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観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく
- 観念の運河をゴンドラが通る日常の風景を描いた文章。
- ゴンドラを通じて伝わるクウキ(空気)が観念の船を形作ることについて述べている。
- アマテラス公民の無謬性を神話として扱い、官僚や政治家の間違いを口に出せない雰囲気を表現している。
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ご返事ありがとうございます。 そういう、ごく一部の変わった人達もいるでしょう。 >☆ われわれは もし意識の排泄をともなうクウキに一応でも従っているなら それは 従うことが出来ないという能力が弱いからです。という常識破りの見方を提出しています。どうでしょう? 観念の運河には従うことが出来ないという能力から 民主制やふつうに自然な共生が実現するという見通しです< これも、一部の新興宗教の人たちは、行っているのでは。日本には、約2000団体位あるそうですから? だいたい、貴方の考えは読めました。もう、答えませんから。おやすみなさい。寒くなったのでお体に気を付けて。
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- Tefu_Tefu
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こんばんは。 >これは 未来社会をみちびくその社会の陰画の情況ではないか? しかも KY の場合は特に 草の根民主制へとみちびく第一歩を印しているのではあるまいか? という見方を提出しています。< は?なんですかこれ。ガミガミや社会的手抜きの人は、物の価値を作らない社会的アホの人達です。だから、只の、お人よしが可哀想に思って相手している、日本人の御情けです。殆どの日本人は、その人達は、無視しています。お年寄り大事にするから。其れにガミガミって誰?(現場監督?) > KY やニートや引きこもりは そのような能力を発揮しているだけのことであり しかも ゆくゆくはそのようなふつうの社会としての自然な共生のあり方をみちびく推進力になっている。という見方です。< 国民は、訳のわからん官僚や政治家の作った法律に合わせて自分達の分がいいように動くだけでは? 新しい社会を創るのは、如何なる制度においても、エジソンのような人達か企業家です。ニートや引きこもりにもそのような人が居る可能性があるだけです。 これ、哲学でないでしょう。プンプン
お礼
てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 次のあたりが ミソなのですが? ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 物分かりが良すぎないというのは――その意味で KY になるのは―― 人間の持って生まれた自然本性としての能力ではあるまいか? 世の中のクウキに従わない・従えないというのは――その中身にもよりましょうが―― 人の優れた持前の能力であるのではないか? 官僚たちのお二階さんは間違いを侵さないという無謬性の神話 これには従えない・つまり ちゃんちゃらおかしい というのは 人間のふつうの自然ではないのか? 観念の運河をそのすでに用意されたゴンドラに乗って社会生活を送ることが出来ない この《出来ない》ということが 人間の能力である。運河に浮かぶくだらないしがらみは きれいにしようとして 当然である。 ~~~~~~~~~ ☆ われわれは もし意識の排泄をともなうクウキに一応でも従っているなら それは 従うことが出来ないという能力が弱いからです。という常識破りの見方を提出しています。どうでしょう? 観念の運河には従うことが出来ないという能力から 民主制やふつうに自然な共生が実現するという見通しです。
- Tefu_Tefu
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ご返事ありがとうございます。 まず、第一に頭に置いておかなければならないことは、自然は常に変化する。人は自然の中で生かされているということです。よって、人にとっては常に変化する(刺激かもしれません)が最も望ましい状態であるということです。 当然、人は「空気を読む」べきです。KYという言葉は、若者が使い、会話でKYと言う時は、その人への警告であるとともに変化でもあると思います。 >○ KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか ☆ これも 残念ながらと言いますか いまはまだ ネガの状態であるかも知れません。つまりその限りで ニートや引きこもりと同じ情況です。 いづれこれが ポジになるなら 世界は 晴れ晴れとした世の中になりましょう。そのときのクウキは もうふつうの空気にもどります。何もことさら人びとをあやつるために作る必要などなくなっていましょう。< > つまりは 物の本質やその値打ちが 人びとの生活日常の基礎の場で互いに分かり合われてゆくなら 人びとは わざわざクウキを読む必要はなくなります。クウキを製造する人びとも そのように投網を一般人の上に投げかける必要がなくなっているものと思われます。 観念の運河も なくなって行くでしょう。自由という道が築かれて行きます。< 人にとって、人と人とのふれあいによる(心の繋がり)と空間、時間による癒しが必要であるけれども、一方で、自然の常なる変化(刺激も必要なのです)だから難しいのです。 > ★ 癒しこそ人が求めるものであるが、愛によりそれは、打ち砕かれ、また、愛によりそれは、生まれる。 ☆ 《愛によりそれは、打ち砕かれ》ることもあるのですか?< 同じことです。刺激(変化)と癒しこれ自体が、すでに自然な状態です。知識、一期一会もどちらの意味も含んでいる。これは、量子力学論の状態ともいえます。そして、宇宙は、ビッグバンによる相対性理論。
お礼
そうですね。山あり谷あり 変化があって自然であり人生だというところでしょうか? てふてふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 分かりました。愛は そのいづれの時にも場合にも いづれの情況にも 対処していくのだと。 KY については 一歩先へ深読みしたいと考えます。 ★ 当然、人は「空気を読む」べきです。KYという言葉は、若者が使い、会話でKYと言う時は、その人への警告であるとともに変化でもあると思います。 ☆ そうなのですが・現状はそうなのですが この現在の状態が 果たしてそのままで終わるのか? あるいは 単なる失策として警告されて終わるものなのか? そうではなく クウキが読めないというのは まづ当然のごとくこの観念の運河を行き来するクウキについて・そしてその場におけるクウキについて KY と呼ばれた人も 中身を知った上で 読まないでいるのです。 なかには無頓着な場合もあるにはありましょうが 問題は クウキの中身を知って これは嫌だと思いその思いと考えに従って それを読まない・つまりはその空気の命ずるところに従わないという場合です。 これは 未来社会をみちびくその社会の陰画の情況ではないか? しかも KY の場合は特に 草の根民主制へとみちびく第一歩を印しているのではあるまいか? という見方を提出しています。 要するに ただ意識を排泄するだけのガミガミ電波が その場の人びとをして その命ずるところに従わしめるというなら それは 要らないことですよと その KY と呼ばれた人たちは 暗にでも言っている。こういうことではないのか? 言いかえると KY についてその人に警告を発する人びとは あまりにも物分かりが良すぎる。ということではないか? 物分かりが良すぎないというのは――その意味で KY になるのは―― 人間の持って生まれた自然本性としての能力ではあるまいか? 世の中のクウキに従わない・従えないというのは――その中身にもよりましょうが―― 人の優れた持前の能力であるのではないか? 官僚たちのお二階さんは間違いを侵さないという無謬性の神話 これには従えない・つまり ちゃんちゃらおかしい というのは 人間のふつうの自然ではないのか? 観念の運河をそのすでに用意されたゴンドラに乗って社会生活を送ることが出来ない この《出来ない》ということが 人間の能力である。運河に浮かぶくだらないしがらみは きれいにしようとして 当然である。 KY やニートや引きこもりは そのような能力を発揮しているだけのことであり しかも ゆくゆくはそのようなふつうの社会としての自然な共生のあり方をみちびく推進力になっている。 という見方です。
- Tefu_Tefu
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こんばんは。 物の本質、少し分かりました。一番分かりやすいのは、ビンテージのジィーンズなんかですね。物に、人の歴史があり、優しさがあり、それを、使ったあるいは作った人の心が感じられるとき、すなわち自分の心に共鳴する愛があるとき、それは、何倍もの価値を生み出すということです。広義の意味においては、生命は、海から生まれ、山、空、宇宙、においても同じことです。たとえ、只の石、水、空気、木々すなわち空間、時間においても、自分の心と、同調する、愛、分かりやすくすれば=人の黄金律、黄金比を見出すように付加価値が説明され、されなくても、五感で感じられれば、それを、見出した人にとっては、最高の価値あるものだと言うことです。これでは、いかかでしょうか。癒しこそ人が求めるものであるが、愛によりそれは、打ち砕かれ、また、愛によりそれは、生まれる。
お礼
叱られるのを覚悟で 別の主題を取り上げましょう。――おっと てふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 【Q: KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 ~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉するビョーキ)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としての空気も 上昇気流となること請け合いであるようだ。 たぶん その場合にも KY としての空気も読むことだけは読んだほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 ご見解とご批判をたまわりたく。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか ☆ これも 残念ながらと言いますか いまはまだ ネガの状態であるかも知れません。つまりその限りで ニートや引きこもりと同じ情況です。 いづれこれが ポジになるなら 世界は 晴れ晴れとした世の中になりましょう。そのときのクウキは もうふつうの空気にもどります。何もことさら人びとをあやつるために作る必要などなくなっていましょう。 つまりは 物の本質やその値打ちが 人びとの生活日常の基礎の場で互いに分かり合われてゆくなら 人びとは わざわざクウキを読む必要はなくなります。クウキを製造する人びとも そのように投網を一般人の上に投げかける必要がなくなっているものと思われます。 観念の運河も なくなって行くでしょう。自由という道が築かれて行きます。 ★ 癒しこそ人が求めるものであるが、愛によりそれは、打ち砕かれ、また、愛によりそれは、生まれる。 ☆ 《愛によりそれは、打ち砕かれ》ることもあるのですか?
- Tefu_Tefu
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こんばんは。 先程は、失礼しました。 私は、bragelonneさん程の、哲学の知識があるなら幾らでも収入の道はあるのではないかと思います。ソフィストとして教えることもできるし。千利休等は、癒しの空間(人と人の一期一会)=茶道や茶道具を物として大名への手柄として与えた程の大商人ですよ。ロックフェラーも石油からですし、ロスチャイルドは金融業です、いずれも労働とは無縁なものです。現在は砂利、葉っぱ、砂、水、空気、癒しの空間、サービス等もお金になる時代ですよ。 資本家とは、労働に関係なく、お金を得て、さらにお金がお金を生んでいる人達のことです。ロックフェラー等は、独占禁止法を造らせたほどです。グローバル化経済になり巨大資本に日本の企業が飲み込まれることが問題なんです。政治家や官僚の仕事です(日本企業に有利にすること)。bragelonneさんならお金儲け思いつきそうですが?(笑)私はこれで、失礼します。感謝
お礼
てふてふさん やはり来てくださいましたか。ご回答をありがとうございます。 【Q:わびさび】のほうでお応えを書いていました。ちょうどそのやり取りが 今回のご見解についてのお応えになるかと思いました。少し筋は違うかも知れませんが――資本主義について考えたものではないので 筋が違うかも分かりませんが―― 案外つうじているようにも思います。 ふつうの生活 日常におけるふつうの勤勉 これはどういうことか? そういう問いに代えることも出来るのではないかと考えるからです。 それは 一度何もかも剥がれ削ぎ落とされて《ただのわたし――最もわたくしなるもの――》にまで押し戻されるといった経験を経たときには しっかりした生活日常の歩みを確立するであろう こう言えるのではないかと思いました。 千利休はまだ調べていませんが その作といわれる茶室 《待庵》について少しまなびました。そのワビサビぶりです。侘び寂びの造りの中に ちょっと贅沢なところが隠されているのではないかと感じました。 猿楽=能楽の観阿弥・世阿弥のばあいにも 権力者との邂逅から その芸能を完成させて行ったとも考えられます。利休は どうなのでしょう? ほどほどのところで つねに問い求める姿勢を永遠につづけるということ これは 人間にとってむつかしいでしょうか? ★ グローバル化経済になり巨大資本に日本の企業が飲み込まれることが問題なんです。 ☆ ですね。 ★ 政治家や官僚の仕事です(日本企業に有利にすること)。 ☆ そして いま上に触れて来たこと すなわち《生活日常としての勤勉思想》という問題に置き換えるなら それは われわれふつうの人間にとっての問題です。一般市民が グローバル化や巨大資本の推し進めるツナミに対して 日常生活をどういとなむかによって抵抗するというような道です。ふつうの生活から出たモノ(商品)のほうが いづれはより多く求められていくという道です。そのやり方についても 同じ道でありましょう。 どうでしょうか? と広くみなさんに問いかけつづけます。
- Tefu_Tefu
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ご返事ありがとうございます。 またまた、bragelonneさんの偏見に満ち満ちた意見に突っ込めと?もっと、哲学的なことがいいな。 映画「武士の一文」等見ていると、江戸時代は、すでに下級武士の働く場所はあまりなかったかと思います。さらに、とりつぶされた藩等から、浪人等が溢れたのでは。幕末になると、新撰組等が幕府を維持しようとしたのではないでしょうか。まあ、今でいえば、現業職の、高学歴でない人たちのことです。 ガリ勉資本家?誰のことですか?殆どいないでしょう。ガリ勉でもニートもいますし、全ていますよ。資本家と関係ないし。 また、資本家と企業家(経営者)も関係ありません。企業家は、勉強してたら、ためになる位でしょう。 一階、二階は関係ありません。もう、質問しても答えませんから。後は、貴方が考えている通りです。(ロックフェラーが有利)
お礼
ご回答をありがとうございます てふてふさん。こちらは きょうは雨でしたが どうでしたか? あまりふさわしくないフリでしたでしょうか? ☆☆(No.お礼欄) ~~~ 勤勉な資本志向の《資本》とは けっきょく人びとの《愛》のことです。だって信頼関係によって成り立っているのですから。 ガリ勉資本家は あまりにもこの愛が強すぎたのでしょうか? あまりにも愛を追い求め過ぎたのでしょうか? あるいは人間の愛というふつうの生活態度に すでに酔ってしまったのでしょうか? 二日酔いを覚まそうとして ガリ勉に走ったのでしょうか? 人に愛されたことのない人は この愛に堪えられなかった。か? われらは 何が何でも 資本家市民を愛さねばなるまい。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあたり 《偏見に満ち満ちた意見》だったでしょうか? ツッコミ甲斐のない意見だったでしょうか? 特定の誰かではなく そういう類型として捉えようとしたものでした。 当たり外れがあるかと思いますが いろいろと考えてまいりたいと思います。 ロックフェラーについて お詳しいですか?
- Tefu_Tefu
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こんばんは。 私は、ほんとあまり分からないのですが。 やはり、将棋とチェスを思いつきます。主君が如何に、武士(家臣)を大事にしたかということ。士農工商にも現われています。忠臣蔵でもそうです。 日本の社会においては、組織がなければより多くの生産(農耕)もなく生きていけなかったのではないでしょうか? ゆえに、(士)の次が(農)であり、組織を乱す(商)を下位にした。武士は、徳を名誉なこととして何より望み、其れにより子孫繁栄が約束された。閉鎖された空間での知恵ではないのですか? >しからば 徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直は虚偽よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば私は恐れる 武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを!< この文章はおかしいですね、武士は、現金を守る訳がないでしょう。 今の、人達も、組織を守るには、現金ではなく家族を守らなければならないでしょう。そして、武士道によれば、国家のために使われなければいけない。 でも、新渡戸稲造氏によればもはや世の中は、自分は自分で守らなければいけない、欧米の体制になっている。其処においては、黄金律により、他人に成すこと(商が上位)、報酬の現金は当然の美徳だ。それが、新たな、欧米流の組織だ。いずれにおいても、組織とは最も強固な体制です。(大、小)ありますが。 ひょっとして、日本の組織は古臭いままとか(官僚が上位おまけに現金)?でも、アメリカもどうなんでしょうか(ロックフェラーね~)?
お礼
てふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ひょんなところから 武士道が出て来ました。 それは 《正直は 最善の策なり》ということわざに異論をかかげるものです。 武士道によれば 求める効果を生むから策として最善だという考えによるのではなく そうではなく まことを尽くすのは 生きることじたいだということだと思われます。 まことを尽くすというときに どうしても正直であることを控えなければならないこともあろうし もし必要ならば主君の命に逆らっても――ということは 身を賭して――おのれのよいと思うところを述べるということもあると言おうとしているのだと思われます。 具体例で確認しておきます。 ◆(シュリーマン:日本旅行記) ~~~~ 【Q:武士道!?】回答No.7 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548820.html 以下の文章は、考古学者のシュリーマンが幕末の日本を、1865年6月1日から7月4日までの約1ヶ月間、日本に滞在した際の旅行記でございます。 シュリーマン著(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」からでございます。 p.116 「どしゃ降りのなか、私に付き添うはめになった五人の役人とともに、私は朝八時四十五分に出発した。この護衛の役人はわずかばかりの心付けを受け取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみのなかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の巡り合わせにただ従っている。」 p.146 「だからなおのこと、その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである」 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 日本人の役人たちは むろん幕府なりから給金をもらっています。それ以外には受け取らないという意味のようです。言わば余分に報酬を得るために 精勤ぶりを発揮するのではないと。(昔むかし 低い俸給で夜を徹して仕事をする官僚のすばらしさが 褒め称えられることがありました)。 ★ 主君が如何に、武士(家臣)を大事にしたかということ。 ★ 武士は、徳を名誉なこととして何より望み、其れにより子孫繁栄が約束された。 ★ 今の、人達も、組織を守るには、現金ではなく家族を守らなければならないでしょう。 そして ★ でも、新渡戸稲造氏によればもはや世の中は、自分は自分で守らなければいけない、欧米の体制になっている。其処においては、黄金律により、他人に成すこと(商が上位)、報酬の現金は当然の美徳だ。それが、新たな、欧米流の組織だ。 ☆ という現代の思潮の中で わたしたちは どう考えどう行動するのがよいでしょう? 人と人とは 交通(まじわり)を通じて その人柄を知り合い 《信頼》関係を築きます。 この信頼関係が さらに第三者に対しても 《信用》となって現われます。 助け合いをつうじて 互いに恩に着るような事件なども起こることがあって 互いに負い目を負いつつも 広く信用をつうじて信頼関係を広げます。 経済活動としては 貸し借りの関係にもなります。 やがて この経済的な貸し借りの関係が 《信用》と呼ばれるようになっていきます。《信用金庫》と言っても その金庫には 互いに優れて信頼し合った人たちの歴史が記録され保存されているというわけではありません。すでにお金の問題になっています。絞られて来ています。 おそらく 余分な信用を――それは 一面では経済の基礎的な力を成長軌道に乗せるために未来への投資として必要であったかと思われますが―― 与え合うように人びとの思潮が飛び跳ねたところからだと思われます 《信用》概念の転換という事態が起きたのは。 あいつは信頼できる・つまり信用がある だから金を貸してやろうという思想から 信用があるので・つまりは信用がお金として貯まったので 金を貸そうとか借りようとかに転換する。そして 信用がお金として貯まっていなくても あると見定めたとして お金を貸したり借りたりするようになる。 足を土につけてあくまで信頼関係で歩いていた人間たちが あたかも翼をつけたかのように信用というイデアのとりこになってこれを追い求め あわよくば・うまく振る舞えば大金と名誉を手にすることが出来ると夢見て 大空へと飛んで行くようになった。 そのために われは人一倍勉強をし勤勉になって人一倍仕事をする。この勤勉を至上の命題としてわれは生きるというツバサを欲したのでしょうね。 怠け者には用はない。いや おれさまが使ってやる。食わしてやる。おれについて来いと。 資本主義経済にも 一階と二階とがありましょうか? 基礎としての勤勉な資本志向と その上の象徴(貨幣)をめぐっての信用の自己増殖運動に走るガリ勉資本主義と。 勤勉な資本志向の《資本》とは けっきょく人びとの《愛》のことです。だって信頼関係によって成り立っているのですから。 ガリ勉資本家は あまりにもこの愛が強すぎたのでしょうか? あまりにも愛を追い求め過ぎたのでしょうか? あるいは人間の愛というふつうの生活態度に すでに酔ってしまったのでしょうか? 二日酔いを覚まそうとして ガリ勉に走ったのでしょうか? 人に愛されたことのない人は この愛に堪えられなかった。か? われらは 何が何でも 資本家市民を愛さねばなるまい。 それによって かれらを基礎つまり第一階の市民社会に引きずり降ろして来ることになるのか? それはまだ分かりません。分かる人は おしえてください。(二階を超えて・遠心力が極まって 宇宙のかなたへと宇宙遊泳しに出かけて行きましょうか? そういえば いますでに宇宙ビジネスが盛んなようです)。 てふてふさん どうしましょう? ツッコミをお願いします。
- Tefu_Tefu
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こんばんは。暇なので アハ bragelonneさんのアウグスティヌスの三位一体論拝見しました。すごくいいです。 黄金律は、「情けは人の為ならず」ということですよね、お金持ち(お金儲け)の理論です。アハ ついでに、マインドコントロールは、クウキだけでは終わりません。アハ これを説明すると削除です。アハ
お礼
てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 この質問にかんする名案はなかなか出ないかも知れないですね。 ★ bragelonneさんのアウグスティヌスの三位一体論拝見しました。すごくいいです。 ☆ あぁ それはよかったです。わたしの知っている三位一体論の中で アウグスティヌスが ダントツだと考えます。 ★ 黄金律は、「情けは人の為ならず」ということですよね、お金持ち(お金儲け)の理論です。アハ ☆ これは 実際そのとおりです。おっしゃるように ギヴアンドテイクの理論のようです。それに対して 日本人のひとつの思想は 武士道かも知れません。次の次にかかげました。 ★ ついでに、マインドコントロールは、クウキだけでは終わりません。アハ / これを説明すると削除です。アハ ☆ なるほど。あまりにもクウキを乱すのは 重大な謀反にまで発展するかも分かりません。一歩一歩のようです。 ☆☆ 【Q:武士道!?】 ~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548820.html 内田樹が書いています。 ▲ (内田樹:日本辺境論) ~~~~~~~~~~~~ けれども武士においては 名誉は実利につねに優先します。それゆえ新渡戸は 正直は引き合う( Honesty pays in the long run. ) という欧米流の商業道徳に対して 次のようなパセティックな宣言をなすことになります。 しからば 徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直は虚偽 よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば 私は恐れる 武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを! 武士道は 《或るものに対して或るもの》という報酬の主義を排斥する・・・。 (新渡戸稲造:武士道 矢内原忠雄訳) ここには非常に重要なことが書かれています。・・・努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。 (内田 II 辺境人の《学び》は効率がいい pp.134-135) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この文章におぎないたいと思うところをおしえてください。添削・補足・批判などをお寄せください。 ~~~~~~~~~~~~~~
- Tefu_Tefu
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また質問ですか? 皆さんがお答えになっているとおりだと思います。 企業家は、自分の哲学を持って仕事を共同でした方が効率はいいし分配も多くなる。ZZZZZ・・・・・・
お礼
そうでした。 何らかの突破口が見つからないかと この質問では思っています。 ということでした。 てふてふさん ご回答をありがとうございました。 さらに考えてまいります。
- Tefu_Tefu
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ご返事ありがとうございます。 そうなんですよ。誰もが希望を持って楽しく仕事をすることが大事なんですよ。 でも、世の中の女性は、現金なんですね。資本家に媚を売る人達がお金をたくさん持っていることを、本能で分かるんですね。そして、(社会的手抜きの)お二階さんは、自分達を勝ち組だというんですね。定年したら何もできないくせに。勝者は、上、下関係なくエジソンなる者なり。(笑)
お礼
ご回答をありがとうございます。 了解しました。 それでは 毛色の違ったところで 次のような話を添えたいと思います。( noname#80116 は わたしです)。 ☆☆ 【Q:所有とは 何ぞや?】 ~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4248807.html 私的所有という概念および形態を揚棄しうるか? これが 質問です。 例によって 前口上を述べます。まづ わが日本人の昔の民俗を聞いてください。極論をたたき台にしたほうが 回答=議論が進むと思います。 ▼ (谷川健一:分配) ~~~~~~~~~~~ 狩猟や漁撈の獲物の配分を南九州から奄美・沖縄にかけてタマスと呼んでいる。ひとタマスといえば 一人分の分け前のことである。 ここで興味があるのは タマスは当事者だけに与えられるものではないということである。狩や漁の現場にたまたま居合わせた者もタマスにあずかることができる。それを《見ダマス》という。見る者に与えられるタマスのことである。 ・・・ 狩人や漁師が獲物を 惜しみなく 平等に分配するのは それが神から授かったものであり 独り占めする訳にはゆかない という考えが根底にある。そこで 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。 (谷川健一 →さらに詳細は 《QNo.3994017 :われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》のNo.29補足欄をどうぞ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 簡単には 個人的な所有ではなく さりとて 国有ではなく また 社会的所有でもなく 《個体的な所有》と呼んでみます。個人としての私有財産という概念 これを基礎として それに 同時に 《関係的な所有》という概念を 絡ませます。経済的な成果の半分は 関係的に・総合的に みなの業績によって もたらされるという考え方です。これは 非現実的な思想でしょうか? なお 聖書の中で 《ぶどう園の労働者》(マタイ20:1-16)というくだりがあります。よろしければ これも参照してください。→前掲《QNo.3994017 :われわれ日本人は・・・ = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》のNo.34補足欄をどうぞ。 投稿日時 - 2008-08-13 16:47:51 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
- Tefu_Tefu
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こんにちは。 何ですか?その物の価値の考え方。からかっているでしょう。自己中な趣味の労働がお金になるとか?小学生でももっとしっかりした考え方をしますよ。物の価値は、物を欲しい人がいなければ何の価値もありません。だから、人と人のコミニュケーションがなければいけません。殆ど、マルクス的なあほあほな理論、あるいは、精神論でしょうか? 私が、言っているのは、如何なる制度の基でも成り立つ、人間の行いです。 資本主義は、経済においては優れた活動です、より人間を豊かにする。しかし、一方で人と人の間に物(サービス)の取引が行われることにより、価値が発生すると同時に、資本家と消費者の間で金融機関を通して利息が発生することが問題なんです。これが、貧富の差を生むんです。でも、資本家のお金を利用する仕組みでもあるんです。 だから、将来、資本家になるであろうエジソン(企業家の)モラルも説いているんですよ。アメリカのロックフェラーにならないように。もう、わざとの問いは止めてください。貴方の頭の中の解決方法で十分ではないでしょうか?
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですか。 何か――わたしから見れば――誤解が生じたようです。 ★ 物の価値は、物を欲しい人がいなければ何の価値もありません。 ☆ 何の価値もないモノを欲しがらせる。これが 資本主義だと思います。交換価値(貨幣価値)があるという事実を示せば―― 一度買われたという実績をつくれば―― あとは売れればよいわけです。 エスキモーの人たちに冷蔵庫を売ることだとも言われました。 ピカソも その作品はつくられた価値なのではないですか? ★ しかし、一方で人と人の間に物(サービス)の取引が行われることにより、価値が発生すると同時に、資本家と消費者の間で金融機関を通して利息が発生することが問題なんです。これが、貧富の差を生むんです。でも、資本家のお金を利用する仕組みでもあるんです。 ☆ 格差は 言ってみれば大した問題でもないかも知れません。もっとひどい格差をすでに経験して来たわけでもあります。再分配の福祉政策もありますし 労働条件から賃金から格段の向上を見ました。 仕事にやりがいがなく 誇りを持てないとすれば 問題なのだと思われます。 ですから 交換価値が最優先だと 何をおこなっても生きがいが無くなってしまいます。これを どうするか。 いい案はないのではないか? だとすれば その状態や情況を まづはそのようになっていると互いに認識することが大事ではないか。そういう意味で ガミガミ役とアース役とに分かれているそのことや ガミガミ電波のことを みんなが分かっていること。これが案外 仕事をやりやすくするのではないか。と思ったところでした。 その程度のお話でした。
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お礼
つづいてです。 ですが 底が見えたのでしょうか。 それは 残念。