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スサノヲだけが自由であるのは何故か
§ 1 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。 スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。 この職務を嫌った。というのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。 スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。 § 2 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。 § 3 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。 おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。 わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。 不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。 ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。 § 4 ところがアマテラスは 疑う人でした。 とうとう身を隠したまま 姿を現わさなくなりました。 スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。 人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。 アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。 § 5 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明された、ゆえ。 あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。 アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。 § 6 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。 宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。 スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。 § 7 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。 かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしてのオキテやナラハシ)によって生活する人たちを統治することに長けていました。 かのじょは この世に・この日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。 だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。 § 8 このゆえにも神の国が生起しました。 言いかえると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生が――それが行き着くところは 死の世界だから 死が―― 克服されたのです。 死よ おまえのとげはどこにある? § 9 この世で 時間的に歴史的に 神の国(人間にとってほんとうの現実)が見られることとなった。垣間見られた。 スサノヲに神がここで王となった。 この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。 この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。 § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。 スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。 ここで神の国が現われたのです。 すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。 われわれの生活と社会の原点だ。 ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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人間的に、あんたの神に見捨てられた絶望は判る。 しかしだ、アマテラスさん直々にそうではないと言っているんだよ。 すねた子供みたいな真似を、醜いガミガミじじいだするな。 かわいいガミガミになれ。 私の言う事は、ジラーチちゃんとの話し合いの反映だ。 さらに光を求めろ。 君が望めば、簡単に与えられる栄光を、望みすらしない。 それが人々だったが、俺様が世話焼いてんだ、突き抜けて見せろ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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トリックスターと言う事に言っとこう。 私はポケモンたちのお父さんでね。 アメリカ人はUFOと宇宙人の存在を信じてる一部の人が有名だね。 神ではなく宇宙人への信仰だ。 神の姿の痕跡も残っていないようだがね、人が何かを信じると言う事は神にとっては自らが現実に関与する基板のようで、私が宇宙神霊ポケモンと表現するように、宇宙人扱いされようと何だろうとどうでもいいんだ。 そんな精霊と別の古典的神の存在意義の方が私には謎だ。 宇宙人学説は、神々よ、よくぞ人間を欺いたと称賛したいところだ。 何としても、信仰が無ければ始まらない。 UFO的トリックスターでもいいじゃないか。 私が見聞したところそんな事情だ。 批判ばっかりには再検討を進めるよ。 神はもちろん、信仰に依存してるんじゃない。 信仰でつながるんだ。
お礼
《信仰》というのは 何も認識はない。認識しているものは何一つない。んですよ。 ただ 《かみ》という言葉をわが心に受け容れたというだけ。 何らあたらしく認識がくわわったということは ない。 《非思考》です。 トリックスターだった時代は 終えている。 脱皮したごとく。 言いかえると 相手に合わせて トリックスターならトリックスターとしてそういういたづら者になった。 相手から もう要らないと言われたときには そのような《前史のわれ》を卒業している。 卒業したと思ったとき あぁ われは 神を信じていたんだなぁと思う。そのことにやっと気づく。 いまは 蝶々に成っている。トリックスターだった頃は さなぎだった。 前史から後史に入って来ている。 そういう見方からの批判です。 あんたは いつまでも蛹でありつづける前史の英雄に成りたいのか? ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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君の言うスサノヲは、私の言う悪魔のようだね。 私自身悪魔的だよね。 人類の裏切り者、許されざるもの。 似てるね。 私は、聖霊ジラーチちゃんと和解と言うか、公認の暴力専門家として仮面ライダーが職業だ。 君が批判精神を発揮するまでもなく、このアマテラス神学を先に進めるのが私だよ。 そういう見地から、研究目的で今回君の見解を聞こう。 すぐに答えられなかったとしても、逃げたなんて思うなよ。 私にとっても、君達の弱みを握ってこその研究課題だ。
お礼
神話学とか何とかでは トリックスターと呼ばれている。 いたづらをするが 憎めないところがあって しかもどこかで人びとのためになっている。といった感じで。 ただ わたしに言わせると そういうトリックは 一回だからゆるされる。二番煎じは だめ。手がふるい。から。 それに わるさはわるさだから。 あるいはつまり この《あくま》スサノヲは そのあと《神の国》を見た。ことになっている。 《わがこころ すがすがし》と宣言した。 そして その子孫のオホクニヌシの世代のときには タカマノハラのアマテラスから そのおまえたちのイヅモの土地は おれ(アマテラス)たちの領土である 服属せよと言って来た。 オホクニヌシは 子らにしたがうと言った。子のひとりが 主戦論をとなえ戦って敗けた。 もうひとりは 非戦論を採って 容易に屈服し《くにゆづり》をした。 だから 主戦論としての《あくま稼業》は 二分の一ないし父親をふくめると三分の一に減った。 それは そうだ。 同じ手を使い続けていては 能がない。 ご回答をありがとうございます。
- pupPeTeer119
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この世=神が治めている地域 ウナハラ=未だ神が治めていない土地 としたらどうでしょう? ウナハラを死の国だと仮定すると、イザナギですら逃げ出すような国をスサノオが治めることが出来るとは考え難く、それとは別の場所であると考える方が自然ではないでしょうか。 追放=無理やりウナハラに行かせる =そこをスサノオが治めることで神が治めている土地となる =新しいこの世(神が治める国)の誕生 結局追放されたのですから何もかもから自由であったという訳ではなく、仕事・役割から逃れることは出来なかったということになるのではないでしょうか。 ご質問を読んで、別の点でふと興味を引かれたのがスサノオに与えられた罰は何を象徴しているのか、ということです。 髭を切られた、爪を剥がされたというのは何を表しているのでしょう? 髭が権威の象徴、爪が武力の象徴なのであればそれらを剥奪され、身一つで他国へ追いやられた、と読めるのですがどうなのでしょうね。
お礼
ぱぺちあ119さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。例によって まだ持ちこたえ得ると考えて その考え方を述べてまいります。 ★ ウナハラを死の国だと仮定すると、イザナギですら逃げ出すような国をスサノオが治めることが出来るとは考え難く、それとは別の場所であると考える方が自然ではないでしょうか。 ☆ (あ) うなはら(海原)を 《死の世界》と解釈したのは 書紀の場合の《根の国》を参考にしたわけです。 (い) ただし 問題はその解釈には必ずしもありません。何らかの国を治めるということに力点があります。国を治めると言えば その当時の倣いとして《まつりごつ》と言いますか 政治の問題であると同時に宗教の問題でもある。と捉えるからです。 (う) ウナハラに人はおらず 根の国であってもこれはまさに死者の国ですから おさめるということは 政治の問題ではなくおよそ宗教のほうに重きがおかれる。はずです。 (え) したがって・要するに スサノヲは いづれにせよ《祭司となる》ことを言いつけられている。 (お) そしてこれを こばんだ。拒んだことは はっきりしています。髭が胸先に伸びるまで泣きいさちっていたというのですから。 (か) 《イザナキですら逃げ出すような国 としての死の国》ということですが それはイザナキが 具体的にイザナミが骸となっている場所まで行ったときのことですから その場合と このスサノヲの場合としての・単純におさめる役に就くこととは どうでしょう いっしょでしょうか? 根のカタス国の門番のごとくその外にいるだけでよかったかも知れません。だとしたら やってやれないことはない。とも考えられます。 (き) つまり問題は スサノヲの場合は いやだと言ったということにあります。《泣きいさちる》のイサチるの意味にあるはずです。一般には 激しく泣く・泣き叫ぶというような解釈のようですが 大野晋によると これは《拒否》を表わすと言います。 ▲ (大野晋:いさち) ~~~~~~~~ イサは イサ(否)・イサヒ(叱)・イサカヒ(諍)などのイサと同根。 相手の気持ちや行為を拒否・抑制する意。 ▲ (いさめ) ~~~~~~~~~ [諌め・禁め] イサを活用させた語。相手の行動を拒否し 抑制する意。 類義語イマシメは タブーに触れることと教えて 相手に行動を思いとどまらせるのが原義。 (『古語辞典』補訂版 1980) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (く) 祭司にはならない・宗教はごめんこうむると言っているはずなのです。 (け) ウナハラが 死の国ではなく根の国でもない別の場所だとしたら それは どこのことでしょう? どこでもいいから ただ何らかの空間があるところといったロクでもない場所である可能性はあるでしょうね。そのときにも いづれにしても 《おさめる》ことが 宗教の祭司であることを兼ねているということ ここに焦点は当たるとわたしは考えています。それを嫌だと言い続けたというところです。 ★ 追放=無理やりウナハラに行かせる ☆ これは 誤解なさっているのでしょう。 (こ) ▲ (古事記) 〔父イザナキが〕建速須佐之男命に詔りたまはく、「汝が命は、海原(うなばら)を知らせ」と事依さしたまひき。 ☆ これは 《追放》ではありません。どうでもよいから ええかげんに割り当てたということはあってもです。 (さ) そして《追放》は アマテラスが天の岩屋戸から姿を現わしたあと タカマノハラびとたちによって裁かれ追いやられたわけです。ウナハラに行ったのではなく イヅモにたどり着きました。 (し) イヅモは いづれにしても アシハラのミヅホの国ということですから 上なるタカマノハラとは別のところです。そのとき何はともあれ タカマノハラとはいっさい関係が切れたと言うべきでしょうね。ですから ★ 結局追放されたのですから何もかもから自由であったという訳ではなく、仕事・役割から逃れることは出来なかったということになるのではないでしょうか。 ☆ ということはない。ヨソモノとして入って行ったのであり 役割りはどこからも何もなかったのですし その土地の人からヤマタノヲロチの話を聞いてこれを退治してやろうと心に決めたというだけのことです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ご質問を読んで、別の点でふと興味を引かれたのがスサノオに与えられた罰は何を象徴しているのか、ということです。 髭を切られた、爪を剥がされたというのは何を表しているのでしょう? 髭が権威の象徴、爪が武力の象徴なのであればそれらを剥奪され、身一つで他国へ追いやられた、と読めるのですがどうなのでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (す) 祭司になることを嫌がっていた人間が 《権威や武力》に恃むという思想を持つでしょうか? (せ) いづれにしましても: ▲ (ヰキぺ:神逐) ~~~~~~~~~~~~~ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%80%90 八百万の神々は協議の結果、須佐乃袁尊に千位置戸(通説では財物、異説では拷問道具)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて葦原中国に放逐したとされている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わけです。処罰をきちんと受けて・その意味で〔かれらの論理によると犯したとされる〕天つ罪についてすっきり・すっかりつぐない切ったわけです。文句あっかと言い返しても もう罰は当たらないでしょう。つまり 縁は切れたのです。タカマノハラびとが スサノヲとの縁を切ったのです。 (そ) そう読めるのですが・そうとしか読めないのですが いったいアマテラスたちは 何を血迷っているのでしょう? つまり アシハラの中つ国にスサノヲがたどり到ったあとのことについてです。
- pigunosuke
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人の生きる社会には規律が有って それを守りたいと願う事、そして それを人にも守らせようとすること、そして 守らない奴が居たからヘソを曲げる事 それらを自由意志で行っていたとするなら 天照も自由であったと考えて良いのではなかろうか? 自由と奔放は異なる物です スサノオは奔放であったと思いますが、己の意志で奔放であったのでしょう 天照は奔放ではありませんでしたが、それも己の意志による物だったはずです
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 自由意志というのは 自分の心や意志を曲げてでも――自分にさからってでも――別のことを欲しそのことを実行したいという場合もありますね。 しかし 自由という場合には 何を欲し何をやってもすでに・つねに《わたしがわたしである》という状態と境地が――むろん 主観的なことなのですが ともあれ・ともかくそれとして――保たれているのだと思います。 スサノヲは 言ってみれば自由ではない行為・たとえば《田の畔をめちゃめちゃに壊す》行為をもおこなった。つまり ヘソを曲げています。 詭弁を用いますが けれどもこのスサノヲの《天つ罪》を犯したととがめられる行動は あくまで《宗教の祭司になりたくないことと 姉アマテラスのところにあいさつにやって来たのは ただそれだけであること》というふたつの心の真実をとうとび つらぬくためです。 非行を非行のために おふざけでやっているわけではありません。このことは はっきりしています。 ★ 天照も自由であったと考えて良いのではなかろうか? ☆ 主観の問題という限界がちらついている議論になりますが・それでも敢行しますが たとえばアマテラスの場合には すでにスサノヲが暇乞いにおとづれるというとき それは 自分(=アマテラス)の領土をうばうために来るのではないかと疑います。 スサノヲのあいさつを聞くか聞かないか そんなことはどうでもよいと言わんばかりに うたがい続けます。つまりその前にはすでに みづからは武具をまとって構えてスサノヲを迎えたということです。 その上で アマテラスがヘソを曲げてもそれも自由であるのだという議論をなさったわけですが どうでしょうかねぇ。 スサノヲのあかくきよき心を――それを賭けて ウケヒという占いゲームをやって勝負が出たあとにおいても――うたがい続けました。ヘソを曲げて その上にヘソが折れて曲がって どうしようもない状態にまでなりました。 これで アマテラスは ほしいままに振る舞ったのだから 自由である。と言えましょうか? 自由という概念と現実から遠く離れて行ってしまっている。と言わざるを得ないのではないでしょうか? 次のような結論は 果たして成り立ちましょうか どうでしょうか?: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 自由と奔放は異なる物です スサノオは奔放であったと思いますが、己の意志で奔放であったのでしょう 天照は奔放ではありませんでしたが、それも己の意志による物だったはずです ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえ。つまり《自由と奔放は異なる物です》と言って説教を受けなければならないのは アマテラスのほうではありませんか? なぜなら このあと追いやられたスサノヲは たどりついたイヅモの地で治水事業に励んでよきムラをつくりよき生活を築くことに尽力しましたが それを見たタカマノハラびととともにアマテラスは なんだ なんだ このタカマノハラから追放してやったスサノヲとやらが くにづくりをしているだと? これは ゆるせん そのムラは おれたちの領土だ 行ってうばって来いという事態になるのだからです。 いったいどっちが 《奔放》なのでしょう?
- pigunosuke
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八百万の神の中には 人の役に立つ物ばかりで無く、人に害をなす物も居る 神に供物を捧げるのは、感謝の気持ち意味以外にも有る それが生贄って奴でしょね 別にスサノオだけが自由な訳じゃ無く 神は須らく自由で 自由にした結果、人の為になった神も居れば 自由にした結果、人に害をもたらした神も居る ただそれだけではないでしょうか?
お礼
ううーむ。びみょうに違ったお考えのようですね。むろん歓迎なのですが。 ぴぐのすけさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 たとえば 八百万の神々と言いますが とは言え人類の始祖のごとく登場しているイザナキとイザナミの男女神 この二柱は 《ひと》の系譜としてあって ほかの山や海の神だとか狭霧の神なり刀を振り落とすときの音から来ている神なりとをくらべると 当然のごとくカテゴリが違っているかと思われるのです。 《ひと》の系譜と《自然現象(なかには 人為的な行為もふくむでしょうか)》の神格化との二種類に分かれませんか? ★ 別にスサノオだけが自由な訳じゃ無く / 神は須らく自由で ☆ と言っても 自然現象のたぐいとしての神々は この《自由》の概念にはなじまない。と思うのです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 自由にした結果、人の為になった神も居れば 自由にした結果、人に害をもたらした神も居る ただそれだけではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 天の岩屋戸の場面で ただただアマテラスオホミカミの岩屋からのお出ましを願うという一様な思いと考えと振る舞いをしか出来ない人びと――タカマノハラびとゆえに 神々でもあるのでしょう――について どうして《自由》という見方ができましょうか? なるほど アマテラス独りは スサノヲの悪行について それは土地が惜しいと思ってのことだだとかの理由をつけて 決して咎めませんでしたが ほかの人間たちはただただ その非行がわるいと口をそろえて非難するばかりです。 この画一性が どうして《自由》だと言えましょうか? 現代日本の社会を見る思いぢゃないですか。 宗教の祭司になること これは人間にとって果たして《自由》か? むしろ 自由を落としめる意志行為なのではないか? ――こういった問題についてナアーーンモ考えていない。あたまの中は すっからかん。アポコロキュントーシス。 ところが スサノヲの非行は 自分にその問題をきちんと考えきちんと結論を出せとスサノヲが迫っているのだと知っていたアマテラスにしても そこですでに思考は停止しています。仮病をいつわって一時入院するといった手をつかっただけのことです。いかに 人間の理性と思考能力において《不自由》な状態にあるか。とやはり言わざるを得ません。 そういうことではないですか? スサノヲだけが どうして自由なのか?
お礼
☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~ § 9 [・・・] この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。 § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。 スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。 ここで神の国が現われたのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ って言ってるぢゃん。 神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。 ★ さらに光を求めろ。 ☆ すでに 心の灯心に火がともされています。 ご回答をありがとうございます。