※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:観念の運河をクウキなるゴンドラは今日もゆく(続))
観念の運河をクウキなるゴンドラは今日もゆく
玄関を一歩出ると そこは 運河である。
人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。
まづは ゴンドラを誂えなければならない。
船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。
ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?
クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?
ええっ?
クウキで出来たそれぞれの船。
ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年二千年も昔から仕立て上げられて来たお古である。
お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。
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では このクウキは 何で出来ているか?
思うに マクロとして アマテラス公民の無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波であり いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出ている。
《主権者たるスサノヲ市民 ‐ 公僕たるアマテラス公民》という二階建てから成る社会が 国家という社会形態の構造として 逆立ちしてしまった。一階よりお二階さんのほうがえらい。それが アマテラス公民の無謬性なる神話であり そういうクウキとしてゴンドラをかたちづくっている。
官僚や政治家は 間違いを侵さないというゼッタイとしてのお仕着せの船であり 実際にかれらが犯した間違いを知っていても これを口に出してはいけないというのが 通行手形の中身である。〔ここのところ この神話は 崩れて来ただろうか?〕
この逆立ちした《アマテラス‐スサノヲ》連関制のもと その上下関係に似せて形作られているのが 《上司‐部下》の関係である。(かくのごとき《フラクタル構造》?)
しばしば送られてくるガミガミ電波は やみくもに発する意識の排泄をともないながら その観念の運河としては・そこを通行せずばなるまいという部下のあたまの中には けっきょくみづからがアース役となって この電波を受け止めざるを得ないことになる。
スルーすることも出来なくないが そうすると このミクロの・ミニ《観念の運河》は いつまで経っても 同じ絵柄しか写し出さない。
まじめな人は アース役となって受けとめ 少しでも運河の水をきれいにしようと努める。
あるいは問題は ガミガミ役にかんしてその自分ひとりの昇進のためや地位の保守のためではなく その電波を会社のため省の存続のためという心つもりで発信するときである。
会社がつぶれたら 元も子もないというところから――いかに人間であることを守り人格をとうとぶ人であっても―― その電波の命ずる仕事を引き受けなければならないと考える。そういうゴンドラの歌もある。
一般に 資本主義とそれに従う共同自治の問題である。
かくて 観念の運河を クウキなるゴンドラは今日もゆく。
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さらに現代の哲学を つのります。修正と展開をどうぞ。
お礼
かでぃあわーくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。(かでぃあ って何だろう) そうですね。 みっつ 反応があります。 ひとつは いちばん大事なことです。あなたは 土俵に上がらないのですか? という問いです。 言いかえると たとえばこの趣旨説明の中から ガミガミ電波とアース役といった主題だとか その《 A - S 連関》のあいだにも流れる日本教なる見えざるクウキといった主題であるとか ほかにもありましょうから その一つを取り上げて わたしはこれこれの切り口でこのように分析し捉えているのだというその具体的な見解のことです。それを発表するかどうかです。 そうでないと 対等で自由な自己表現に成りづらいでしょう。 ひとつに いろんな表現形式をこころみて 質問をかたちづくればいいと思われることです。それにちなんで 回答者のことにしても 社会全般を相手にしているからには いろんな人がいますし いていいわけです。それぞれに対応して対話ができれば それにこしたことはありません。そういう情報交換が 哲学カテのあり方だと考えます。一歩一歩でよいでしょう。 もうひとつは この質問は すでに挙げたものの再掲です。前身の質問では かなり広く検討を加え得たかとも思いますが 回答者は ひとりだけでした。これを広げたいと思ったことが ひとつの理由です。 再掲のもうひとつの理由は どうしても《クウキ》論について 幅広く見解を得たいというそのように絞った一点のゆえです。 これは 哲学というとき どうもこのカテのやり取りを見ていると ほとんどが観念の中にあると感じられます。そうでない元気な場合は その論理がまだ発展途上です。この《観念論》を問うてみたいという意図があって それにはその前にこの《クウキ論》を挙げて問うておくのがよい。こう考えた結果です。 極端に言えば この質問は この三つ目の目的のためには そういう質問があったというそれこそクウキを醸し出せればよいというそれだけのために挙げたものです。そういう腹もあります。(だからと言って 哲学であることから離れているとは思っていません。あなたは 言い過ぎでしょう)。 さいごに助言をおこないます。 あなたは ゴンドラから自由な姿勢を見せていますが それは 通りません。通行手形は 有力にはたらいています。見えざる交通法規であり もし手形が無ければ 何らかの反動をうけるはずです。その問題についての議論が世界観にないのなら 哲学とは言えません。隠遁者だろうが投資生活者だろうが 哲学であろうとするなら 何らかのゴンドラの歌に接しているはずですから そのことに留意した見方を提出しないことには 話は始まりません。 でもがんばらないでください。すでに敗北したあとであるかも知れず さらに敗残者になることを押しつけるつもりはないからです。 ★ もっともっとピュアに ☆ おそらく――前回も指摘しましたが―― この視点が すべてのわざわいとなっているのではないか? もしあなたが《ピュア》であるなら ピュアでないところがいやと言うほど見えるはずです。これを 人びとが自由であるために いじくろうとするのでなければ 哲学以前です。