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江戸時代の飲み水
※ 家康入府以降、人口の増加に伴う「水不足」を解消するため 玉川兄弟 他の尽力により江戸市中への水の供給体制が整った のは有名な話。 但し、考えてみると石樋/木樋等々により大名屋敷や町々に 給水したとはいえ、とどの詰まり「川や池の水」を浄水もせずに そのまま飲んでいた事に変わりはない。 今よりは汚染されてはいなかっただろうが、上流では 「立ち小便 肥桶洗い 動物の死骸」等々があったであろうに -と考えると、う~ん!? なんですが如何なもので御座ろう? この考え方は「おかしい」でしょうか?
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その通りです。 だから江戸時代では寿命が短かったんです。 もちろん医学的な発達もありますが。 ちなみに江戸時代の大名の家では井戸があったので川の水を直で飲んではいなかった と思います。 さらにちなみに、近代国家ができてからでも水道水は危険な物でした。 塩素が入れられるようになってから大幅に安全性が上がったのです。 水道水に殺菌剤として塩素を使用するようになる前と後では 決定的に平均寿命が違っています。 その確証データは手元にないので見せられないですが、 ネットで調べられるかもしれません。
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- tami-chan13
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水を確保できないところに住む人はなかなかいなかったと思います。 特に日本は山が多いので、水質には結構恵まれています。 しかし、江戸の町は湿地帯で塩水しか取れず、井戸を掘っても良い水を手に入れることは出来ませんでした。 そこで徳川家康は、江戸幕府を開く際に水を確保するための対策をはじめました。 地中に埋めたパイプで、池から城下に水を送る仕組みを編み出し、また生活廃水を捨てるためのドブをつくりました。 現在の上水道・下水道の原理とほぼ同じです。 〔1590年〕神田上水(井の頭池などを水源)を整備する。 〔1654年〕人口増加に伴い、玉川上水を整備する。 実は水道代も払わなくてはなりませんでした。(水道代=水銀:みずぎん) 武家は石高=給料に応じた分、その他の庶民は家の間口(建物または敷地の前面道路に接する側の幅)の広さに応じて支払いをしました。水銀節約のために、間口を狭くした“うなぎの寝床”のような家が江戸には多くありました。 水銀だけでなく、商家に対する税金も間口で決められました。 上水道→井戸→各家庭の水がめ…というルートを通って人々の生活に使われることになります。 そして使った水は、汚れていなければ花のみずやりに使われたり、ドブ(下水道)をつたって隅田川・神田川に流されました。 (水源は『池』、捨てるのは『川』と分けられているのがポイントです。) “川に流すなんて汚い”とは思いますが、この頃は洗剤が無かったので大した環境汚染にはなりません。 ドブには、ゴミが流れないように杭が打ってあったり、ドブ掃除のメンテナンスもされていました。 厠(かわや=トイレ)の汚物も、肥問屋に換金したり、百姓に野菜と交換してもらったりして、上手くリサイクルしていました。
お礼
※ う~ん!! 勉強になる (1) ず~っと以前、玉川上水の水取入れ口のある「羽村」まで見学に行ったことがあった。 多摩川の本流から左斜めに掘り割り、水の道が造られていた。 う~ん、ここから新宿までネ~!! それほど高低差もない平地をよくもま~!! と感嘆しきりだった。 (2) 一概に「昔の事はすべて今より劣っている」は禁物ですな。
お礼
※ 早速有難う (1) 推測ですが当時の病気で多かったものは (多分)各種伝染病 腹下し 眼病 性病 だと考えている。 (2) 最後のものは別として前の三つはやはり「不衛生な水」の摂取 ~使用が原因だと思われる。 (3) 平均寿命は摂取可能な栄養と深い関係がある、とは承知していたが 水との因果関係については思い至らなかった。 勉強になりました