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江戸開発事業の天下普請の費用。

徳川家康は慶長9年、諸大名にいわゆる“天下普請”を命じています。 費用は全て、参加させられた大名の負担とされているようですが、徳川家はビタ一文、カネを出さなかったのですか。 天下普請を命じたということは、すなわち“タダ働き”せよという意味ですか。 よろしくお願いします。

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  • dayone
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回答No.2

>徳川家はビタ一文、カネを出さなかったのですか。 『東京市史稿.皇城篇』では、 「助役諸侯ニ金ヲ給シテ石材ヲ運送セシメ」「金子千百九拾貳枚五兩」(←原文のまま。 /東京大学史料編纂所の近世編年データベースの『東京市史稿.皇城篇』でも同一内容)、 『東照宮御實紀卷九』では、「金百九十二枚」、 あるいは『「お江戸」の素朴な大疑問/中江克己/PHP文庫』では 「一万千九百二十五両」などと、金額自体は不明確で特定出来かねますが、 どうやら少なくとも船での大石・石材等の運送に関わる費用については 大名への給付があった様子も伺えますので、 「ビタ一文、カネを出さなかった」とまでは言えないようです。 〇『東京市史稿.皇城篇 第1/東京市編/東京市』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764117/225 <225/743>(358頁) ・江戸城增築事蹟/江戸城增築 江戸城ハ、德川氏入國後、文祿中○紀元二二五二年─二二五五年。一タビ之ヲ修築セシモ、 當時ノ修築ハ、單ニ八州太守ノ居城タルニ堪ユルヲ目的トシ、 加フルニ其功未ダ全ク竣ルニ至ラズシテ中止ス。 慶長十一年○紀元二五<←※二>六六年。十二年○紀元二五<←※二>六七年。ノ營築ニ至リテハ、 江戸ガ天下ノ覇都ト爲リタル後、第一ノ營築ニシテ、慶長九年○紀元二二六四年。 六月朔日ヲ以テ命ヲ傳ヘ、八月○慶長九年(紀元二二六四年ヨリ 助役諸侯ニ金ヲ給シテ石材ヲ運送セシメ、又諸国ニ課シテ木材ヲ出サシム。 ・慶長九年六月發令/ 六月朔日○慶長九年(紀元二二六四年)。ヨリ武州江戸普請。 ─當代記○創業記考異同。 ・諸大名ノ助役/ 一、慶長十一年○紀元二二六六年。御城○江戸城。御普請御手傳被(=)仰付(-)、 同年○慶長十一年(紀元二二六六年)。三月朔日より御普請初、依(L)之高拾萬石に付、 百人持之石千百貳拾玉之積を以差出し候様ニ被(=)仰渡(-)、 紀伊守○淺野幸長。より船數三百八拾五艘差出申候。 右爲(=)入用(-)、從(=)公儀(-)金子千百九拾貳枚五兩、 慶長九年○紀元二二六四年八月拜領仕候。 右相掛石船差出候面々、 <225/743>(359頁) …(中略)… <226/743>(360頁) 右之通御座候此趣、松平(○淺野)安藝守方より書出し申候。 ─御手傳覺書○朝野舊聞裒稿所載。 ○『国史大系. 第9巻/経済雑誌社編/経済雑誌社』 「東照宮御實紀卷九 慶長九年八月─同閏八月」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991116/66 <66/451>(119頁上段21<最終>行目~下段3行目) …又江戸築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制として さゝぐべきよし命せられ。其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の數は三百八十五艘とぞ聞えし。 これによて大石運送する輩は。… 〇『「お江戸」の素朴な大疑問:住宅事情からゴミ問題・犯罪・盛り場のことまで/ 中江克己/PHP文庫』 「二 江戸城は家康の代に完成したのか/石材はどのようにして運んだのか」 http://books.google.co.jp/books?id=8LD250MmmHIC&pg=PT21&dq=%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%99%AE%E8%AB%8B&hl=ja&sa=X&ei=jqVZVLjXIJWD8gXDpID4DA&ved=0CCAQ6AEwATgK#v=onepage&q=%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%99%AE%E8%AB%8B&f=false ◆石材はどのようにして運んだのか …石材やそれを運ぶ石船の調達を命じられたのは西国の諸大名だが、 幕府はそれにたいして合計「一万千九百二十五両」の補助金を出している。 一両十万円として、十一億九千二百五十万円という巨額だが、 それだけでは足りるはずもなく、諸大名は商人から借金を余儀なくされた。… 以上 僅かな情報に過ぎませんが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

いつも親切な回答を頂き真にありがとうございます。 乱世を生き抜き大名を扱う術を熟知した家康が、大名を“ただ働き”させたりはしないと思っていました。 生野銀山も石見銀山も手中にした徳川家だけが貨幣を発行できたのですから、天下の「現金」の大半は、家康が握っていたはずです。 大名には、ヒトを出せ、しかし“現ナマ”は補助してやろうという心配りがあって当然と思っていました。 なにしろ天下人ですからね。 やはり、カネを出していたのですね。 金額はマチマチでちょっと整理できませんが、『東京市史稿.皇城篇』によれば、 「金子千百九拾貳枚五兩」とあり、これは、私ではよく分かりませんが「一万千九百二十五両」のようです。 『東京市史稿.皇城篇 第1/東京市編/東京市』には、島津忠恒が「黄金百五拾枚受領」(島津国史慈眼公譜)とあります。 これをヒントに検索しますと、南日本新聞記事 09.7.20付 にありました。 http://373news.com/_bunka/jikokushi/115.php  また、毛利秀就は「自国の石船を以って石材を輸送す」とあります。 いろんなことが分かるので面白いです。 驚くような記述もあります。 “百人もちの大石”を1個、銀20枚で売買しています。(228コマ) これが何を意味するのか、分かりません。 お陰さまで疑問は解消しました。 ご教示のURLはいつも楽しみにしています。感謝申し上げます。

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回答No.1

 金は良い再出しません。お前は54万石だからこれしろ。あんたは30万石だからこれだけって話です。文句があったらいつでも戦していいよって話だと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 西国大名のお陰で関ヶ原は勝てたというのになんという仕打ち。

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