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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム)

ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

このQ&Aのポイント
  • ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム、イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:歴史知性;《世界‐内‐存在》、ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》
  • スサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も同じくである。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くてもカカハリの絶無な人はいない。
  • スサノヲ市民が暮らす世界にあって人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これはアマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#211048
noname#211048
回答No.2

> >13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史 知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的 である。社会に 神棚も雲の上もない。 →非現実的ではなく、超現実的 なのでは。下記全文そう解釈した理由 →「社会に神棚も雲の上もない。」の意味は雲の上も黄泉の国でもなく、地上は地上で完結する・・の意でしょうか(質問)。 >> ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム 前(プロト)歴史知性 >>イリ (入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った: 歴史知性;《世界‐内‐存在》 →ヨリもイリも世界の捉え方の側面のひとつ。互いに片方だけでは不十分。 それを束ねるのが「ヨセ」。の解釈は合っていますでしょうか。 >> 9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人 間語なる《ヨリ心性お》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根 負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。 →天照人格語≠科学語 でしょうか。not equal だとおもいますが確認です。 →ヨセがヨリとイリで成るのなら、「ヨリ」と「イリ」が二対ではなく一致する可能性は。それは超現実的なのでは。ヨリの世界からもイリの世界からもはみ出しておらず、現実に沿っている。 >>14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと ――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオ サ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラ オサの当番になる。 15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる 公務員としてはたらくのみ。 →ヨセの世界解釈(認識)の諦めでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 すてぃ2580さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ (13)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →非現実的ではなく、超現実的 なのでは。下記全文そう解釈した理由  →「社会に神棚も雲の上もない。」の意味は雲の上も黄泉の国でもなく、地上は地上で完結する・・の意でしょうか(質問)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。  たとえば現代ではもうめづらしくなったように思うんですが むかしは 仏壇とは別に 家の中に神棚がたいていありました。家内安全ですとかのお札を 近くの神社でもらって来て祀ってありました。  その神棚が 社会という形態・つまり国という家にもあるかのごとくだという比喩ですね。  さらにその神棚は 何が祀ってあるかが分からないほどであり 目に見えない。それを譬えて 雲の上というのだと思います。  つまり 黄泉の国の関連する事柄が神だなにあるのかどうか よく分かりませんが 《スーパー歴史知性》を祀ると言えば その神棚や雲の上といった言葉のタトエを用いているのだと思います。  《非現実的》か。《超現実的》か。  まぁ あくまで比喩だということを確認する意味で そのように《現実的ではない》と言いたかったのです。  ★ (1) ~~~~~~~~~~~~~~   →ヨリもイリも世界の捉え方の側面のひとつ。互いに片方だけでは不十分。  それを束ねるのが「ヨセ」。の解釈は合っていますでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは けっこう微妙なところだと思います。  世界と自己とのあいだが未分化で何ごとにも依り憑くような原始心性と言えば とうぜんの如く現代人は 毛嫌いすると思います。  シャーマニズムは そのような《ものごとへの依り憑き》を意図的におこない 意識を超えてしまうようなトランス状態を人為的に作り出す儀式のようなものだと思いますが さすがこれは いただけません。世界との未分化と言っていながら その未分化な状態としての《もののけ》への依り憑きを 人間が起こそうとしていると思われるからです。その《憑き物》の状態から得られる《神のお告げ》とかは けっきょくそのシャーマンが自分の好きなような内容を言えるわけですので ほとんど意味が無いと考えられます。  ただし アニミズムは あんがい現代人のあいだでも保たれているように思えます。  地鎮祭には 必ず神主がお祓いか何かをやります。  針供養などという行事があります。  あるいは ロボットや機械に 花子だとかの名前をつけることがあります。  すなわちまさしくおっしゃるように:  ★ →ヨリもイリも世界の捉え方の側面のひとつ。互いに片方だけでは不十分。  ☆ と言いますか 基本は――人間の知性として――イリなる歴史知性だと見ていますが そこに 実際問題としては 縄文人からのヨリなる原始心性も 生きている。有効である。のではないかとは わたしも見ています。  ★ それを束ねるのが「ヨセ」。の解釈は合っていますでしょうか。  ☆ これは わたしの場合 いま上に言いましたように 人間知性としては 《世界‐内‐存在》としてのイリ歴史知性が基本であると捉えています。  したがって ヨセにつきましては その〔ヨリ心性をふくんだ〕イリ知性から たとえば理性崇拝によって 飛躍した場合に超歴史知性として現われて来る。のではないかと見ています。  ただし かなしいかな このヨセなる知性は スーパー歴史知性であって じっさいには・現象としては イリ知性やヨリ心性をあたかも包み込んで しばしば引っ張って行くことがあります。  と言いますか イリ知性やヨリ心性が ヨセ超歴史知性に対して 神だなを用意して社会の経営を一たん任せた。そういう歴史的事件が起きたし その《くにゆづり》は いまもつづいていると見ます。  ★ (9) →天照人格語≠科学語 でしょうか。not equal だとおもいますが確認です。  ☆ あっ。これは こちらが舌足らずだったかも知れません。  つまり イコールです。  すなわち 順序としては 初めにスサノヲ人間語があって そこから普遍性を問い求めてその認識が得られたときに それを科学語であるアマテラス普遍語として確立します。  このアマテラス科学語によって 人間関係についても たとえば意志の自由を認めて公理のごとく捉え 人は他人のこの自由意志を踏みにじってはならないという倫理としての科学語を得ます。  したがって 倫理とは 一般に人格の確立に関わっていますから 倫理的科学語は 人格語と言いかえたりする。こういう成り立ちだと思います。  科学語の中で いわゆる自然科学語は 人格や倫理には関係なく・あるいは価値観からは自由なかたちで ものごとについて誰が認識しても同じ内容になるといったその学問がありますから 科学語と人格語とをふたつ出しているかっこうです。  したがって 自然科学語は 人格をめぐって《愛》とは何かといった主題については言わば禁欲して問い求めませんから おっしゃるように    自然科学語 ≠ 人格語  であるとも見なければならないとは思います。ややこしい言い方をしましたが そういうことではないかと思っています。  ★ (9) →ヨセがヨリとイリで成るのなら、「ヨリ」と「イリ」が二対ではなく一致する可能性は。それは超現実的なのでは。ヨリの世界からもイリの世界からもはみ出しておらず、現実に沿っている。  ☆ 《ヨリとイリとのつながり》については 述べたと思います。  ヨセは 《ヨリとイリで成る》のではなく まづ一たん正当な歴史知性としてのイリに立ったわけです。そのあと そのイリ知性からさらに 理性なら理性によって アマアガリをしてしまった。――という意味は アマテラス普遍語が スサノヲ人間語(つまり基礎として ヨリ+イリ)を離れてその上に立とうとした。  たとえばよく言われることに 蓮は 泥池の中に根を張って実が成り花を咲かせる。すなわち アマテラス普遍語は スサノヲ人間語の中から現われると見るわけです。その基礎を離れて アマテラス語が成り立つものではない。  科学語も人格語もそれら普遍語は 決して独り歩きするものではない。スサノヲ人間語を離れてアマテラス普遍語は 単独分立するものではない。    しかも 《ヨセなる精神》は そのような単独分立を欲した。果ては イリおよびヨリなる心性・知性を 社会の神だなから自分たちがおさめることを望んだ。  そして 現象としては この《ヨセなる皇帝》が歴史的にも出現しました。  ヨセは:  ★ ヨリの世界からもイリの世界からもはみ出しておらず、現実に沿っている。  ☆ か? ヨリ+イリの一階の上に位置しているわけです。《現実》の上に乗っかっている。のだと思います。  つまり 《国家》は 一階のスサノヲ市民らがいるかぎりで・そして二階のアマテラス公民が 神棚に祀られていようと 一階の人びととのきづなが保たれているかぎりで 現実です。蓮の花と池との関係です。しかも その《スサノヲ‐アマテラス》の関係が きづなが切れたかたちになるなら もはや〔国家は〕まぼろしです。    ★ (14)(15) →ヨセの世界解釈(認識)の諦めでしょうか。  ☆ 《 S - A 》連関としての《市民‐公民》のあいだの《きづな》 これが 切れてしまえば――独裁政治であっても しばらくは続きますが―― イリ+ヨリの市民らは ヨセを信用しなくなります。  そのように絆が切れて 《不信》関係が優勢になるならば 社会の共同自治としては イリ(+ヨリ)知性の中から 当番制でそのムラオサを立てるのが いちばん現実的である。と考えたわけです。もうヨセは要らないと。  遠くへの展望になってはいます。説明を端折っているかも知れません。  と同時に この展望を持つということは いま・ここにいる我々にとっての現実であると考えています。    ですから 《あきらめ》ではなく《のぞみ》ですね。  こんな感じでしょうか どうでしょうか。

その他の回答 (1)

  • JSJC
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回答No.1

質問者以外には誰もその造語は理解できないし、したところでメリットがない。 誰にもわかる口語体で要点をまとめて投稿し治して下さい。 わかりにくくする事が哲学ではありません。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 〔理解〕したところでメリットがない。  ☆ これは 自家撞着です。  分かったような気になることが哲学ではありませんよ。

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