本能行動が除外される理由です。従いまして、心とは学習行動を選択するための神経系の情報処理ということになります。
大脳皮質や大脳辺縁系といいますのは、それまでの生命中枢(脳幹以下、脊髄まで)のあとから発達した新皮質であり、我々哺乳類と鳥類が、進化の過程で脳内にその機能を発達させました。従いまして、脳にこのようなはっきりとした解剖学的な違いがあるわけですから、これを以ってすっぱり高等動物と分類することができます。
生命中枢によって司られる本能行動とは、生得的に定められた反応規準に従って発生する「無条件反射」によって構成されます。生得的に定められた反応規準といいますのは、例えば、ある特定の刺激入力に対しては必ず「苦痛」という判定を下すことが産まれながらにして決まっており、生涯に渡って絶対に変更されないということであります。従いまして、感覚系を通してこの刺激が入力されるならば、生命中枢は無条件で回避行動を選択することになります。
「熱い!」と感じたら手を引っ込める、このような反応は生まれながらにして定められています。何も考えないのですから、これを心の動きとすることはできませんよね。まして、それは全人類に共通の反応なのですから、これを自分の意志と呼ぶこともできません。
申し上げるまでもなく、生命中枢には、「摂食行動」「生殖行動」「回避行動」など、我々が動物として生きてゆくための機能が全て備わっています。では、そのあとから発達した大脳皮質や大脳辺縁系の学習機能というのは、いったい何のためにあるのでしょうか。それはつまり、学習行動とは本能行動をより効率良く実現するためにあります。従いまして、心の動きといいますのは学習行動を選択するためのものなのですから、心とは即ち、本能行動を補佐し、それを効率良く実現するためにあるということになります。では、具体的な生理学的構造というのは、いったいどのようになっているのでしょうか。
最初に申し上げました通り、神経系の情報伝達といいますのは、
「知覚入力―価値判断―結果出力」
という経路で行われ、一切の例外はありません。ですから、本能行動を実現するための無条件反射といいますのは、
「知覚入力―生命中枢―結果出力」
という経路で行われていることになります。そして、この生命中枢には学習機能というものがなく、常に同じ反応を発生させるように予めプログラムされています。
では、ここに大脳辺縁系という新しい皮質が発達することにより、それまでの反応経路に対しまして、
「知覚入力―大脳辺縁系―結果出力」
という新たなバイパス配線が施されたことになります。そして、こちらの回路には学習機能が備わっており、産まれたときにはプログラムが白紙で、書き込みの可能な状態になっています。
苦痛に対して回避行動を選択するだけでしたら生命中枢の反応だけで十分です。わざわざバイパス配線を使う必要はありません。ですが、このバイパスの方にひとたび苦痛という結果が学習されますならば、次からは無理に痛い思いをしなくとも事前に回避行動を選択することができます。つまり学習記憶といいますのは、生後環境から獲得された体験結果を保持することにより、次に同様の事態と遭遇した場合、より迅速な行動の選択を行うためのものです。そして、この事前の回避行動を選択させているのは「恐怖」という感情であり、それは大脳辺縁系の学習記憶に基づく情動反応によって生み出されたものであります。従いまして、情動行動という学習行動は、回避行動という、自分の身を守るための基本的な本能行動を、より効率良く実現するために選択されたということになるわけです。
同様に、一度食べて「美味しい!」と学習されたものには、味覚情報だけではなく、視覚や臭覚からの入力によって大脳辺縁系には「快情動」が発生します。これにより、「報酬行動(接近行動)」が選択されやすくなりますので、接触行動の効率は必然的に高まります。このため、食べ物の好き嫌いや異性のタイプといった様々な「個人の好み」というものが発生し、「ひとの心は十人十色」ということになるんですね。
ただ単に生命中枢が反応するのではなく、「怖い!」と感じる、「美味しい、嬉しい」と思う、これこそが我々の生きた心の動きであります。従いまして、生命中枢による本能回路ではなく、そこに施されたバイパスの方を、我々は「心の回路」と呼ぶことになります。
とはいえ、人間の心というのはそんな単純なものではない、もっと複雑であるはずだ、仰る通りであります。
「知性」といいますのは、その動物における「本能行動に対する学習行動の比率」によって計られます。当然のことながら、高等動物になるに従ってその比率は高まり、行動はより複雑になります。そして、学習行動の比率の極めて高い、我々人間のたいへん複雑な生殖行動を「恋愛」といいます。
「恋愛感情」といいますのは大脳辺縁系の情動反応であり、特定の異性に対して発生する強い反応は知らず知らずのうちに反復学習されたものです。もし、本能行動の比率が100%であるとしますならば、好みの相手は手当たりしだい、白昼堂々ひと目も憚らずということになってしまうはずです。ですが、そうはならないのは、生殖行動という本能行動にも学習行動のバイパス配線が施されており、その中継中枢には、恋人に対する強い思いや、「恥ずかしい」といった道徳観に対する反応規準もきちんと獲得されているからです。これは、特定の異性に対して生殖行動を確実にするためであり、恥ずかしいと思うのは、本能行動を実現するにしましても、まず我々は学習し、人間の複雑な社会環境に適応する必要があるからです。
さて、ある学者さんが、視覚刺激の入力に対して大脳辺縁系に発生した情動反応が視床下部を介して出力され、性ホルモンの分泌が行われるという経路を、サルの実験によって確認しました。もちろん、視覚刺激によって生殖行動が選択される生命回路はどの動物にもあるはずです。ですが、そのとき大脳辺縁系が反応していたということは、視覚刺激を性的刺激として判定したのは無条件反射ではなく、明らかな情動反応であるということです。従いまして、この経路が生殖行動を実現するための生命回路に施されたバイパス配線であることは、もはや疑う余地はありません。では、特定の異性から得られる知覚入力に対し、それが常に「報酬刺激」「性的刺激」と判定されるのは、取りも直さず生殖回路に施された大脳辺縁系を中継核とするバイパス配線側の学習結果ということになります。果たして、このバイパス配線のことを「恋愛回路」と呼んで一向に差し支えないと思います。
このように、我々の心といいますのは、必要不可欠な本能行動をたいへん複雑な手段によって臨機応変に実現させています。そして、このような情報の遣り取りは、「脳の三位一体説」で述べられます中枢系の機能分類に、極めて整然と適合します。
先にご説明致しました「情動の原因帰結」といいますのは、心理学の時代では仮説論議の応酬でしかありませんでした。ですが、やや不十分ではありますが、現在では上記のような生理学的な機序も可能となっています。では、一緒に触れましたように、大脳辺縁系の情動反応といいますのは「快情動」と「不快情動」の二種類しかありません。にも拘わらず、これがどのようにして喜怒哀楽といった複雑で多彩な感情に分岐・成長してゆくのかといったことは残念ながら、まだほとんど解明されていません。ですが、基本的な糸口だけは、かろうじて開かれています。
例えば「青斑核A6」から脳内広域に投射される「NA(ノルアドレナリン)」は、神経系全体の覚醒状態を亢進させ、注意力や判断力を高める働きのあることが知られています。これは、どちらかといいますならば恒常的な分泌によって脳の安静覚醒状態を維持する「5-HT(セロトニン)」などは異なり、環境の変化に伴い、「いざ!」というときに分泌される伝達物質です。そして、環境からの知覚情報を基に「いざ!」という判断を下し、「青斑核A6」に信号を送っているのは、他ならぬ大脳辺縁系の情動反応であります。
この他にも、環境の変化に伴って発生する情動反応に従う神経伝達物質の含有神経核には「腹側皮蓋野A10」などがあり、ここから大脳皮質前頭前野に対して行われる「DA(ドーパミン)」の投射は、満足感や幸福感を発生させると考えられています。このような伝達物質の機能や経路が特定されたことにより、我々の心が状況によってあれこれと移ろうのは、与えられた環境の変化を情動反応として出力させる大脳辺縁系が存在すためであることは、もはや疑いのない事実として扱うことができます。
更に、「青斑核A6」のNA広域投射は快情動・不快情動、どちらの信号に対しても発生しますが、不快情動に対して幸福感を味わうというひとはいません。ならば、「服側皮蓋野A10」のDA幸福回路は不快情動には反応していないということになり、取りも直さずこれは、大脳辺縁系に発生した情動反応が、入力を受けた神経核の反応によって特定の感情に分岐してゆくことを示唆するものであります。
また、「中脳中心灰白質」といいますのは、表在感覚からの入力に対しては「攻撃行動」が発生し、内臓感覚には「静止行動」を選択することが古くから知られています。これは、外的刺激に対しては攻撃行動など、問題を能動的に解決するための回避行動が選択される必要があるのですが、出血などの致命的な傷害である場合は、無闇な行動は返って危険であるからです。
脳内に情動機能を有する高等動物の場合、この中脳中心灰白質に対して情動信号の投射経路が設けられています。大脳辺縁系に発生する情動反応は「快情動」と「不快情動」のどちらかしかありません。ですが、不快情動の信号が送られたとき、この中脳中心灰白質に別な経路から表在感覚が入力されたいた場合は「攻撃行動」、即ち「怒り」、これに対しまして、内臓感覚に反応していたならば、それは「諦め」や「悲しみ」、このように、最初は単なる不快情動でも、それはしだいに分類の可能な感情に分岐・成長してゆくということになるはずです。
細かいことはまだほとんど分かっていない状況ではありますが、情動反応といいますのは様々な神経核を中継することにより、やがて特定の感情として成長してゆくことだけは事実です。ならば、それぞれの神経核の機能というものをひとつひとつ解明してゆくならば、いずれは感情という、この極めて複雑な心の動きにも整然とした生理学的な機序が可能であるということですね。
脳に電極を刺すことなくその動きを探る「コンピューター撮像解析技術」の開発や、分子生物学、ゲノム解析などの応用により、現在の脳科学はここまで漕ぎ着けています。
お礼
長々とありがとうございました。本当に参考になりました。