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われらが《繊細の精神》なる情況にても論理的なのだ
- われらが《情感の共同性》なる社会にあっても必要なときには論理的に考え振る舞うのだ。
- 幾何学の精神と繊細の精神との違いについて。
- 幾何学の精神が優勢な人間関係にあっては論理で人を丸め込み、繊細の精神にうったえる社会ではその論理を象徴として人を丸め込む。
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ブラジュロンヌさんおはようございます。 昨日は失礼致しました。あらためてべた私見を続けさせて頂きます。つーか お礼にあった貴文面に触れてみたいと思います。 >日本の場合は その議論の過程のどこかで 天の声が介入してくるのかも知れない。 議論の前にすでに根回しがすすめられている。議論の煮詰まった頃を見計らって――もしくは 煮詰まった情況に到っていなくても―― 根回しされて来た初めからの《悲願》を 結論として取り決める。 先日の衆院採決をどう思うか?といわれるのなら、論理もなにもないただのかぼちゃ衆の諾の合唱でしょうね。昔のような派閥がなくなって単一のあべ鵜匠につながれたあわれな党員のかずあわせ、ということだと思います。 > 天の声とは 何か? じつは そうは言いながら よく分かりません。 論理的に練りに練った内容であるかも知れないし(意外とそうなのかも知れないし) 議会ではお互いに反対派を納得させるために自分の言葉で説得するというのがきまりです。政府権力側も相手が論理を知らないバカだとは思っていないだろうという前提の下に、聴衆である我々もその声に耳を澄ましているわけですが、残念ながら論理的に納得できる内容はなかったということで、多くの言論人も憤っているのです。もし澄み切った天の声が自民党員だけに聞こえたのなら、それをぶがいしゃであるわれわれにも間接的に聞かせて欲しいのですが、それもない。となれば>あるいは 権限の上位の者の単なる好みにもとづく内容であるかも知れません。 これしかないでしょう。 > でも 人びとは もしそのような天の声にそれでも従っている場合があるとするならば いづれにせよ 将来のことは 《理論的に完璧な内容を結論とすること》がつねによき選択であり政策であるとは限らないと 心のどこかで思っているかもしれないからだと思われます。 そこが私にも良く分からないのですが、与党党員が国民の未来の安全と生命を自分たちの現在の立場保持と引き換えに売りはらったのなら、まことにけしからぬことであると思いますよ。 つまり、人間は言葉で論理(人類共通の理解事項のひとつ)を構築し反対派や無知な人間をなっとくさせるということを繰り返して徒党を増やしてきたわけでしょう。その論理の内容はドイツの苛烈なものから日本のゆったりしたええかげんなものまでいろいろあるとは思います。言葉一つ一つの厳密性というものがそれには関わってきますが、日本人の言葉のくくりというのはどうもええ加減をこえてルーズすぎる、ことばではAといって、中身ではA’、いやZ(ゼット)といって、それでなんとなく通用することがあるわけで、裏工作もあるのかもしれないが、何のための議会なのか?どうして本音をしゃべらないのか?これはやはりまずいと思うのですね。あべ採決をみてつくづくそう思いました。 人間言葉に絶望すればどうなるか?感性だけに頼る社会はその崩壊につながるのではないのか。
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- kohichiro
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ブラジュロンヌさんおはようございます。 先回の回答そのものがひどくおおまかな原則論のようになっていて、戸惑いを受けられたかと思います。 確かにしっかりと貴質問を読んで理解しておればこのような回答にはならなかったと思います。お詫び申し上げます。とりあえずはコピペ >論理的な内容を伝達するときに 必ずしも言葉に出さないで それこそすでに根回しが済んでいる試案に織り込みその試案をめぐって ああでもないこうでもないと延々と議論はつづけていながら どこからか権威や権限を持ったところからの声がかかったかのようにして 頃合いを見計らい落としどころを形成しつつそこへみちびく》 このようなナラハシについて どう考えるか? 日本語の文章も、ともかく論理的であればそれなりの理解は可能です。問題は文章全体の論理的な構造にはなく、その中の記号的なブロックのひとつひとつの意味がくっきりと社会的に定義されているのかどうかということにあるのではないかと思われます。日本語で言えば慰安婦であり、英語で書けば性奴隷であるというような極端な例もあります。これを日本人同志でやっているのが国会でしょう。憲法には違反しないと総理がいい、学者たちが違反していると言っても顔色も変えず党員全部が諾々といってしまうという気持ち悪い状況を論理の不在だと思いませんか。 結局あいまいにすることで社会としての流動性、融通無碍な状況を作り出している。これは日本の良い点だと思われますか? ちょっと急な用件が出来ました。とりあえずここで発信します。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 安保法制をめぐって質問をもうけました。そういった具体的な事例についての議論のほうが実質的にすすむかと思いました。 今回のこの質問は やっぱり意図・ねらいを見失いました。よく練っていなかったように思います。 個別に考えるところを取り上げて行きます。 ★ 日本語で言えば慰安婦であり、英語で書けば性奴隷であるというような極端な例もあります。 ☆ 単純にですが 売春に――違法かどうかをいま別として――従事することと性奴隷とは 違います。 会社員に社畜という言葉が当てられる場合がありますが 重労働と強制労働と奴隷労働とは違います。 意志自由が 曲がりなりにも保障されている場合に その上司の命令に違反してもさほどの処罰がないばあい これは 重労働であり きちんと処罰が取り決められているなら 強制労働になると思います。 奴隷は もともと 意志自由がゆるされていない状態にある場合です。報酬も 主人の一存で決まります。食べさせることはするが 報酬などはないと思います。 (間違っていましたら 指摘してくださるようお願いしておきます)。 安保法制の違憲かどうかは やはり あたらしい質問でやれればよいと考えます。 ★ 結局あいまいにすることで社会としての流動性、融通無碍な状況を作り出している。これは日本の良い点だと思われますか? ☆ あえて衝突を辞さないとすれば: 《社会としての流動性 融通無碍な状況》というのは 総じて言ってどこの国でもそれを《作り出している》のではないかと見るわけです。 そしてそこに二つの要素がある。 初めに思っていたのとは違って いまの考えを述べますが こうです。: どこの国でもけっきょく つねに論理的に妥当な内容を一般に模索しつつ 議論し 結論に到るということ。論理ないし理論の未熟か成熟かの問題はあるとしても 中身は 論理を志向していることに変わりはないということ。 とすると 違いは 議論の進め方や結論の導き方 ここにあるのではないか? 幾何学の精神の旺盛で繊細の精神よりも優勢な社会にあっては どこまでも――脱論理的な裏取引の場合を別として――論理 論理 論理で突き詰めて行くものと考えられます。少しでも妥当性のある内容を 相手ともども双方が 出来るだけ公正に問い求める。 日本の場合は その議論の過程のどこかで 天の声が介入してくるのかも知れない。 議論の前にすでに根回しがすすめられている。議論の煮詰まった頃を見計らって――もしくは 煮詰まった情況に到っていなくても―― 根回しされて来た初めからの《悲願》を 結論として取り決める。 ぢゃあ 天の声とは 何か? じつは そうは言いながら よく分かりません。 論理的に練りに練った内容であるかも知れないし(意外とそうなのかも知れないし) あるいは 権限の上位の者の単なる好みにもとづく内容であるかも知れません。 でも 人びとは もしそのような天の声にそれでも従っている場合があるとするならば いづれにせよ 将来のことは 《理論的に完璧な内容を結論とすること》がつねによき選択であり政策であるとは限らないと 心のどこかで思っているかもしれないからだと思われます。 一人の個人についてみても 最善の策と次善の策とのどっちをえらぶか? と言えば 必ずしも最善のほうだと決まっているわけではない。というようにです。 高度に政治的な判断というものが まったく無い。とは言えないと思います。 そんなところでしょうか。ぢぢいの言い分としては。
- kohichiro
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ブラジュロンヌさんこんばんは。 回答が付かないようですので、なにか貴質問に関することを気ままに書き付けてみようと思います。 西欧の言語文化と日本の言語文化との違いを問うておられるようです。 以前お話をしたこととの関連もあるようです。 幾何学、それとの関連である数学、物理学、化学から量子物理学、それらの関連から今は経済学にも数式が取り込まれて金融業にまで入り込み、おおいに儲けたり、国際的経済恐慌の元凶になって社会を不幸にしています。これらは西欧的論理学のなせることと仰りたいのでしょう。 さて、ここで繊細の精神たる論理が問題となる、というわけですね。 私がそういった論法に違和感を持つのは、西欧で上記の数式が幅を利かす世界は日本でもかなり得意な分野であって、ほぼ人類的に共通した分野であると思われます。数式が援用できない人間の心に属する問題について、以前も議論したとおりですが、自然科学などと異なり、論理をドライブさせるツールとして言語が使われるということでも西欧と日本とは共通です。日本はその点で繊細であるかどうかは良く分かりません。繊細というのは、ある意味不確定性的な部分がある、それともゆらぎ、あいまい性が残る、というようなことでしょうか、どうもそれとも違うのではないでしょうか。私が以前触れたことでは、日本はいわゆる絶対神の存在がない、八百万の神というのは、それとは違います。繊細といえばそうかもしれませんが、絶対という観念が800万の多様な分身(神)に薄められて、何がなにやら分からなくなっている、そんな印象ですね。 絶対神は、絶対です。しっかりとしたイメージが出来上がっている。無限大か 0か どちらかなのでしょうけれど。考え方のきほんとっしてそれがあるかぼやけているか、悪く言えばごまかしではないか、考え抜かれたあとがない、単に祖先神ということで自分たちが尊敬するべきものである、そういったものに帰依するというのは、やはり教条主義と余り違わないのではないか。 そんなブラさんがおっしゃる2階建て主義がぴったりなのではないか、と思います。 5)論理かもしれませんが、やはり厳密さとは遠い、世界標準になりえない、そうは思いませんか。 あいまいなところをご指摘ください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづ 設問のときに持った意図が いまあいまいであったと気づきました。そのことに 先に触れます。 つまり 当初の趣旨は 単純です。:《いかに以心伝心という言葉で捉えられるような情感の共同性が優位にはたらく社会にあっても その言外の伝達内容も じつは 論理的に出来ている。そのことに 欧米との違いはない》。これでした。 いま気づいたことは 次です。:《論理的な内容を伝達するときに 必ずしも言葉に出さないで それこそすでに根回しが済んでいる試案に織り込みその試案をめぐって ああでもないこうでもないと延々と議論はつづけていながら どこからか権威や権限を持ったところからの声がかかったかのようにして 頃合いを見計らい落としどころを形成しつつそこへみちびく》 このようなナラハシについて どう考えるか? といった問いを出しているかに思いました。 文章としてみれば この第二の意図も じっさいに書いてあると言わねばならないと気づきました。 さて こういちろうさんは じゅうぶんに人間としてのよき論理(また理論)をとうとび どちらかと言えば 欧米寄りです。 ですから 人間としての社会的コミュニケ―ションの基礎は――ここでわたしはいい子ぶって――どちらも同じだという立ち場に立つことにします。 ということは 欧米寄りの匂いがするところでは 日本寄りの発言をすることにします。 例から入りましょう。 たとえば 《一国の安全保障について 政治家や首相とそして学者とのあいだでは 権限にからむ立ち場とその責任が違う》という発言は 《幾何学の精神》寄りか? それとも 《繊細の精神》寄りでしょうか? 事実問題がそうとう含まれるとしても おおむね《論理的》な内容を言っているのではないか? しかも・ただし その論理内容を では どのように伝達するか? そしてどう説得し相手に飲ませるか? このコミュニケーションの具体的な過程や手段としては 欧米と日本とでは 違っている。・・・かも知れない。 そうですね。このように書いて来て・考えて来て けっきょくどちらにもふたつの精神は生きていてよく発揮されているのではないか? 日本でも 幾何学の精神は 有効にはたらいている。ではないかと いまあらためて思いました。 ちょっと 設問の意図を見失ってしまったようです。 もしよろしかったら ここまでは どうですか? そして ここからは どういう方向に議論を展開させるのがよいですか? そのほか 何でもありましたら 申しつけください。考えてみます。 変なかっこうになりましたが いまはこんな感じで考えています。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 思ったところを述べてまいります。 ★ かぼちゃ衆の諾の合唱 [・・・] あべ鵜匠につながれたあわれな党員のかずあわせ ☆ と見ることに何の違和感をも感じません。感じませんが 問題は ではなぜそういった蛮行を推し進めたか? だと思います。これは ほかのみなさんの見解をも交えて もうひとつの質問でやり取りすることができればと思っています。 ひと言で言えば 中国の動きに対して ミラーニューロン現象のごとく(ただし無論 控え目にして) おつき合いをする動きを見せてやった。という理解です。違憲は 百も承知の上でです。 この《おつき合い》理論――それによって 広い意味の戦争ゲームをすでに始めているが ドンパチまでには お 互 い に 到らない段階に踏みとどまることをよしとしているという暗黙の了解――を次のご議論に付け加えて欲しいとは思います。《澄み切った天の声》ではないでしょうが 相手のある問題としてのぬかるみを進まなければならないときのひとつの手法としてです。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし澄み切った天の声が自民党員だけに聞こえたのなら、それをぶがいしゃであるわれわれにも間接的に聞かせて欲しいのですが、それもない。となれば>あるいは 権限の上位の者の単なる好みにもとづく内容であるかも知れません。 これしかないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり――この見方を否定しませんが―― こういちろうさんを含め違憲論をうったえる側の人たちは どうして――対案を出す出さないというよりは―― 中国に対して何かひと言でもをどうして言わないのか? とは考えます。 ★ 日本人の言葉のくくりというのはどうもええ加減をこえてルーズすぎる、ことばではAといって、中身ではA’、いやZ(ゼット)といって、それでなんとなく通用することがあるわけで、 ☆ 今回の安保法制で 戦後すぐからの超保守の勢力による軍事力の強化を目指す動きがあるのかどうか知りませんが・つまりあった場合それは さすが・いまは 措いておいて考えていますが この場合 A' や Z の中身ははっきりしていますよ。中国の覇権主義の動きにどう対処するか? これが その中身です。そういう《論理》であるはずです。 ですから ★ 裏工作もあるのかもしれないが、何のための議会なのか? どうして本音をしゃべらないのか? これはやはりまずいと思うのですね。あべ採決をみてつくづくそう思いました。 ☆ という捉え方は むしろわたしは野党に向けて言いたい気分です。 中国の動きに対して これこれこういうふうに対処すればよいではないか? といった議論をどしどしどこまでも現実に合った内容を求めるべくやって欲しい。ホンネもタテマエも そこにあるのではないか? 議論として通じませんが 違憲であることは百も承知のことだと思います。 なぜ 中国問題について現実の論理をあてて議論をしないのか? です。