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スサノヲの自由について
- 「スサノヲだけがなぜ自由か」という問いについて考えましょう。
- スサノヲは宗教の拒否を通じて自由を手に入れました。
- 彼の非行と追放は、宗教の統治に異議を唱える行為であり、神の国が生起した契機でもありました。
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誤解しておりました。なにしろ オオクニヌシノミコトの物語が後に続き、さらに 愛の心理分析につながるとは思いませんでした。神の国の生起の物語分析は記紀の成立以来 読者は現代人まで天皇制はこんなことかと理解できるものと思うのです。あるいは支配者側は こう考えていたか を知るわけです。有意味と 思うのです。 愛の心理分析は(勉強不足ですが)被支配層と支配層は 支配関係ではなく 対等関係が成り立っている ということのようですが これは天皇制にとって都合がよい ということに繋がるのでしょうか。現代の理解では その通りと思われますが 記紀成立当時 あるいは 伝え聞いてきている太古の人々が理解できたということでしょうか。出来たということであれば すごい発見ですし、記紀は大変な記録である と思います。想像をたくましくすれば例えば縄文人と渡来弥生人との関係は愛の関係であり おおきな争いごとはおきていなく、このことの投影されたものが この愛の分析に関わっているかもしれない と感じました。以上 また誤解部分はおゆるしを。
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オコリザルです。 どうも今回はしどろもどろでとりとめがなくお恥ずかしい。 勇み足で何かを判ろうとしているのですが至らない。
お礼
分かりました。 はっきり言ってそういう部分があるかと思います。 時間をかけてください。
オコリザルです。 全然別の話です。 生きることは愛である。 このような自覚のもとでそれでは神は愛で説明や理解が行き届くのか? これをテーマに検証しようと考えています。
お礼
そうですね。 ★ 生きることは愛である。 ☆ これは 経験世界のことをまづ取り上げて その人の判断を述べています。《愛》という言葉には 経験的な事象を言う場合と それを超えた非経験の場をも含めて言う場合とがあります。 ★ 神は愛 ☆ この《愛》についても 経験行為を言うのか 非経験の場のみのことを言うのか 両方をまとめて言っているのか この説明が必須だと思います。《神》は 非経験の場そのものだという前提は 一般論としても 哲学においては 欠かせないと考えております。 そういった前提事項を共有したいとは思っています。
オコリザルです。 何故放って置いたかの検証です。 つかみどころが無いのでおざなりですが、 http://okwave.jp/qa/q5616867.html ここで各回答に付けた私のお礼で、あえて慈悲を配らない事に、ときわたりESPを引用しています。 それをさらに進めて神としての立場のアマテラスさんは人間同士のように情を酌み交わす慈悲を知らずにスサノオの嘆きを放って置いたか、知らないのではなくて立場として出来なかったかもしれません。 ジラーチさん交流から類推する限り、アマテラスさんもまた、知らぬ事は無いはずで立場の問題でしょう。 私のときわたりespその物は永遠を起点とする独自の知解です。 説明がうまくまとまらないのですが、いわゆる無い物ねだり、有無を知らないまま、無にもかかわらづ求める事は、その問いには答えようまた無いのではないでしょうか。 この辺りはとりすがりとそれに手向ける慈悲の関係です。 言葉がまとまらないのですがそんなところではないかと目分量でお話ししています。
お礼
プライムエイプさん これではらちが開きません。 わたしも自分の考えがあって 一般的に認められた定説に反論しつつ 明らかにしようとしています。あなたにも 持説があります。そしてたとえばこのアマテラスおよびスサノヲという主題についても そうなのでしょう。ですが とてもとても一般的な議論として対話をする段階ではないと 今回分かりました。 アマテラスがスサノヲの心を疑ったという記事をひとつの出発点として 一般的には議論を始めるものと考えます。 もしそれもしないということでしたら もともと初めから 持説をそのまま展開してください。そのほうが早いですし それしかいま方法はないと思われます。たとえば ★★ 【Q:我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)】~~~ (No.5補足欄) ここで話が戻り「世」を問う事について話しますが、いわゆる空観になじみ、縁起が忠実に判るようになると、実質的に時わたりが出来ます。 アーラヤ識の検証で記憶の持つ性質について、私はやったんですが、観念世界には未来の記憶すらも眠っており、それらの記憶は検索可能です。 これはポケモンマニアならではの説明で、私固有のESPと言う事になりますが、しっかりとした説明ができるようになりたいものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《説明》ですね。そこから始めなければ 話は空回りすると思われますから。 ひとつここを説明して欲しいと思うところを出しておきます。 アマテラスとスサノヲは 姉と弟であるというところが 出発点だと思うのですが これは 編成替えをして新しい仮説を述べて行くということでしょうか? 姉のアマテラスの場合には 《神としての立ち場》を見ているけれども 弟のスサノヲは《人間のみ》だという見方は 整合性がなくなりますね。整合性を失くしてもよいというその理由を説明して初めて話がかみ合います。 そういった問題が うんとあるように 今回 しっかりと分かりました。そのあたり どう応えて行きますか?
オコリザルです。 神話の読み解きについてです。 アマテラスさんは疑惑を抱いたりしていない。 聡明な答えが放っとく事である。 スサノオさんは自らの行いにこそ疑念を抱いた。 アマテラスさんはそれを見抜いたのみである。 過ちはスサノオにこそあり。
お礼
ご回答をありがとうございます。 アマテラスが疑惑を抱いたというのは 古事記本文にあるくだりです。 ▲ (ヰキぺ:アマテラスとスサノヲの誓約) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%AA%93%E7%B4%84 スサノオは、姉のアマテラスに言ってから根の国へ行こうと思って、アマテラスが治める高天原へと登っていく。アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たのだと思い、弓矢を携えてスサノオを迎えた。 スサノオはアマテラスの疑いを解くために、2人でウケヒ(宇気比、誓約)をしようといった。 ◆ (鈴木三重吉:古事記物語) ~~~~~~~ http://www.aozora.gr.jp/cards/000107/files/1530_5502.html § 天(あめ)の岩屋(いわや) ニ 〔スサノヲは〕「それでは、お姉上さまにおいとま乞(ご)いをしてこよう」とおっしゃりながら、そのまま大空の上の、高天原(たかまのはら)をめざして、どんどんのぼっていらっしゃいました。 すると、力の強い、大男の命(みこと)ですから、力いっぱいずしんずしんと乱暴(らんぼう)にお歩きになると、山も川もめりめりとゆるぎだし、世界じゅうがみしみしと震(ふる)い動きました。 天照大神(あまてらすおおかみ)は、その響(ひび)きにびっくりなすって、 「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっと私(わたし)の国を奪(うば)い取ろうと思って出て来たに相違(そうい)ない」 こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いで髪(かみ)をといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方の腕(うで)とに、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)というりっぱな玉の飾(かざ)りをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をお負(お)いになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足を踏(ふ)みならして待ちかまえていらっしゃいました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 男装し武装もしたということだそうです。疑惑を抱いたことも その直接の発言として載せてあるわけです。ここは わたしの勝手な解釈ではないのです。
補足
お礼欄のおぎないです。 もしアマテラスの疑いがほんとうのことであったとしたら その立証責任は 原告すなわちアマテラスのほうにあります。 疑わしきは罰せずという原則を その後のアマテラスの振る舞いは 破ってはいないのですが 無視するかたちを取っています。 まったくの当事者でありつつ しかも われ関せずという態度を取り続けました。つまり 疑いつづけました。 これは けっきょくのところ反人間的な意志行為だと考えます。たとえその疑いが合っていたとしても その後の振る舞いの仕方は 人間のものではありません。 きびしい・残酷・非情というよりは その件にかんしては 《人間からは外れている》という態度です。けれどもこの態度は 無関心という死を意味するでしょう。
- LTCM1998
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>スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。 「日本は天皇を中心とした神の国」と発言した馬鹿首相がいましたが、どうしてここを検証せずにイコールで結べるのでしょうか? 「記紀が存在すること」「内容を信じる人がいること」「内容が真実であること」はそれぞれ別の事象でしょう。 アプリオリに盲信するのは学問ではないと思いますが。
お礼
LTCMさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「日本は天皇を中心とした神の国」と発言した馬鹿首相がいましたが、どうしてここを検証せずにイコールで結べるのでしょうか? ☆ そうですね。わたしはともかく《神》にかんする文章をよく書いたりするものですから たしかに鈍くなっていたようです。とまづは 思いました。 その上で わづかにですがそれに対する断り書きのようなものとしては 次があります。 ☆☆ (質問の趣旨説明) この世で 時間的に歴史的に ≫ 神の国(ほんとうの現実) ≪ が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。 ☆ このような趣旨でいわば貫いていると思っていて 防御が甘くなっていたかも知れません。つまり 神道の・まして国家神道の言う意味での《神の国》ではないと 最低限において分かるのではないかと安心していたのだと思います。 もう少しこの線で弁解につとめますが: ★ 「記紀が存在すること」「内容を信じる人がいること」「内容が真実であること」はそれぞれ別の事象でしょう。 ☆ ひとつにこの歴史観のようなものは 明らかに《記紀神話》にわたしなりにもとづいてみちびき出したものです。できるだけ史実として歴史学において比定されたことがらにも基づこうとしています。(案外そうなのです)。 ひとつに記紀神話の《内容を信じる》という立ち場では この歴史観をみちびいてはいません。さすが そうではありません。ということは 《信じる人びとがいること》に留意せよということでしょうか? つまりは 神道の立ち場との異同をはっきりさせよというおおせでしょうか? これについては 追い追いやり取りの中で明らかになってくるものと思っております。 最後のひとつには 「内容が真実であること」を目指しています。つまり 史実を史実として明らかにするという仕事は学者にまかせて ずるいですが そこから 歴史と人間との真実を拾い起こそうというところを狙いとしています。 さて これら三つの事柄が それぞれ別の事象であるのに わたしは混同していましょうか? どうでしょう? ★ アプリオリに盲信する ☆ とは いま省みても思っていませんが 果たして どうでしょうか? * ★ 「日本は天皇を中心とした神の国」――☆ この中の《天皇を中心とした》という見方についても そのままをわたしの文章に映しているとは思っていません。むしろそれに異をとなえています。とは解釈しえなかったでしょうか? * ★ アプリオリに盲信するのは学問ではないと思いますが。――☆ たしかにわたしの文章は 従来の《学問》とは かなりその基礎がちがっているかと思います。特に ここでのように《神とか 神の国》をその自説のごとく持ち出してくる場合には 基礎が違っているとして見てもらわねばならないかも知れません。ひとことで言えば 神を《非思考の場》という扱いにおいて 哲学や経験科学にとっても大いに使うというところがあります。――この非思考の場の主題については ほかの質問【Q:神とは何か?】を参照していただくとよいかと思います。 * 《検証》したことになっていないかも知れません。それはやっぱり 質疑応答を重ねてくればおのづから明らかになると思っているわたしがいるようです。そういう心づもりですが よろしかったら さらに中身についてもご投稿をなさってみてください。
オコリザルです。 a4のお礼について、今回の議題に土俵をもっていく考え方は私から見て乗れます。 >☆ どうでしょう。二つの見方が入り組んでいるようにもわたしには映りますが どうでしょう。 これそのものについては前向きにさらに先に進むのみです。 それはそうと「欲」の解明は信仰に根ざした神(現状では神々)との交流で解き明かされて理解が及ぶようになるのではないかと楽観できます。 私にしてみれば信仰とはジラーチさん熱烈恋愛宣言のごとく交流です。 非思考があくまでも考えを超えていると受け取るのならば、それを理解して考えの及ぶ範囲に至る事は神秘お解き明かす事でもありますが、むしろ神秘と受け取られるよりも知性を養う事と受け取ってもらいたい処です。 a4に置いてようやく「欲望を哲学することは無駄」であった状態からとっかかりにもなりうるでしょう。 しかしこのような哲学に置いて重要となる知性とは、気まぐれな神様の計らいに任せるのみです。 知性には二つの見解が成り立つと思います。 人間が生得的に備えた特徴であり、人間の生きる証。 知性とは神のもたらした恩恵、それによって人間は初めて人間となった。 私は後者の立場なんですよ。
お礼
こんにちは。遅くなりました。(言い訳は 例の質問です)。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 知性には二つの見解が成り立つと思います。 人間が生得的に備えた特徴であり、人間の生きる証。 知性とは神のもたらした恩恵、それによって人間は初めて人間となった。 私は後者の立場なんですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。《生得的に備えた特徴》としての知性のほうも もしそれを《無神》という非思考の場において恩恵として備わっているとみれば 限りなく《神の賜物》という見方に近く 言ってみればそれほど変わりはないかも知れません。 といった感想を持ちましたが 別の話でご機嫌をおうかがいしましょうか。 スサノヲは アマテラスのところへ けっきょく暇乞いに行ったと書かれています。死の国の祭司であることを嫌って厳然としてその宗教を拒否し あとは亡き母のところへ行くことにしたので いとまごいにやって来たと言います。 これがアマテラスによって取り合われなかった。おまけに 自分(アマテラス)の統治権をうかがう不届き者ではないかと疑われた。これに対してスサノヲは 徹底して非行を繰り返します。口でそうぢゃないんだ 姉さん 分かってくれよなどとは一切言わず 行動に出てしまいました。 中で 皮を剥いだ馬を 機織りの小屋の屋根を打ち破ってそこから投げ入れたとも言います。そこで仕事をしていた機織り女がおどろき 杼(ひ)にホトを突いて死んでしまったというおまけつきです。 さて スサノヲの生涯の経過を見てその心の清きを信じるならば これは《欲》ではないとなります。(それをまぬかれているという意味であるよりは 欲から出たものではないという意味に取ります)。どういうことかと言いますと 《欲》という説に立てば アマテラスの位を奪おうという権力欲の問題です。 そうでないという説に立てば どうなるか? そもそもそういう説そういう立ち場はあるのか? それは このような天津罪を犯してまでも 何か守り抜かねばならないものがスサノヲにはあったのか? と問うてみるとよいと思うのです。 人の信教・良心の自由を侵したくない。《信じる》という領域において 他の人の意志を左右するようなことはしたくない。言いかえると ほかの人によって 自分の良心の自由を侵されたくないし 宗教〔の教義〕を信じさせられたくない。(信じさせるなどということは そのこと自体が 出来ないはずですが そういう振る舞いを強要することは出来ます。つまり その意味では宗教とは 政治的社会的な力学の問題であって 個人の自由な信仰とはまるで縁もゆかりもないとなります)。 そういう問題をスサノヲは バカみたいに愚直以上に非行をも避けずに追究しこれを貫こうとした。 ですから その意味では 知性よりもさらに前の段階で ことは起こっているとも考えられます。スサノヲにとってはです。アマテラスたちにとっては どうだったのか? 分からなかったかも知れません。 果てさて 実相はどうなのでしょう?
オコリザルです。 真面目の哲学しようとする姿勢から照らせばご迷惑かも知れません。 そうならそうと何がしかのご指摘をお願いします。 退屈しのぎです。 ヤプーをいじめているうちに思いついた事ですが、こういうのはヤプーのみがかかわります。 不明のまま自らを突き動かす衝動があるとすれば、おおむねそれは欲動であるとの類推がかつての人類の伝承にあった。 このような不明が欲望の起源です。 そうして(広義のヤプーは)「謎」を全て「欲」とした。 一方で「謎」の全てを(光に照らし)「非思考」、要するに信仰とする考えもあります。 ならば欲望とは誤解であり、(アマテラスさんの)過分な計らいを指すのでしょう。 しかし(ここでジラーチさんの御登場です)過分な計らいと見なすのは「自らを知らぬゆえである」よって欲とは人知の伝承で受け継がれた悪しきものにあらず。(反語的に)(いや、だからこそ欲とは悪しきものである) このようであれば、ヤプーでは無い一般人にとって「欲」とは無根であると了承できるでしょう。 何をもって欲であるかは今まで謎でした。 ところがここまでを下手に「なるほどそうなのか」と知ったかぶりをすると、今まで道りの神様争奪戦でしょう。 欲望がそのように表れるはずです。 よって(そーら見ろ)欲とは悪しきものである。 こうなってしまう。 こう言うのはヤプーの好む話題なのでハエみたいにたかってくると思います。 そのような醜態が「お救いください」の、とりすがりに見えて困りまくっている私です。 ヤプーさん代表は今、光そのものと化すかのごとき権現様モード全開で私には手に負えません。 押しつけるがのごときで心苦しいのですが、とりあえず欲についての見解について、冷静な知解をお願いします。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 スサノヲとアマテラスの物語に重なっていると思います。 ★ 欲 ☆ を《人間のおこなうこと》と取れば それは一般に善悪の判断がからまっていると捉えます。 無理にそちらへ持って行こうとしていると取られるかも知れませんが 広く捉えてみます。 すなわち たとえば生理的な欲求の場合には むしろ善悪については決めない(無記)というかたちになると思います。ただし この生理的な欲求に近い性欲の場合には そのまじわりについて 倫理的な基準を人間はつくっています。一般に相手へのうらぎりになるものは 善ではない。つまり悪であると。 そのほかもろもろの社会的な行為は 交通規則(法律)があって 善悪の判断を直接には避けていますが 禁止したり罰則を課したりすることにおいて 前提としていると考えられます。 クルマの走る側を右にするか左にするかは おそらく善悪無記だと思いますが 一たん決まれば その規則にしたがうかどうかで 善か悪かがついて来ます。 その間の事情は 次のように触れられています。 ★ 〔このようであれば、〕ヤプーでは無い一般人にとって「欲」とは無根であると了承できるでしょう。 ★ ・・・神様争奪戦でしょう。 / 欲望がそのように表れるはずです。 / よって(そーら見ろ)欲とは悪しきものである。 ☆ 《無根》あるいは無記あるいは無根拠でありうるのですが それでも実際の社会的な交通の場面においては 一般に善か悪かの判断がからまって来ています。 ここで この善悪の判断やその基準のかかわらない《起源》はどうなっているのかに移りますが: ★ このような不明〔* 無根拠〕が欲望の起源です。 ☆ これは わたしの考えでは 次の見方とひとしいと取っています。 ★ 「謎」の全てを(光に照らし)「非思考」、要するに信仰とする考えもあります。 ☆ つまり《見方》ですから《考え》なのですが そこで取り上げている《非思考の場》は 考えるを超えていますから 考えても分かりません。 つまりこの非思考の場を何とか人間のこの世においても見失わないようにし見失っていないという状態を守ろうとする動きも現われます。 《ウナバラ》や《黄泉の国》の祭司になるという宗教をいっさい嫌って拒んだというスサノヲの《欲》となって現われた。 ★ そうして(広義のヤプーは)「謎」を全て「欲」とした。 ☆ ですから この見方は すでに《非思考の場》を去ってこの世の出来事をこの世の世界における出来事だけのことだと見る見方だと思います。上にも《スサノヲの〈欲〉》というふうに わたしはこの見方に合わせて述べました。(また じっさい人間がこの《欲》ないしその見方をまぬかれているとも見ることは出来ないと思います。生身の人間どうしの関係性という一面があるという意味です)。 じっさいアマテラスからは 《自分(アマテラス)と同じようにこの世を統治したいために 死の国の宗教を主宰するのを嫌っているのであろう》と《欲》のもんだいとして解釈されたわけです。 そのあと ★ ならば欲望とは誤解であり、(アマテラスさんの)過分な計らいを指すのでしょう。 ☆ この指摘は 《欲望とは誤解である》とせずに《実際の欲である》という見方からも出てくるのではないかと考えました。 《(アマテラスさんの)過分な計らい》というところです。つまりわたしはこれを《スサノヲが暴れ放題になっていても アマテラスがこれを咎めず止めなかった》ことについて言ったものと思ってのことです。 すなわちスサノヲの《怠惰》は アマテラスの地位をねらったものだろうという疑いを晴らすことが出来ずに――なぜなら アマテラスは取り合わなかった――いたところ 今度は そのアマテラスの沈黙を嫌って やりたい放題のことをしでかした。それに対して ですから アマテラスの行為は《過分な計らい》であるよりは スサノヲに対する疑いつづけであるとも考えられるからです。 そのあと 次の文章にどのようにつながるか どうでしょう。 ★ しかし(ここでジラーチさんの御登場です)過分な計らいと見なすのは「自らを知らぬゆえである」 よって欲とは人知の伝承で受け継がれた悪しきものにあらず。(反語的に)(いや、だからこそ欲とは悪しきものである) このようであれば、ヤプーでは無い一般人にとって「欲」とは無根であると了承できるでしょう。 ☆ どうでしょう。二つの見方が入り組んでいるようにもわたしには映りますが どうでしょう。
オコリザルです。 神話の物語性として読みごたえのあるお話でした。 今回の読み解きの通りならアマテラスさんはスサノオさんに愛を傾けていますね。 血がつながっているからと説明されています。 ところで精神世界の話をすれば私の精神世界は、黄泉または常世です。 死者の国、死後の国は、ありませんよ。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 読んでいただきありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 今回の読み解きの通りならアマテラスさんはスサノオさんに愛を傾けていますね。 血がつながっているからと説明されています。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ それは 別の側面としては この世の主宰者であるところから アマテラスは威厳を自分に持たせているとも考えられます。田の畔を壊したり神の宮の前に――昔の夜の盗人のように――糞をしたり 天津罪を犯しても アマテラスはむやみにそのスサノヲを咎めたりしなかった。ま でんと構えているというのでしょうか。そういう情況にも映ると思います。 二人で賭けをしてもいますが そしてスサノヲのほうが勝ったことになっていますが この中身がどうであるのか よく分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ところで精神世界の話をすれば私の精神世界は、黄泉または常世です。 死者の国、死後の国は、ありませんよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 黄泉も常世も 地の底の死の国ですよ。常世は 不変ということで のちには不老不死の国というふうに受け取られていったということだそうです。 黄泉(よみ)から帰るというヨミガエルが 復活という意味だと思います。 古代人の神話はあんがい今でも使えるところがあるようです。
- ok9608
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質問文の理解は大変です。私の理解とコメントは以下のようなものです。まったく 誤解しているかもわかりません。その場合は お許しのほどを。 この 思想分析は記紀神話の日本のはじまり部分を神の国の生成として分析したものです。なぜ これが現代において有意味なのか、それは 今も天皇制が続き 国民に影響を与え続けているからです。その始まりを質問者の目で分析し確認したい。 日本書紀は 奈良時代の初めに 天皇中心の国家機関が 編集刊行したもので 当時の天皇国家の考えが 浸透している ことは間違いないのです。あるいは古事記も同時代のものであり天皇制の考えが浸透していることは同様でしょう。 そこで皇祖アマテラスと乱暴者スサノオの動きに注目します。両者の生まれと最初の動きを 第一の神の国とします。スサノオの宗教の拒否です。スサノオはすき勝手の狼藉ものです。アマテラスは一度は身をひきます。が第二の神の国はアマテラスが再び現れるときに生まれます。宗教の否定の否定です。スサノオの非行をアマテラスではなく他の神たちが裁きスサノオをイズモに追放します。そこではスサノオは率先して真面目に国創りに励む のをアマテラスが観ているのです。これが第三の神の国です。このあとは 延々と真面目国づくりの第三の国がつづくというわけです。 神の国の生起は このように 第1に最初に宗教ありきではなく否定からはじまり、第二に否定の否定と正統支配体制の確立があり、第三に延々とつづく統合 国づくり協力の プロセスを経ており、記紀以後 今日に至っている と指摘されているようにおもいます。 スサノオの役目は 神の国を性格づける(現実をしめす) 重要な動きをします。質問者は スサノオは自由と表現されているようですが 国家によれば 制御された小さい自由の場合もあるとおもいます。 もっと言えば 神の国 物語は、最初の性格づけ(意味付け、否定)、現実評価(否定の否定と正統性)、永遠性 の物語になっているのではないか。日本はその典型かもしれないと。 河合隼雄の神の中空構造とか フーコーの権力の浸透を彷彿とさせる論考とおもいます。おもしろいと思いました。このようなテキストの読み方は これが唯一ではなく 他にもあるのではないか とも思います が 大きな一つと思います。 私は思想分析とあわせて、科学的手法(DNA分析、同位元素の遺跡年代測定、遺跡年輪の年代測定、古墳の発掘、・・・・)を駆使して事実を再構成し その影響が現代の日本人、日本にどう影響しているか 知ることが重要であると思っていますが、現状はなにもできないデータをみるだけのタダの一ピープルです。
お礼
もっとも ここで直ちに それによってアマテラスの復活が成ったかというと そうではなかった。むしろ実際には 新しいかたちのというほどの別の疑いをなお持ったのであって それは とにかくオホクニヌシのムラを アマテラスの世界に組み入れてやるということによって 密かに――かれらの研究室において――オホクニヌシのムラの生活原理といったものを吟味してみようということを意味した。つまり おれたちの追放した者たちが おれたちより良き宗教を持っているわけなどないではないか これは疑って見なければならないというわけなのでした。 たしかにアマテラスたちも 侵略の手を伸ばしたと言っても すべてを破壊しつくそうというのではなかった。その点でも オホクニヌシは 服属の要求を受け容れたようです。愛の王国の歴史的な観点に立てば 受け容れてあげた――すべてを水に流してあげた――のであるかも知れないし 人間の経験的な愛からいけば 主戦論と非戦論とを闘わせたあげく その人間的な弱さによって非戦論に落ち着き(――主戦論も人間の弱さですが――) 長いものに巻かれたのであるかも知れません。 これが 《国譲り》ですが したがって 事の本質は じつは《侵略》とか《服属》とかの関係にはないと言わなければならないのかも知れません。 つまり 大きく言ってここで あの言わば神の国の地上における歴史に 一つの画期的な基軸が見られ 局面もおおきく展開することとなった。一つに アマテラスが侵略の手を伸ばすという経験的な愛(少なくとも自己の愛)をとおして 社会的な諸関係の総和となるという・愛の国の歴史的な土壌としての場が生まれた。(スサノヲのときに この問い求めの場が見出され ここで これが実現した。) この意味でも アマテラスの疑惑――スサノヲだけが なぜ 宗教を拒否できるのか なぜスサノヲは自由なのかに対する疑惑――の克服される場が きづかれた。このように オホクニヌシは 《国譲り》をもってアマテラスに対処しました。(人間の弱きによっても そういう結果を招来した。)オホクニヌシの愛が 歴史を進展させる力なる愛に参画したのだと思います。この意味で 見えざる愛の国なる神は 資本(社会的諸関係の総和つまり愛)の推進力であると言うことは 間違っていない。(アダム・スミスら。――これは 博愛心などの道徳・倫理規範〔としての愛〕・また慣習(宗教)・掟・法律が われわれの社会生活の推進力なのではないという点をもって。) こう考えてくると 経済的な意味での資本つまり要するに 経済活動としての取り引き(つまり時に戦争とまで形容されうるようなそれ)にかんしても 人は必ずしも 経済的な戦争や侵略を第一の目的としているのではなく 自由な――そしてむろんそれには 繁栄がたしかに伴われなければならないが――経済主体に対して その秘密を盗もうと・つまりそれを知りたいという欲求へと促されるというのが 事の実態であるのかも分かりません。この欲求がすでに人間の愛だと・したがってそこに資本推進力が あたかも見えざるところでは神のごとくして はたらきたまうというのかも知れない。 もっともこのことは 資本なる概念=現実を 経済的な側面と愛のそれとに分け どちらか一方に片寄るということを意味しないはずで いまオホクニヌシのミコトの物語に現われた歴史的基軸を勘案するに 現代の視点からは 《資本》とか《社会的諸関係の総体》とか・またわれわれの言葉で《やしろ》とか《愛》とかの概念は 現実に構造的にこのような拡がりを持って〔過程的に〕捉えることができる。このことを示唆していると考えるのです。 すなわち すでにここで現代の視点と重なって 歴史――いまは日本人の歴史と特定している――が われわれの内省(また観想)の領域では あのスサノヲのミコトの歴史に始まると考えたいと思っています。そういう観点が ひとつ あってもよいのではないかというものです。その上では この視点をもって 日本の歴史を総点検していくことができる。あたらしい日本の歴史が見出されるのではないでしょうか。 繰り返すなら スサノヲとオホクニヌシとの両物語を通じて アマテラスを含めた全体としての日本人の歴史が 基本的に 始まったと。もしくはそのいくつかの基軸をもって この歴史の基調を提供している。愛または愛の国の歴史としての日本人の歴史。人間の愛(下卑な欲求をも含めた愛および資本〔再生産〕行為)と その愛の源泉と想定される愛・その推進力としての愛 これら両者の互いに入り組み関係する過程たる歴史。要するに生活――日本人として自由な――の歴史。 * 国家の分析は まだですが。そうとうクサイ芝居がかった文章を出してみました。ご批判あれ。
補足
これはこれは オウケイさん 来てくださってありがとうございます。ご回答をありがとうございます。 スサノヲの質問が現われたものですから 出しゃばることにしました。 ★ そこではスサノオは率先して真面目に国創りに励む のをアマテラスが観ているのです。これが第三の神の国です。このあとは 延々と真面目国づくりの第三の国がつづくというわけです。 ☆ この段階で少し――いえ正直に言って大きく――違うと思います。スサノヲの子孫のオホクニヌシに対してそれまでの国づくりを眺めていたアマテラス国からは 服属の要求があり これに対して《国ゆづり》で応じたという第三段階です。二階建ての国家の成立というところです。 § オホクニヌシのミコトの物語 オホクニヌシについても スサノヲと同じように 今度は兄弟たちからの迫害があり死からの再生まで記されています。その過程については すでに取り上げません。かれオホクニヌシが そのように言わば前史から後史へ回転したのち――スサノヲ共同体を受け継いで さらに新しい段階の国づくりに励んだもののようである(薬草の研究など) そこへ―― アマテラスの世界からの接触があった。この歴史を もうひとつの基軸として 捉えなければならない。 アマテラスからの接触とは ここで単純に服属の要求であり 侵略の動きであります。知られているようにこの結果 オホクニヌシ共同体は かれらに《国譲り》をすることになる。この歴史を 一つの基軸として見ることができます。 すなわち――ただちに結論しようと思えば―― 先のスサノヲの時代に かれとアマテラスの世界との関係は 次のようであった。一方で 主宰者アマテラスは その面子を保とうとしてのように 最後まで 新しき人スサノヲに対しては取り合わなかった。他方で スサノヲの《悪しきわざ》が行き着くところまで行き着くと アマテラスの人びとは これを裁き スサノヲを追放した。そしてこのゆえに これら両面の関係の進展のゆえに この世の呪術世界が克服されたとわれわれは考えた。この追放の結果 スサノヲに復活がおとづれたから。そうして このことを経験的に つまり言いかえるとスサノヲとアマテラスとの社会関係的にも 言わば《関係の絶対性》を証しすることになる。というのも あのアマテラスの側から――内容はともあれ――積極的な接触が ここで あったからである。無関心という・愛の氷が 解け始めたか。あるいは装っていただけだったか。 〔疑いが克服されたというこの一つの歴史真実は――つまり 史実の比定・確定に重きを置くよりは 人間の真実は何かという観点から―― 《疑わしきは 罰せず》の淵源であるかとも考えられます。〕 ともかく最後まで取り合わなかったアマテラスから 積極的な接触があった。(スサノヲからオホクニヌシへの世代交代と同じように アマテラスの側にも それがあったと考えられる。そのような史実問題も ここでは 二の次である。)アマテラスの人びとは もともと 自分たちがスサノヲを追放したのであるから つまりかれを裁く側にあったのだから 服属を要求することは とうぜんのことだと考えた。しかもまづ このような関係の進展が スサノヲの復活を証しすると考えられる。 そこで今度は スサノヲの復活の歴史を受け継いだオホクニヌシが むしろアマテラスの側の復活の歴史――かれらの側の前史から後史への回転――にどう かかわったかが この第三段階の歴史的な基軸となるでしょう。アマテラスがどう復活するか これが ここでの問題です。この意味で オホクニヌシのミコトの物語が スサノヲの物語につづきます。 古事記など史書の伝えるところによれば アマテラスからの使者には いろんなタイプがあった――そして 初めは 必ずしも功を奏さず 使者が何度か何人かに分かれてやって来て 数年 十数年が過ぎていった――と知ることができます。そして けっきょく最後の使者となったのは 武力(腕力)もしくはこれによる威嚇が その接触の基本的な性格であったと知られる。 このことは あのスサノヲがちょうど昔したい放題のことを為したというのと対応するかのように 今度はアマテラスが 暴力に訴えてでも おまえたちの復活の歴史の秘密は何か それをおしえろと言って寄こしたかっこうであるのです。それには おれたちの支配下におまえたちも入れてあげようと言っているかのようです。これは 正直に言って スサノヲの愛の勝利を 意味します。むしろ相手側から その宣言をなしたもののように思われます。人は この愛の勝利を――つまり 必ずしも反体制の運動の勝利ではなく それとは微妙に違って 愛の勝利を―― 絶対に疑ってはならないと思われます。
お礼
いえいえ そうとう飛躍しておりますので 解きほぐしていかねばならないと思っています。 ちょうどいま――おっと オウケイさん つたない文章にお付き合いいただきご回答をも寄せていただきありがとうございます―― ほかの質問で そのおまえのシャリバリ(異言・空想)はいったいどういう魂胆なのか?とやり込められているところです。 【Q:充実している人と虚脱している人】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6043806.html ☆ ディラックのブラヱクトル・ケットヱクトルというものがわたしには分からないので 何とも致し方ないところがありますが。ちなみに そのチョトツという名の人は アメリカで物理学の教授をしているとか自己紹介しています。 さて 説明をおぎないます。 ★ 記紀成立当時 あるいは 伝え聞いてきている太古の人々が理解できたということでしょうか。 ☆ おっしゃるとおり わたしが下駄を履かせたかたちです。悪く言えば上げ底です。でも それでもこれを言うのは 潜在性のもんだいとして言えると思うからです。人間の自然本性に 今も昔も 変わりはないのだと。 先の【Q:えた・非人は・・・】の中で思想変遷についての図式を出しました。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6023047.html No.30補足欄です。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:《わたし》が世界に《入り》する +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(=政治的に) 寄せる。 ☆ 《世界へのヨリ―→世界へのイリ―→世界を束ねヨセる》という変遷ですが 《イリ歴史知性》が スサノヲやオホクニヌシの自己還帰を言います。前史から後史への回転(旧き人を脱ぎ 新しい人を着る)としての自己到来です。おおげさに言って 復活です。 《ヨセなる超歴史知性》は すでにこのイリ歴史知性に一たんは立った。そのあと さらにその上を行こうと どういうわけか 心に決めた。神のごとくいかなるものの下にも立つまいと固く決心した模様なのです。公民としてのアマテラスは 社会的な役目としてなら ふつうのことですので この超歴史知性としては スーパーアマテラスということにしています。 イリのふつうの知性という地平からアマアガリをして行った。言いかえるなら――なぜかと言うと オホクニヌシが国ゆづりをしたという事態とからまっているので その説明が必要だと思われ―― 一般にスサノヲ市民たちは 社会(やしろ)にも神棚を特別にこしらえて そこへきわめて優秀ながら取り扱いに厄介なスーパーアマテラスたちを祀り上げ住まわせた。ということになるかと考えます。 なお ☆☆ (No.1お礼欄)~~~~~~~~~~~~~ (α)〔経験世界〕 人間の愛(下卑な欲求をも含めた愛および資本〔再生産〕行為)と (ω)〔非思考の場〕 その愛の源泉と想定される愛・その推進力としての愛 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という定義になっています。ですから じつは(ω)は 《心理》を超えています。 ★★ (回答No.1) 河合隼雄の神の中空構造とか フーコーの権力の浸透 ☆ フーコについては――この哲学カテでさらに詳しく知ったという程度なのですが―― その権力関係(まなざしを注ぐ側と注がれる側との絡み)については おおむねその社会経験〔の認識〕を共有しますが かれの思想の前提には いわば《権力人 ホモポテンス》とも言うべき人間論があるように考えました。この但し書きを添えます。 【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html ☆ 河合隼雄については まづ論理的に批判することがむつかしいと捉えています。言いかえると その理論が あいまいである(つまり両義性・多義性をおびる)ゆえだと思います。アメノミナカヌシを中心の神とする中空構造だと言えば たとえば 西欧流の《隠れたる神 デウス・アブスコンディトゥス》にも比べられて この図式については どこをどう批判すればよいか 困ります。なにしろ《隠れたる=中空》ですから。 河合隼雄にちなめば ここでも amaguappa さんという方(女性)がいて 或る程度直接に接したと言っておられます。 * くどいようにですが こう考えています。 ○ 愛――経験世界における愛――とは:愛情と憎悪 思いやりといがみ合い ゆづり合いとののしり合いといったように正負の愛がある。