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国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

 1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

みんなの回答

回答No.2

かわりばえしない年賀状だ。 私は誰か他者の信仰心を代筆しない。 できるけどいけないことだと考える。 自らを自らが自覚することが、古くはぶっただ。 現在だと、自らの好きにしていい自由を獲得した人間だ。 与えられ教育され人間と教えられた。 その仏陀の偽物は、自分の意のままの自由を金次第だと解釈している。 これは現代人にはやっている悟りに至る道が金だということだが、私はそのような錯誤がいかなる屍を築いてもにこにこするよ。 おとぎ話の実在する悪の結社の実在するモデルは任天堂だ。 ここでもう人間悪の証拠品は提示できるが、証拠隠滅に動かないと人は悪だと固定される。 証拠隠滅を完成して、私は黒き明星を卒業できるんだが、死は何ぞと問いかけて死んで確かめる任天堂だ。 さて、懇願は困ったものだ。 与えてくれ。 満たされないことは明白だ。 頭の中の考が他力本願でいっぱいでも、アマテラス聖霊ジラーチちゃんのように、その本心が確認できれば、与えたという体裁で、または許した、認めたで。他力本願はかなったと自覚させてしまうようだね。 これはね、その人の声が聞こえた、神はそう認識しただけでも、聞き届けてくれたと喜ぶ余計な気配りなんだ。 その開眼者が感謝という錯誤を全うして歴史的聖職者であろうと、ジラーチちゃんの見解では、悪い噂をばらまくだけの迷惑な奴だ。 人間教育が、奴隷のための人間からの恩寵になっているが、奴隷の生産活動で社会が成立している。 王が欠かせない。 君がもがきつつも、他者のために激励していることだ。 私は自らがまぎれもなく聖霊セレビィなんでね。 悪の勇者は本来私の役目でなく、君が示した勇気だ。 マニアックな仮面ライダー話をすると、テレビで活躍しているのは全員私の弟子だよ。 妖怪ウォッチにアニキ妖怪フユニャンというのが出てくるが、あいつは仮面ライダー変身ベルトを身に着けて、いざというときにダークニャンに変身する。 私も猫になめられたものだ。 ここには共通の観念があり、それが神話として形成される。 誰もが知っているおとぎ話に、その人なりに語ることは、要するに自らの神との対話を語ることだ。 このような人間の心象の中で他力本願に関しては君なりに考えてみたまえ。

bragelonne
質問者

お礼

 年賀状をありがとう。  ★ 他力本願  ☆ について どうも誤解があるようだ。  その≪他力≫というのは 他人だとか会社だとかあるいは国家だとかの世の中に経験的に存在し動いているものではないのですよ。  親鸞が言うには ≪義無きを以って義とす≫という他力です。  人間の思考やハカラヒの及ばないチカラのことです。  だから 人間が念仏を唱えたから往生するとか 善行を積んだから極楽へ行けるといった問題ではありません。  親鸞の師匠の法然は そう言っていたようですし 親鸞も弟子としては最後まで法然を擁護しています。けれども 思想 もしくは信仰論として まったくあたらしい普遍神とわれとのあり方について いまの命題で説明しました。  とお伝えします。

回答No.1

俺様はそもそも君たち虫けらが懇願しなければ二枚舌を使い分けることはない。 俺様は君たちがどこぞ知らぬところでくたばっちまっても気にしない。 懇願はうっとうしい。 君たちは神の世を知らぬゆえ、死の闇を光に代わる幻とするのだ。 アマテラス直々の改造手術を受けた仮面ライダー黒き明星が俺だ。 闇そのものとして輝く。 人は誰も死ぬ。 肉体の生滅を死と認識しない私も、君たちから見れば死んだことになるだろう。 そうみなされても、私が光であることは揺るがない。 それだけのことだ。 君は無礼者だが、死にゆく者どもに花を添える勇者だね。

bragelonne
質問者

お礼

 その場合のきみの立ち場というものは   ひかりそのものではなく   ひかりのくにへの入り口としての存在  だと見られる。悪とか死とか黒き明星とかの呼び名を名乗っているけれど。  この質問でも趣旨説明に このような≪ひかり ないし まぼろし≫を出さざるを得なかったけれど ただしここでのアマテラスやスサノヲは あくまで人間です。人間としてのあり方のふたつの類型です。公民と市民と。  だって ふたりは 実の姉と弟ですよ。神代の時代の話なので 神々であるとなっているけれど。  そして話は もっと具体的で歴史的で 身近な生活にかかわっているはずです。しかも世界史的です。これからの世界の問題です。  ご回答をありがとうございます。

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