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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い
心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
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けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、 「人間は何であったか」(過去への視線) 「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、 「心とは何であったか」 「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。
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- serpent-owl
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これ以上質問者を煩わせるつもりはありません。「的外れ」との趣旨は充分に立証されたと思いますので、私は満足です。 予定通りに質問をお締めください。>satonohukurouさま
- fwappy
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よく考えてみたが、やはり、私は私自身の「学への誠実」を serpent-owl氏に対して見せつける必要があると感じた。 だから全知全霊を込めて彼の「内発神話」がいかに矛盾しているかを示そう。 >センサーを与えたとして、そこに受けた刺激を「痛い」という >ネガティブな意味を持つものと判断すること。これをプログラムして >外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に判断できる >ようになるにはどうせねばならないか…。 > これは、その刺激と「機械自身の破壊」とを、機械自身が自発的に >結び付けるように判断できて初めて実現されましょう ここで、serpent-owl氏は 「痛みという刺激がネガティブであると 機械自身が内発的に判断できるようになるには どうせねばならないか…。」 と問い 「その刺激と「機械自身の破壊」とを、 機械自身が自発的に結び付けるように 判断できて初めて実現されましょう」 と答えている。 比べてみれば分かるが、違いは ネガティブの意味が機械自身の破壊という 具体的な事象に置き換わっただけで、 内発的=自発的と同語反復的な説明に 終始している。 >さらに「機械自身の破壊」という事柄が、機械自身にとって >ネガティブな意味を持つということ。これもプログラムとして >外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に >判断できるようになるには…? > これも可能かどうかは別として、機械が「死の観念」を >自発的に持つことが要件となりましょう。そのためには >「存在しつづけることの意義」を機械が内発的に持つ必要があり、 >それは次世代の再生産であってもよいかもしれませんし、 >果たすべき何らかの使命であってもよいかもしれません。 ここでも、結局、破壊から死という陳腐な連想を行うに留まっている。 しかしながら、彼は本質的な問題を見逃している。 痛みを不快と感じるために、破壊とか死とかいうより高度な知的観念を 必要とせねばならないとしたら、赤ん坊はなぜ痛みに対して泣くのか?(笑) 赤ん坊が、破壊とか死とかいうことを意識した上で痛みに反応しているとは とても思えない。我々にしたところで、痛みに対する不快感はわざわざこの ようなことを意識した上で感じているわけではない。 >しかるに、fwappyさんは、「痛いのがイヤだというのに、 >いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ」 >と述べておられます。…順番が、逆なのです。 >「自分の破壊につながる」ことが判断可能という前提があって、 >初めて「痛いのがイヤだ」という判断に至りうる、 >これが、上記に示しましたように、私の見解です。 逆じゃないでしょう。貴方、文章を読めないんですか? 「自分の破壊につながる」と意識したから 「痛いのがイヤだ」というのか?と私が問い それに対して >「自分の破壊につながる」ことが判断可能という前提があって、 >初めて「痛いのがイヤだ」という判断に至りうる、 と答えるならば、まさに同じことを言っていると いうわけです。35にならなくたって分かること。(笑) 私が思うに「痛み」も「不快」も我々が感じるような意味では 絶対にプログラミングできない。そんなことは分かり様がない からです。 しかしながら、それはプログラムが痛みや不快の感覚をもたらさない という意味ではない。結局のところ、我々は何かを表す場合に、他者の 視点でしかそれを記述できないことが問題なのです。 すなわち我々が「痛みを不快と感じる」ことに対して、その現象を 外から解釈すれば、serpent-owl氏のような解釈も出来るだろうが そのことは、我々が感じていることのリアルな表現足り得ないという ことです。 serpent-owl氏の問題点は、「内発的」といいながら、 相変わらずシミュレーションの実行者の視点でモノを 見ていることにあります。しかしながらシミュレーション の実行者は、シミュレーションに対して他者なのですから そこからの説明に内発もヘッタクレもないのです。 結局彼はホムンクルスを中に抱えこんでしまったわけで その時点で袋小路に入りこんでしまったのです。
- fwappy
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serpent-owl氏のNo.83へ それが「学への誠実さ」かね? ああ、彼に20点という「エサ」を与えてやってくれ(笑)
- serpent-owl
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fwappyさんのNo.82につき。 再反論の必要はないようです。 予定通り、質問をお締め下さい。>satonohukurouさま
- fwappy
- ベストアンサー率0% (0/5)
serpent-owl様 >まず、#77「中国語の部屋」の話、「ある意味で反論」というのは、 >もちろんfwappyさんへ向けたものです。同時に、認知科学における >「心の問題」に関する議論についての、質問者に対する情報提供の >性格もありますので、「回答」としました。 「中国語の部屋」から 「心のシミュレーションが、もとの心それ自身と同じ現象を再現しない」 という結論を引き出すのはよい。しかしながら 「心のシミュレーションは、心ではない」 というなら、それは誤りだと言わざるを得ない。 > 二点目。「ぶたれると痛いぞセンサー」について。 >「揚げ足取り」に近いですが、これは有効なご批判として受け止めましょう。 >が、この点は当方の立論の主要な骨子には何ら影響はありません。 まあ、せいぜい虚勢を張られるが宜しいでしょう。 > 三点目。 >>貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと >>心がないことを混同しています。 >について。 > 私は混同していません。 >「プログラムで心を再現できても、それが心の創造であるとは言えない」 >としているだけです。「心ではない」と断定していません。 「「ある」とは言えない」だけをいうのが不適切だとは 一度もお考えになりませんでしたか。 私なら「あるともないとも言えない」といいます。 すなわち、そうかもしれないしそうでないかも知れない ということです。 >「中国語の部屋」の話を何のために紹介したと思っているのですか。 では「中国語の部屋」はなんだと思っているのですか? >あの話は、 >「部屋の中にいる人が本当に中国語がわかっているのかどうか、 >部屋の外の人間には決定不可能である」ことを示しています。 >プログラムで心を再現した場合についても同様です。 >これを外部から観察している人間には、それが心であるかどうかは >決定できません。私はこのことを主張しました。 そうは聞こえなかったな。 貴方は「中国語を分かったとはいえない」とだけいった。 「中国語を分かってないとはいえない」とはいわなかった。 >したがって、 >>私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を >>持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは >>その心がいかにして存在しているのか解き明かせない >>だろうということです。 >とのご見解は、まさに「私serpent-owlの主張したところのもの」であって、>>fwappyさんの主張したところのものではありません。 ほほう。私がいったのではウソで、貴方がいったのなら本当か? それが貴方の誠実か?独善といいなおしたほうが宜しいのではないかな。 もし同じだというなら「結構ケッコウ」といえば宜しいのではないかな? >#77にて、「哲学の根本問題の一つである他我問題」に絡めて >「隣に座っている人に「本当に心があるのか」確証できない」と、 >私はすでに述べております。この論点は私が主張したもので >あることはここからも明らかでしょう。 だからどうだというのかな? まさか、本気で 「オレがいうのはいいが、キサマがいうのはけしからん」 と3歳のコドモのようなことをいうのではあるまいね。 > 念のため、fwappyさんの#73を再び引用しましょう。 >>「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、 >> いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。 >> だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、 >> そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ? >> そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒 >> みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」 > #72の私の書き込みに関し、fwappyさんが提示した批判はこれだけです。 >たったこれだけです。 ああ、ところで、これの意味がまだ分からないのかね? 要するに君がいう内発的の意味が 「「自分の破壊につながる」と意識すること」 だというならこれほど馬鹿げたウソはないと いうことだ。 誰に聞いても痛みがこのような意識から 生まれるとはいうまい。痛いものは痛い。 そこにはなんの意識される理由もない。 だからこそ痛みがどこからくるのかは謎に 満ちているのだ。後付けの説明で納得できる なら苦労はない。 >やはり「学への誠実さ」は大切ですよ。 自尊心の誤りでは(笑) >これを持たず依怙地に固執すれば、今度のように >かかなくてもよい恥をかくことになります。 ああ、それは自戒の言葉ですか? 私は別に恥ずかしいことなどないですよ(笑) 我々の心は我々自身によって生み出されたものではない。 気がついたときには何故だか知らないが意識があった。 この「不条理」こそが重要なのだ。そうは思わないか? serpent-owl氏よ。
- serpent-owl
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はあ…お気の毒に…。的外れな批判の次は詭弁ですか。困ったお人だ。おっと、もちろんこれはfwappyさま宛てですよ。 じゃ、#80につき少しずつ見ていきましょう。 まず、#77「中国語の部屋」の話、「ある意味で反論」というのは、もちろんfwappyさんへ向けたものです。同時に、認知科学における「心の問題」に関する議論についての、質問者に対する情報提供の性格もありますので、「回答」としました。 fwappyさんに対しては「ヒント」というつもりだったのですが…。 二点目。「ぶたれると痛いぞセンサー」について。 「揚げ足取り」に近いですが、これは有効なご批判として受け止めましょう。たしかに言葉の用い方が不適切でした。単に「物理的な刺激を感知するセンサー」とでもしておけばよかったのですね。ではお詫びした上、そのように訂正いたしましょう。 が、この点は当方の立論の主要な骨子には何ら影響はありません。 三点目。 >貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと >心がないことを混同しています。 について。 私は混同していません。「プログラムで心を再現できても、それが心の創造であるとは言えない」としているだけです。「心ではない」と断定していません。 「中国語の部屋」の話を何のために紹介したと思っているのですか。あの話は、「部屋の中にいる人が本当に中国語がわかっているのかどうか、部屋の外の人間には決定不可能である」ことを示しています。プログラムで心を再現した場合についても同様です。これを外部から観察している人間には、それが心であるかどうかは決定できません。私はこのことを主張しました。したがって、 >私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を >持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは >その心がいかにして存在しているのか解き明かせない >だろうということです。 とのご見解は、まさに「私serpent-owlの主張したところのもの」であって、fwappyさんの主張したところのものではありません。#77にて、「哲学の根本問題の一つである他我問題」に絡めて「隣に座っている人に「本当に心があるのか」確証できない」と、私はすでに述べております。この論点は私が主張したものであることはここからも明らかでしょう。 念のため、fwappyさんの#73を再び引用しましょう。 >「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、 > いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。 > だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、 > そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ? > そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒 > みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」 #72の私の書き込みに関し、fwappyさんが提示した批判はこれだけです。たったこれだけです。これのどこをどう読めば、「私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を持っていると感じているのに、それを外から見た限りではその心がいかにして存在しているのか解き明かせないだろうということです」という内容を表現していることになるのか。さらにはまた、「私は貴方が掲げている的が本当に重要なものかどうかについて、別の的を掲げることで、異議を呈しているのですよ」とありますような「別の的を掲げる」箇所がどこに見出されるのか。…fwappyさん、答えられますか? 読者の皆さん、読み取れますか? #80におけるfwapppyさんの上記発言は、私の#79を「読んだあとで新たに考え出した論点」です。「心がないことと混同している」という点は、またしてもfwappyさんの誤読ですし、「心があるかどうか決定不能」という点は私の主張する論点を剽窃するものであり、「別の的を掲げる」という点は、仄めかしすらしていない論点の後付けであり捏造です。 相手の見解を不当に歪曲し、剽窃し、勝手に論点を捏造する…これらはすべて、まことに恥ずべき詭弁であると申し上げざるをえません。総じて「見苦しい言い逃れ」の典型となっております。 やはり「学への誠実さ」は大切ですよ。これを持たず依怙地に固執すれば、今度のようにかかなくてもよい恥をかくことになります。これは忠告です。 * さて、時間切れが迫っております。フェアプレイの精神から、fwappyさんに反論を用意する充分な時間を差し上げたく、少々急いで書きました。表現上、至らぬ点もあったかもしれません。 また、私の方からの反論は、とりあえずもう必要ないと思います(というか、そう思いたいです)。この議論に関する裁定はsatonohukurouさんにお任せします。
- fwappy
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serpent-owl様 >fwappyさま、前回の回答#77「中国語の部屋」の話が、 >ある意味で「反論」になっていたのに気付かれませんでしたか? 誰に反論しているのですか?(にやにや) No.72で >では「ぶたれると痛いぞセンサー」を機械に与えましょう。 と書いたのは、貴方ですよ。私ではありません。 要するに「ぶたれると反応するぞセンサー」は作れるが、 そいつが「痛いぞ」センサーだということは作った人には いえないってことですよ。 >「プログラムして心を再現してもそれは心とは言えず、意味が無い」 >というのが私の見解であるのに対して >「どうやってプログラムするのか、そんなことはできないだろう」 >と仰せになっている点が「的外れ」なのです。 貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと 心がないことを混同しています。 私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を 持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは その心がいかにして存在しているのか解き明かせない だろうということです。私は貴方が掲げている的が本当に 重要なものかどうかについて、別の的を掲げることで、 異議を呈しているのですよ。 貴方が私の指摘をどううけとるか貴方の自由ですよ。 もちろん「混同」に固執するのは随意です。 それが貴方の言う「誠意」だというなら。 ただ私はそのような態度を「頑迷」と呼ぶし、 貴方の誠意を「自省の欠如」と呼ぶだけ のことです。
- serpent-owl
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ふくろうです。へびくんは今、生卵を殻ごと丸呑みして「ちゅうとはんぱなつちのこごっこ」をやっており、口がきけませんので、私が代わって。 fwappyさま、前回の回答#77「中国語の部屋」の話が、ある意味で「反論」になっていたのに気付かれませんでしたか? すぐ下にありますので繰り返しませんが、要は「人工知能による心の再現は心そのものの創造とは言えない」という立論です。 #72のおしまいの方に書いた人工知能の話も同じ趣旨でした。「ハードウェア外部からプログラムされた反応系が、あたかも人の心のような反応を示すということと、機械そのものが内発的に「心」を獲得するということとは別のこと」とした上で、「前者はシミュレーションにすぎない」と申し上げております。またこの論点は、#29の「分けられるようで分けられない部分というところをクリアすれば、コンピュータやロボットにも、外部からプログラムされるのではない形で内発的に快と不快を感じたり、「心」を持ったりする可能性が開かれるのかも」しれないと述べたこととつながっております。(続く#30で、fwappyさんは「賛同」とまでは言わなくとも「興味深い」と仰せですね…) あらためてまとめますと、#72終盤での私の意見は「外部からプログラムするのではなしに機械に心を獲得させることは、不可能ではないだろうがきわめて困難である」というものです。 ではここで、「コブラおにいちゃんのかぷっ!」を検討いたしましょう。#73より引用します。 >「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、 > いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。 > だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、 > そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ? > そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒 > みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」 まず手短に申しますと、「プログラムして心を再現してもそれは心とは言えず、意味が無い」というのが私の見解であるのに対して「どうやってプログラムするのか、そんなことはできないだろう」と仰せになっている点が「的外れ」なのです。私は「プログラムしてもしょうがない」と言っております。「プログラムなどできない」という批判は、私の見解が「そうしたプログラムは可能だ」と主張するものである場合には有効です。が、私はそうした可能性に関しては「それが可能だとしても」と仮定しているにすぎません。 fwappyさんのご批判は、「月の裏側に住めるとしても、さみしいからいやだ」というのに対して「ほほう、どうやって月の裏側に住めるっていうんだ? ほら、言ってみろ(にやにや)。言えないの? 見苦しいね」と突っ込んでいるのと同じことです。「空振り」であり、「自爆」とも申せましょう。 もう少し細かい点も見ておきます。#72では、具体例として「ぶたれると痛い」という心的内容を「外部からプログラムすることなしに」、いいですか? 「外部からプログラムすることなしに」獲得させるにはどうすればよいか、を考えています(そうでないと「心の獲得」とは言えないだろうという意味で)。 センサーを与えたとして、そこに受けた刺激を「痛い」というネガティブな意味を持つものと判断すること。これをプログラムして外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に判断できるようになるにはどうせねばならないか…。 これは、その刺激と「機械自身の破壊」とを、機械自身が自発的に結び付けるように判断できて初めて実現されましょう(これも、仮に可能だとしてです)。 さらに「機械自身の破壊」という事柄が、機械自身にとってネガティブな意味を持つということ。これもプログラムとして外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に判断できるようになるには…? (そうでないと、結局「痛いはイヤだ」につながりませんから。) これも可能かどうかは別として、機械が「死の観念」を自発的に持つことが要件となりましょう。そのためには「存在しつづけることの意義」を機械が内発的に持つ必要があり、それは次世代の再生産であってもよいかもしれませんし、果たすべき何らかの使命であってもよいかもしれません。すると、その認識はどうやって自発的に持てるようになるか…。 …と、こうなりまして、結局「きわめて困難」ということになる。#72の具体例は、このことを示しております。 しかるに、fwappyさんは、「痛いのがイヤだというのに、いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ」と述べておられます。…順番が、逆なのです。「自分の破壊につながる」ことが判断可能という前提があって、初めて「痛いのがイヤだ」という判断に至りうる、これが、上記に示しましたように、私の見解です。この点を捉えそこなうことから、fwappyさんは「どうやって痛いのか痒いのかどうやってプログラムするのか、できっこないだろう」と続けておられます。 したがって、「的外れ」です。(…たいていの読者には読み取れてると思うんですが…) #72における「的の所在」は、一つ「プログラムで心を再現しても、それは心とは言えない」、一つ「機械自身が内発的に心を獲得することは不可能ではないだろうが、きわめて困難である」、という、この二点にあります。「コブラおにいちゃんのかぷっ!」は、そのいずれに対しても有効な批判たりえておりません。 * なお、蛇足ながら。 どうもfwappyさんには「にやにや」とか「見苦しい」とか「言い訳できないから…」とか、相手の心情を不必要に刺激することを欲するがごとき文言が目立つように感じます。 まず、これは私に対してはムダです。そのような挑発で冷静さを失うようなことはないという自信があります。自信がありますから、「今後は控えて欲しい」などということも申しません。どんどん、どんどん、おやりになってけっこうです。遠慮は要りません。私に対しては、いくらでも。 ただ、それがfwappyさん御自身の人間たる品位の低劣さを自ら露呈することにもなっている点にはご注意を。自らの言葉で自らを汚すことが得なことか損なことか、その辺はお考えになった方がよいでしょう。 それから、前にhalkaさんに申し上げたことですが、「学への誠実さ」について。 憚りながら、私自身はこれを持っていると自認しております。ですから、私の限界ゆえに私が間違った見解を提示し、その間違いを判明明晰に指摘された場合、一瞬も躊躇することなく私は誤謬を認めます。その際には「恥」の感覚も生じましょうが(人間ですから)、私は自らにそれを感じることをも禁じようと考えております。見苦しい言い逃れなどはいたしません。 fwappyさんは、かかる「学への誠実さ」をお持ちなのかどうか。 …次の書き込みが楽しみです。
- fwappy
- ベストアンサー率0% (0/5)
>コブラおにいちゃん、まだ、わかんないのかなぁ? >まとはずれの、いみ! わかんないかもねっ! うわ~い! まだ、反論を思いつかないのかな。 この件に関してはただただ見苦しいね。 なぜ、自分のほうがまったくずれたところに 的を掲げていると思えないのか? 貴方が正しいのか?serpent-owlよ。
- serpent-owl
- ベストアンサー率53% (31/58)
おっと、明日くらいまで控えようかと思っていたのですが、のんびりもできなくなりましたね。(やはり事情がおありでしたか、satonohukurouさま) では「中国語の部屋」の話でもいたしましょう。 けっこう有名な話です。もともとは言語哲学者のJ・R・Searleが、意味・理解・思考を計算に帰着させる古典的計算主義に批判を加えるために案出した、一種の思考実験です。言い換えれば、「人工知能で再現できたとしても、それは心とは言えない」ということを示すものです。 内容はこう。 英語は理解するが中国語はまったく理解できない人が部屋の中にいる。その部屋の中には中国語の書類が大量にある。そして中にいる人は、中国語のあらゆる操作に関して網羅的に書いてある英語の本を持っている。 この人に、部屋の外から中国語の文字列を書いた紙を差し入れる。するとこの人は、中国語の規則書と大量にある中国語の書類をもとにして、紙に「それらしい答え」を中国語で書くことができる。すると部屋の外の人は、中の人が「中国語を理解し、返答した」と考えることができる。ところが…実は中の人は中国語を理解してはいない。…という話です。 大量の書類=データベース、規則書=プログラム、アルゴリズム、中にいる人=コンピュータ…というふうに読み替えてみれば趣旨はおわかりでしょう。いかに「あたかも人の心のように反応している」ように見えても、それは「心の獲得」とは言えない。 考案者は、これで「AIによる心への到達の不可能性」を示そうとしました(非常に周到な反論予測と反・反論も用意して)。が、この思考実験には今一つ別の帰結もあるように思われます。それは「外部からの観察では『心』に到達できない」ということです。部屋の外にいる人は、中にいる人が本当に中国語がわかっているのか、わかっていないのか、確証できません。極端に言えば、隣に座っている人に「本当に心があるのか」確証できないというのと同じことです。このように捉えると、これは哲学の根本問題の一つである「他我問題」とも重なってきます。そうしますと、以前軽く触れておいたことではありますが、やはり「自他の不連続をみすえる思想」(レヴィナスなど)にも一瞥を与えておく必要があるように思われます。 * 「幻肢」に関しては別に質問をお立てになるのですね。では、その機会を待ちましょう。stomachmanさま、そういうことで。 おや? へびくんに言いたいことがあるようです。 きゃほほぉ~い! コブラおにいちゃん、まだ、わかんないのかなぁ? まとはずれの、いみ! わかんないかもねっ! うわ~い! …だそうで…。はて?
お礼
ご回答の皆さまへ No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。