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利根川東遷事業、初期の頃の大名配置について
家康が利根川の流れを今の銚子市に持ってこようとしたとき、その予定進路はすべて徳川の領地だったのでしょうか? 現在の利根川以北も徳川の領地だったのでしょうか? それとも佐竹やその他の大名と、利根川を境に分かれていたのでしょうか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、回答から先に述べますと「家康の領地」でした。 「関八州」という言葉をご存じでしょうか? 相模(さがみ)・・・神奈川県。 武蔵(むさし)・・・埼玉県。 安房(あわ)・・・・千葉県。 上総(かずさ)・・・千葉県。 下総(しもうさ)・・千葉県。 常陸(ひたち)・・・茨城県。 上野(こうずけ)・・群馬県。 下野(しもつけ)・・栃木県。 ですが、 秀吉が家康に関東への転封を命じた頃は、小田原の北条氏が滅ぼされた後でしたので、 この頃の関東と言われた地域は、 上野、下野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総 の7ケ国を指しました。 従って、当然、利根川以北も徳川家の所領でした。 家康は、武蔵国の最南端である場所(後の江戸)を拠点としましたが、これには、海路を確保する必要性から、あえて、武蔵国の南に居城を構えることとしたのです。 そして、 上野には井伊直政 下野には榊原康政 下総には本田忠勝 などの実力者を北からの江戸の守りとして配置したのです。 南(西)に実力者を配置すると、秀吉への挑戦と受け取られてしまいますので、とりあえずは北からの守りだけを固めたのです。
お礼
大変詳しく説明していただきありがとうございました。