- ベストアンサー
石田三成の評価は如何に?
- 豪華絢爛たる戦国乱世の人材の内、長らく低い評価に甘んじていた代表的人物となれば、何と言っても石田三成ではないでしょうか。
- 石田三成は加藤清正とは対照的に散々な評価を下されてきましたが、最近の風向きは少し変わってきたようです。
- 石田三成は関ヶ原の戦いで豊臣家の滅亡を早めただけとの意見もありますが、彼は秀吉への餞を手向けた唯一の子飼いであり、関ヶ原は徳川政権成立の重要なイベントだったと言えます。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
実は「最も武人らしい武人」 だったのでは? 三成は官僚というイメージがあり戦下手だが頭はキレる しかし他人に媚びへつらうところが無かった(冗談の通じる性格ではなかった)ので嫌われていた部分もありました しかし 主に忠実でまっすぐに一本の道を進む その姿に名だたる名将が関ヶ原で三成のために命を捨てようとまでしたほどです もしも戦場の総大将が三成ではなく毛利輝元だったら 大谷 宇喜多 小西 真田 佐竹 上杉と言う名将は豊臣に味方しなかったでしょう 「三成だったから」10万もの軍勢を集められたのだと思います
その他の回答 (9)
- rabbit_cat
- ベストアンサー率40% (829/2062)
まあ、いろいろな考えはあると思いますが、少なくとも 「石田三成は豊臣政権下でたいして偉くもなかったのに、あれだけの兵を集めたのはすごい」 という評価は、ある面では三成を過小評価しすぎですし、別の面では過大評価しすぎです。 秀長死去後は、石田三成こそが、豊臣政権の表向きの政治を実質的にとりしきっていた実権者です。 たとえば、太閤検地、刀狩(諸侯が持つ兵力の強制的な固定)、あるいは諸侯間の外交、なんかは全て、三成の決済が必要でしたし、さらには、三成は、上杉・佐竹・島津などの有力大名の取次(秀吉の意向伝達役)も勤めています。 見方によっては、秀吉の晩年は、三成こそが豊臣政権の実質的な決裁者だったと言ってよいと思います。 すでに書いたように、徳川、前田、毛利、、といった、有力大名は、豊臣政権の政策決定にはほぼ全く関与していません。(関与できなかった) 少なくとも、秀吉存命時は、諸侯から見たら家康より三成のほうが、ずっと権力の中心に近い位置にいるように見えたはずですし、だからこそ強い恨みをかった、ともいえます。 三成に限らず、独裁者の個人的な信任のみを支持基盤として急進的な改革を進めようとした優秀な官僚が、改革の半ば(改革によって力を奪われる人々がまだ完全に無力化されていない段階)で、独裁者が亡くなって支持基盤を失って改革半ばで悲運の最期を迎える、みたいな話は歴史上たくさんあります。
お礼
再度の御回答、ありがとうございます。 仰る事の殆んど全ては、私の認識と合致するものです。 ただねぇ、どうなんでしょう。 古来より外様の大物が、時の政権運営に関与する例は、殆んど無いといっても差し支えないと思われますし、視点を拡げて、外国に類例を求めてもほぼ同様です。 議員内閣制の昨今ですら、例えば現安倍政権は、殆んどの重要案件を内閣・即ち彼の側近で推し進め、党への相談がないと苦情を申し立てられている現実がある。 まあ独裁者・権力者の個人的な信任をバック・ボーンに、辣腕を振るう人物は須らく「虎の威を借りる狐と」形容されますが、その実権力者には決して向けられない、憤懣の捌け口となっている場合も少なくないでしょう。 三成のケースがまさにこれでして、秀吉の・ひいては豊臣政権への憤懣を一人で被っていたとの印象も否めず、その点に於いて更に秀吉の信任が増した事が、身の破滅へと誘った経緯も、見逃せませんねぇ。 それともう一点、三成が豊臣政権の実質的な決裁者であったという御指摘には、若干異論が有ります。 些細な案件に関して言えば、或いはそうであったのかも知れないし、そうでなかったのかも知れない。 但し例えば朝鮮の役といった重要なテーマに関しては、ほぼ口出しを許されておりません。 その証左として、朝鮮討ち入り否定論者であった彼は、秀吉からの下問があれば絶対反対の論陣を張ろうと待ち構えておりましたが、最後まで本件に関する下問は無かった由。 但し朝鮮出兵そして撤兵、その尻のみは盛大に拭かされた訳でして、その事が従来の経緯に加えて武断派諸将の恨みをかい、関ヶ原へと繋がる訳ですが・・。
NO.8です。 タスク志向と人間関係志向は経営学のSL理論からとってます。 それからいうと、タスク志向が高くて人間関係志向が低いのは、部下の成熟度が低い、教示型リーダーシップなのかもしれません。 そうそうたる大名でそういうあつかいしたらプライドが許さないでしょうね。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >タスク志向と人間関係志向は経営学のSL理論からとってます。 その昔少々齧りましたので、充分以上に存じ上げております。 まあ釈迦に説法でしょうが、指示的行動と共労的行動を4分割で指し示すSL理論が、果たして現代社会に適合するものなのか、或いはその斬新さに於いて如何なものでしょう、私個人は大いに懐疑的でありますが・・。 何しろ30数年前、当時10代であった私が大学で習った理論です、久し振りに聞いて懐かしいといえばそうですが。
特に最近はNHKドラマ「天地人」で忠義で描かれてましたっけ。 歴女にも人気があるとかあったとか。 私はタスク志向と人間関係志向でいえば、タスク志向の人に思えます。 頭でっかちで、タスクをこなすのは他の回答者さんと同じく官僚的で、どちらか言えば大きな流れが見えない人というイメージがあります。 関ヶ原の布陣は西洋の戦術家、メッケルは布陣では西軍の勝利といってます。 武田勝頼も同じイメージです。城を築いて、鉄砲など購入してたと思います。 2人とも離反していきます。 特に前者は現代社会でなぜかうけがいいですね。 現代社会を表しているようです。固執癖で世の流れが見ず、あたまでっかち。官僚的にタスクをこなす。 最終的には負けていく。 その点、尼子晴久には注目してほしいです。戦争に強い新宮党を悪く増長した背景で処分して、家を維持してますから。
お礼
回答ありがとうございます。 >私はタスク志向と人間関係志向でいえば、タスク志向の人に思えます。 個人的にはタスク志向と人間関係重視を、必ずしも対極にあるものとは、見做しませんが、三成がどちらのタイプであったかと問われれば、恐らく前者と答えざるを得ないでしょう。 >関ヶ原の布陣は西洋の戦術家、メッケルは布陣では西軍の勝利といってます。 >武田勝頼も同じイメージです。城を築いて、鉄砲など購入してたと思います。 >2人とも離反していきます。 この辺りの因果関係が理解不能、すみません、頭が悪いものですから・・。 >現代社会を表しているようです。固執癖で世の流れが見ず、あたまでっかち。官僚的にタスクをこなす。 >最終的には負けていく。 最終的に負けたのはその通りですが、石田三成とは、世の中の流れが見え過ぎるほどに見えていた人物でしょう、恐らく徳川家康と双璧かと思われますが。
こんにちは。 三成の質問をしておられた? 私は石田三成、評価しております・・・ isokenさんの質問ですから回答させていただきますが、 若い方は人間と言うもの・・・これを理解できない! 文治派、武断派あるでしょう・・・。 私は三成、とても辛かったろう・・・そう思っています・ レクエイムと仰る、そうかも知れませんね。 佐吉の頃からの秀吉に恩義を感じて兵を挙げる!!! 天晴れ、見事です!!!! 今日は少しイラッとしたことがありまして、 過激な表現もありました・・・申し訳ないことです。
お礼
こんにちは、旗色の悪い私目へ援護射撃を賜り、誠にありがとうございます。 >私は三成、とても辛かったろう・・・そう思っています・ 思うに、三成と清正・正則が水と油と言えども、豊臣家へのウェットな思いと忠義心にはさほど隔たりがない。 ただ先が読めるか読めないかのちょっとした相違が、関ヶ原に於ける立場を決定付けてしまったようです。 三成はもう明確に、家康を倒さねば豊臣そして自分の明日はない、そう考えた訳ですが、その判断が誤りではなかった事は、後の歴史がいみじくも証明しております。 我が国に於いては、比較的マイルドなソフト・ランディングに終始している政権交代劇も、豊臣家の場合、後世の涙を誘うほどに、それは憐れな末路を辿らざるを得なかったが、その主家の将来をそして自家の改易すら、加藤・福島の二将は予見出来ませんでした。 三成は清正・正則に向かって、こう叫びたかったと思います。 「俺の敵はお前達ではない、お前達の真の敵は俺ではない」、恐らくですが・・。 一方の徳川家康、彼にも世間簒奪に向かわねばならないもっともな理由があった、私としてはそう理解しております。 そもそも徳川家が五十万石・百万石程度の大名家であれば、時の政権との共存という第3の道も可能であったのでしょうが、秀吉の全盛期でさえ豊臣家の直轄領を大きく上回る二百数十万石の大大名、自然秀吉の死後相対的に浮かび上がらずを得ず、こちらがやらねばやられてしまう、それはもう戦国乱世の世の倣いとして。 まあ世の中は面白いものでして、家康を筆頭大老の地位に縛りつけ、天下簒奪の契機を与えなければ、家康としても為す術が無く豊臣の天下は安泰であった、依って豊臣家の滅亡は、須らく関ヶ原という絶好の口実を与えた三成の責任、こういった論調の方がおられます。 こういう方は、口実も何も無ければ、家康が死ぬまで寝ていたとでも思うのでしょうか? 私には不思議でなりませんが・・。 >佐吉の頃からの秀吉に恩義を感じて兵を挙げる!!! >天晴れ、見事です!!!! 如何に後世に於ける評判が芳しいものではなくとも、数ある秀吉子飼いの中で唯一能動的に大徳川に立ち向かい、その心胆を寒からしめたという事実に変わりはない、男です。
- rabbit_cat
- ベストアンサー率40% (829/2062)
人の評価は、評価する人の立場によって変わるでしょうが、 少なくとも、加藤清正、福島正則ら、からしたら 三成が >正義・忠義といった倫理面のみを世を計る物差しとして捉え過ぎた なんていう評価は、心外の極みでしょう。 彼らからすれば、三成こそが、豊臣家の恩顧を完全に忘れて豊臣家を蔑ろにし、自分の利益のみのために独断専横を働いている君側の奸なわけです。 「三成が正義・忠義?、はぁ?何言ってるの?」て話ですよね。 実際問題として、豊臣政権では、実際に実権を持って政務を行っていたのは三成ら奉行たちです。 いわゆる五大老という制度は、秀吉が死ぬ間際になって、「今、ワシが死んでしまったら、有力な大名たちの支持が全くない豊臣政権(=三成の政策)は、瞬時に瓦解してしまうのではないか」と危惧して、それまで完全に政策決定から疎外してきた有力大名たち(ちょうど江戸幕府における外様大名のような立場に置かれていた)を、なんとか政権内部に取り込んで不満をそらそうと、急遽こしらえた制度です。 関が原は、秀吉の不安が、まさに現実のものになっただけ、と言えます。 端的に言えば、関が原の戦いというのは、秀吉という独裁者の個人の信任のもとで、中央集権化の政策を無理やりにすすめていた三成が、秀吉の死によって支持者を失い、それまで三成に虐げられていた(と感じていた)武将たちの三成にたいする不満が爆発したものです。 家康は、彼らの不満を上手いこと利用した老獪な政治家た言えるでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >端的に言えば、関が原の戦いというのは、秀吉という独裁者の個人の信任のもとで、中央集権化の政策を無理やりにすすめていた三成が、秀吉の死によって支持者を失い、それまで三成に虐げられていた(と感じていた)武将たちの三成にたいする不満が爆発したものです。 これはもう明確に違います。 天下分け目の戦を、三成に対する武断派の私怨と片付け、矮小化されたならば関ヶ原が気の毒というもの、依って敢えて断定しますが、秀吉の死後なし崩しに向かっていた徳川政権という流れ、その政権下に於いて主家豊臣も三成自身も生き残る事が恐らく不可能であったでしょう、それが三成をして諸大名を糾合せしめ、一か八かの大博打に打って出ざるを得なかった背景。 次いで家康に触れますが、彼にも頭を悩ます事情がありました。 つまり、嫡男秀忠がまあ凡庸な方でしたから、家康の代で天下取りと豊臣家を闇に葬り去る、その双方を仕上げる必要性があり、或る意味自身の寿命との戦いでもあった訳で、余りに迂遠な方法論では仕上げが難しい、依って可能な限り勝算の高い・戦という方法論で、先ずは天下の権を奪いに行った訳です。 即ちその双方の事情と思惑が合致したのが「関ヶ原の戦い」、そういう構図でしょう。 御指摘の通り、東軍の中には単なる私怨のみで参戦した武将もいなくはないが、それはごく少数、殆んどの大名家は東西両軍の激突を天下争奪戦と位置付け、どちらに付くか悩みに悩み抜いた当主も少なくありません。 加えて申せば、十把一絡げの如く語られる武断派の面々も、その思惑には大きな隔たりがあります。 例えば池田輝政は家康の女婿であった為言うには及ばないが、家康の天下取りに積極的に関与する事で、次代に於ける生き残りを図ったのが黒田長政、そして細川忠興もほぼ同じ構図であったでしょう。 但し忠興は、その妻女ガラシャの一件(飽く迄も風聞ですが)で、最早豊臣政権の延命を望まなかった可能性が高く、加えて細川家には、次代の権力者を言い当てる事にかけて、神の如き能力を発揮した幽斎といという出来物の隠居がおりましたから、「一朝ある場合には徳川に味方せよ」との助言があったものと思われます。 即ち純粋に三成憎しの感情で、徳川方についたのは恐らく加藤清正・福島正則の二武将のみ。 その両家とも早晩改易の憂き目に遭った事、まさに歴史の皮肉としか申せませんが・・。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
#2です。むしろ私は石田三成は不当に高評価されていると思いますよ・笑。実際に、質問者さんみたいなファンがいるんですからね。 私からすると、まんまと家康の手の上で踊らされた福島正則が不当に低評価されていると思います。 福島正則に関して、世間にほとんど知られていないこんなエピソードがあるんです。 広島藩の改易が決まったとき、正則本人は江戸にいたんですね。で、広島城に改易を知らせる幕府の使者が来ました。使者は高圧的に直ちに城を明け渡せと留守居の家老にいうのですが、家老は「主君から命令がきていないから応じられない」と突っぱねます。お前、ふざけんな幕府の命令だぞという使者に対し、「俺らの主君は正則だ、幕府は関係ねえ。城が欲しいっていうんだったら力づくで取ってみろや。こちとら歴戦の福島家、城を枕に全員討死してやるわ」と言い返します。この頃になると幕府の官僚なんてのは戦場を知りませんし、相手の家老は歴戦の勇者。迫力の格が違います。使者はもうすごすごと引き下がるしかありません。 その後、江戸から正則の命令が届き、城は明け渡すことになります。すると家中では、財産や物件の目録を詳細に作り、引き渡しの家屋はすべて掃除を整え、さらに箪笥やら何やらにはそれが何か紙を貼り付けて分かるようにして、引き渡しの使者が来ると上級家臣は全員裃で正装し、足軽は武装して(それが軍隊としての正装です)家臣みな一糸乱れず堂々と振る舞ったそうです。これが評判を呼び、元福島家の家臣たちは「俸禄を二倍三倍にして再就職した」とも「一人残らず全員再就職した」ともいわれています。 当然、件の家老には各家からオファーが殺到したのですが、本人は「ありがたいけど、もう主君は変えるつもりはないし年寄りだから引退します」と丁重に断ったそうです。 働いている人なら分かると思いますが、「会社がなくなる」なんてときに混乱せず社内資産の目録をきちんと作るなんて、余程すごい上司がいないと難しいと思うんですよ。で、こういう家臣を持っていたってことは、主君もバカじゃそんな優秀な家臣はすぐ辞めちゃうと思うのです。 島左近が三成に高給で優遇されていたのは有名ですが、本人もそれを受け取ったわけで、ということは島左近本人が「その評価は正当」と思っていたってことです。 現代の会社でも、給料で部下を引き留める会社って、あんまいい会社ってないですよね・笑。賢明なる質問者さんであれば、私がなにを言わんとしているかはご理解頂けると思います・笑。 あと東条英機に関しては、(陸軍)省益代表でもなかったと思いますよ。なにせ海軍が「東条さんが首相なら、まあいいでしょ」と受け入れたわけですからね。これが陸軍の右代表みたいな人物だったら海軍が死んでも首を縦に振らなかったと思うのです。いろんな意味で「常識人」だったと思います。なにせ統制派ですからね。「天皇の親政にすれば世の中良くなるのだ」と主張する皇道派を「バカな奴らだ」と思っていたと思います。 首相在任中に民間船や物資のさらなる提供を陸軍からも海軍からも求められても「それじゃ国家が持たない」といって断るバランス感覚の持ち主ではありました。野党のときは好き勝手なことをいって、与党になると突然口も腰も重くなるのは今も昔も変わらないですね・笑。 三成公も、「いやあ、三成さんは忠義心に篤いですねえ」なんてお世辞のつもりでいったら、「俺が忠義心だけで行動したと思うのか、このバカ」とかいわれたりして・笑。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 いや~、回答者様の御意見に対し、長文のお礼をしたためたのですが、何故か消えてしまって最早気力が無い、誠に申し訳ないが、ごくごく簡単に以下申し上げます。 >福島正則に関して、世間にほとんど知られていないこんなエピソードがあるんです。 随分と昔から、その顛末・あらましは存じ上げておりました。 >私からすると、まんまと家康の手の上で踊らされた福島正則が不当に低評価されていると思います。 今ですら福島正則への評価は過分なもの、正直そう思っております。 何故なら、彼は東軍勝利という賽の目を当てた勝者、且つ戦場に於ける最大の功労者でありながら、その実彼の感傷の源泉であった豊臣家が潰された事のみならず、自家すら改易の憂き目に遭った訳で、そもそも正則ほど先の読めないお方も珍しい。 以下咀嚼して申し上げれば、豊臣家の滅亡と福島家の改易のそもそもの遠因は、或る意味家康を大将に仰いだ関ヶ原に於ける東軍の勝利にある訳で、必然とも思える悲惨な将来に向かって必死で奮戦した彼をして、評価せよというのが土台無理な話でしょう。 無論家来を可愛がり・慕われるのは大名家の当主として当然の事であり、彼のみが賞賛される事とも思えません。 例えば件の家老の出処進退に関して申し上げれば、そのエピソードから遡る事20年程前、関が原に於いて敗軍の将となった増田長盛より、大和郡山城代を仰せつかった「槍の勘兵衛」こと渡辺勘兵衛が、殆んど類似の行動に出ている、つまり当時の倫理観からすると、別段目新しいものでも何でもないという証左。 >三成公も、「いやあ、三成さんは忠義心に篤いですねえ」なんてお世辞のつもりでいったら、「俺が忠義心だけで行動したと思うのか、このバカ」とかいわれたりして・笑。 恐らくこれだけは言えるでしょう、仮に石田幕府なるものが誕生していたとしても、豊臣政権下に於ける織田の末裔の如く、武家貴族としてその命脈を保つ可能性が高かった。 少なくとも、遥か後世に生きる我々の涙を誘う、豊臣家の悲惨な末路は無かったと・・。
- rabbit_cat
- ベストアンサー率40% (829/2062)
>彼のみが故秀吉への餞・レクイエムを手向けた この評価は全く当たらないと思いますよ。これは、それこそ後付けの無理やりの美化としか言いようがないと思います。 後に家康が天下をとっために、関ヶ原は、家康vs三成(豊臣家)と見がちですが、実際には、武断派vs文治派の対立としか言いようがないです。 東軍の主力は、家康の権勢に及び腰であった武将ではなくて、三成の独断専横に心底反感を抱いていた武将、です。 少なくとも、関ヶ原のときに、豊臣家(秀頼、淀君など)が三成を(心情的にも)応援していた、という証拠は一切ありませんし、実際のところ、とくに淀君は心情的にはむしろ家康を応援していたのでは、と思われます。 関ヶ原は、
お礼
回答ありがとうございます。 >この評価は全く当たらないと思いますよ。これは、それこそ後付けの無理やりの美化としか言いようがないと思います。 この辺りの認識はそれこそ人それぞれ、ああそうですかと申し上げる他ないが・・。 >後に家康が天下をとっために、関ヶ原は、家康vs三成(豊臣家)と見がちですが、実際には、武断派vs文治派の対立としか言いようがないです。 >東軍の主力は、家康の権勢に及び腰であった武将ではなくて、三成の独断専横に心底反感を抱いていた武将、です。 大変失礼ながら、事の本質を全く理解しておられないようです。 関ヶ原を武断派vs文治派の対立と矮小化したのは、加藤清正・福島正則他三成嫌い故に徳川の旗の下に参集した僅かな大名のみ。 他の殆んどの大名はやはり天下分け目の戦いと認識して、どちらに勝算があるか或いはどちらに勝たせた方がより得か、更には自家の将来を賭けてどちらに付くか最後まで悩みに悩んだ大名も少なくない。 つまりそこあるのは戦国乱世らしい極めてドライな損得勘定のみでして、加担する側を人間の好悪で推し量る感情は殆んどみられないという事です。 >少なくとも、関ヶ原のときに、豊臣家(秀頼、淀君など)が三成を(心情的にも)応援していた、という証拠は一切ありませんし、実際のところ、とくに淀君は心情的にはむしろ家康を応援していたのでは、と思われます。 う~ん、豊かな想像力をお持ちのようで何よりですが、当時の豊臣家そして淀殿が指し下した客観的史実をお知りになれば、本解釈には至らないと思われますが・・。 貴方が言われる、淀君が心情的に家康を応援していたとの推測は、奇天烈な仮説を立てた過去幾多の歴史家・作家の想像力すら遥かに凌駕する世界、私の如き凡人の理解出来るところではありません、悪しからず。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
「極めて優秀な官僚」 これに尽きますね。官僚としては極めて優秀だったと思います。ただ、良くも悪くも官僚。与えられた仕事を忠実にこなすことはできても、クリエイティブな才能は皆無です。 エリート特有のプライドの高さとそれに伴う叩き上げに対する蔑視もありますので、そういう意味で「人の心」はつかめない。彼の味方だった人たちの三成への評価が「実はいいやつなんだぜ」ってのがいかにもじゃないですか。 全く同じタイプだと思うのが東条英機です。東条も典型的な官僚タイプで、天皇に対する忠誠心はものすごく篤かった人です。だから昭和天皇は東条が首相になることを認めたのです。 んで、ああいう人ってのは石原莞爾のように自由奔放で突拍子もない人とは水と油です。「規則、規則とうるさいやつだ」「お前らに勝手にやらせるとむちゃくちゃになる」となるのです。 良くいえば「曲がったことが嫌いで、筋道を通す正義漢」で、悪くいえば「現実が見えない理想主義者」でしょう。だから官僚としては優秀だけど、リーダーには向かない。
お礼
回答ありがとうございます。 >「極めて優秀な官僚」 後世に於ける客観的評価はその通りでしょう、私も肯定せざるを得ない。 >エリート特有のプライドの高さとそれに伴う叩き上げに対する蔑視もありますので、そういう意味で >「人の心」はつかめない。彼の味方だった人たちの三成への評価が「実はいいやつなんだぜ」ってのが>いかにもじゃないですか。 この方、敵と味方の峻別を明確にし過ぎたきらいがある、その点が彼の主であり師匠でもあった秀吉との明確な相違、或いは器の違いと言い換えても良いのでしょうが。 一方に於いて、一旦好意を持ったならば、それはもう痒いところまで手が届くが如くの世話をしておりますね、秀吉の軍門に下った島津家に対する世話の焼き方等は、その好例であろうかと・・。 まあ或る種の狭量であったのは確かでしょう、そもそも大器たる者は、敵を増やすは得策でない事をよく心得ておりますから。 >全く同じタイプだと思うのが東条英機です。 正義好き・規律好きといった面は、仰る通りでしょう。 或いは維新以降帝国陸軍の本流を為す一典型・系譜かも知れませんね、山形有朋・寺内正毅といった面々も、そういった特徴を持っておられたようですから・・。 >良くいえば「曲がったことが嫌いで、筋道を通す正義漢」で、悪くいえば「現実が見えない理想主義者」でしょう。だから官僚としては優秀だけど、リーダーには向かない。 ああそうかも知れない、私が持つ東条英機の印象は、国家の方向性を担う政治家というよりもむしろ陸軍の省益代表者、大所高所の見地に依った方ではなかったような気がします。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
石田三成の評価が低いのは、それが徳川に楯突いた 人物であること、敗者であること、が原因でしょう。 敗者であることは仕方の無いことですが、徳川に 楯突いたから、無能にされた、という政治的側面は あると思います。 明治維新での、情けない徳川幕府VS清冽な勤王の志士 という構図と同じです。 堺屋太一氏も指摘していましたが、石田三成は、 豊臣会社の部課長クラスに過ぎない。 それなのに、豊臣会社と匹敵するほどの大会社オーナー 社長の家康と互角に渡り合ったのだから、やはり大した人物 であったのだろう、と思います。 その三成の足を引っ張ったのが、秀頼と淀の方。 関ヶ原で、秀頼が出陣していれば、勝敗も変わって いたかもしれません。 70過ぎた家康が最前線に出陣したのとは、大きな違い です。
お礼
回答ありがとうございます。 >石田三成の評価が低いのは、それが徳川に楯突いた >人物であること、敗者であること、が原因でしょう。 まさに仰る通りでしょう。 さはさりながら、明治維新という政治的バイアスの影響で、例えば恐らくタブーであったろう豊臣家に関する史実・豊国神社、更には江戸期を通じて不当に低く評価されていた人物の決して少なくない部分が復権を遂げましたが、この石田三成の評価のみは近年に至るまで留め置かれた印象が強く、私にはその点が不思議でならない。 仮にも維新政府の敵、徳川に仇なした人物ですから。 >堺屋太一氏も指摘していましたが、石田三成は、豊臣会社の部課長クラスに過ぎない。 >それなのに、豊臣会社と匹敵するほどの大会社オーナー社長の家康と互角に渡り合ったのだから、やは>り大した人物であったのだろう、と思います。 堺屋太一氏のその著書は、私も読んだ記憶が有ります。 確か「歴史の視点から学ぶ、現代ビジネスの・・」といった感じのタイトルであったかと・・。 三成に対する肯定的評価はともかく、明確に政権の乗っ取りを意図したが、上杉他若干の例外を除く大大名が揃って及び腰であったが為、乱を欲していた家康が部課長程度の三成を相手に見立て、その挙兵・募兵を或る意味黙認した点は、見逃せない事実であろうかと思われます。 それにしましても、高々佐和山19万石程度の小大名が描いた絵が、その実誠に壮大なものでした、この点は賞賛されて然るべきかと・・。 何しろ乱を欲した当の家康が驚くほどの大名・軍勢を集め、関ヶ原直前に於いて、その切り崩しに躍起になるほどでしたから。 >その三成の足を引っ張ったのが、秀頼と淀の方。 この点は、当の御本人方よりむしろ秀吉の怠慢、その殆んど全ては彼の責任に帰せられると考えます。 そもそも秀吉は秀頼を武家の棟梁としてよりも公家として育てようとしたが為、秀頼の乳離れと淀の方の子離れの双方が進まず、その結果として豊臣家内政全般に於ける淀の方の容喙を招いてしまった。 御存知の通り当時の大名家では、早い時期から嫡男とその生母を引き離して育てるのが通例、恐らくは男子としての逞しさを叩き込み、且つ外戚の影響力を極力排除使用とする意図があったのでしょうが・・。 >関ヶ原で、秀頼が出陣していれば、勝敗も変わっていたかもしれません。 関ヶ原の戦いに於ける秀頼は、僅か7歳の童に過ぎませんからどうでしょう。 但し大坂の冬・夏両陣は全く事情が異なる訳で、豊臣恩顧の諸大名の眼前に、千成瓢箪の旗印と共に若き秀頼の勇姿が登場しておればどうでしょう、或いは親豊臣大名の代表格であった毛利・上杉はどうだったか、歴史の if に対する興味は尽きませんね。 >70過ぎた家康が最前線に出陣したのとは、大きな違いです。 家康が天下取りに賭けた熱意には鬼気迫るものがありました、恐らく自分の代で仕上げねば秀忠では荷が重い、そして先にやらねばいつかはこちらがやられてしまうとの切迫感と危機感もあったのでしょう。 それにしましても当時の家康は最古の戦歴を誇る現役武将、徳川に天下が転がり込んだのも、むべなるかなといったところでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 >実は「最も武人らしい武人」だったのでは? 三成に対する評価はともかくとして、彼が武人としての名声に激しく憧れた事、或いはコンプレックスを感じていたのは恐らく確かでしょう。 さもなくば、秀吉から賜った新知4万石の半分に当たる2万石を割いて、当時諸大名垂涎の的であった高名な侍大将・島左近を、三顧の礼を以って召抱えたりはしなかったはず。 >主に忠実でまっすぐに一本の道を進む >その姿に名だたる名将が関ヶ原で三成のために命を捨てようとまでしたほどです >もしも戦場の総大将が三成ではなく毛利輝元だったら >大谷 宇喜多 小西 真田 佐竹 上杉と言う名将は豊臣に味方しなかったでしょう >「三成だったから」10万もの軍勢を集められたのだと思います この辺りの評価に関しては、有象無象の大名群よりも、むしろ敵将であった家康の方が認めておりますね。 家康は、その結果として彼に天下を取らしめた豊臣恩顧の大名家を、生涯信用しなかった節が伺えます。 それどころか或る種の遺言・家訓として残しておりますね、「彼らは恩ある豊臣家を裏切った、徳川の勢威が衰えれば必ずや裏切るに相違ない、決して信用・重用する事なかれ」といった趣旨ですが・・。 まさにその二百数十年後、彼の遺した神の如き予言が的中しました、しかも外様としては異例の厚遇を受けた藤堂家が、敗走する徳川軍に対し、まさか大砲を撃ち掛けようとは・・。