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井伊家への反感

徳川譜代大名のなかで領地・格式ともに一番は 新参者である井伊家。 譜代中の譜代でもあり、代々家老格ともいえる 両酒井家や多数の一族をかかえる本多家からは かなりの反感をかったものと思います。 何故家康は井伊家を厚遇したのでしょうか?

みんなの回答

noname#25898
noname#25898
回答No.8

ご本を推薦できるほど、詳しいわけではない、#1です。 直政公の武勇を物語る逸話に「向こう傷しかない」と、いうものが、あります。 傷が元で、亡くなっているのですが、大きい傷だけで、十いくつを数え、全てが、真っ向から、立ち向かった時に、出来る傷であるというものです。 すごく蛇足ですが、招き猫の由来となったのは、2代直孝公(一説に直政公)と、言われています。 井伊家の直系は、ご健在で、地元では、慕われていますから、ご先祖のご威徳も偲ばれます。

参考URL:
http://www.geocities.jp/itaku307/manekiyurai.htm
tara1963
質問者

お礼

重ね重ねのご回答ありがとうございます。 招き猫の逸話わ大変おもしろかったです。 このような逸話があるということは、当時の庶民に井伊家は好かれていたようですね。

noname#25898
noname#25898
回答No.7

四天王の中では、確かに新参ですが、直政公の武勇、人柄をみとめたのだと思います。 比較的、新しく仕えても、働き次第で、重く用いるということを実践してみせれば、他の大名たちも倣うと、踏んだのではないでしょうか。 赤揃えという、赤で統一した、軍は、武田軍から、踏襲したものですが、目立つ故に、臆病なことは、できないという、強さの象徴でもあります。 「井伊の赤揃え」を許され、西に対して、最も、重要な地と思われる彦根をまかされたのも、直政公はじめ、井伊家に対する信用だと、思います。 むしろ、酒井家、本多家を疎んじていたと、感じますが、これは、ご神君のなさることで、不満の述べようもなかったと、思います。 現在、彦根駅前に銅像があるように、井伊のお殿様は、彦根の人々から、親しまれる人柄と、察せられます。

tara1963
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 井伊直政の武功を知らなすぎたようですね。 参考となる書籍等がありましたお教えねがいます。

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.6

瑣末なことですが。 長男 信康(切腹) 次男 秀康(豊臣家へ養子、後に結城家へ) 三男 秀忠(嫡男) 四男 忠吉  秀康は次男、秀忠は三男ですね。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.5

No2の補足です。 家康は譜代大名の力が強くなって幕府に対抗する事を恐れ、権力は与えるが所領(兵力の動員力)は少なくという原則を作りました。 外様大名は所領は大きくても幕政には一切参加させませんでした。 大名間の婚姻は許可制で監視を忘れませんでした。 直政が松平忠吉に接近したのは長男秀忠の次に位置する結城秀康は家康に反抗的だったので、疎まれておりその次にある忠吉が武勇にも長け有望だったからです。 家康は祖先に部下に暗殺された例が多く、臣下が強力になることには神経質だったようです。

tara1963
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 井伊直政の武功のみでなく、家康による家臣団の勢力バランスによって厚遇を受けたのでしょうか。

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.4

徳川家中最大勢力である酒井は、初期には石川と、後期には本多と激しく対立しています。(両方最終的には相手を失脚させています。)こうなると酒井を重用しすぎると、相手をつぶす、専横が始まる、そこまでいかなくても家中の発言権が強くなりすぎると使いづらいですし、逆に本多等を重用すると対立に油を注ぎかねません。これではどちらも使いにくいのが本音かもしれません。

tara1963
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 特定一族の専横を抑えバランスのとれた政権維持をめざしたということでしょうか。酒井両家の分家も合わせるとかなりの石高となり老中も多数輩出しておりますね。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.3

確かに井伊家は酒井、榊原、本多などの徳川譜代の諸家に比べると新参で係累などもすくなかったとおもわれます。 譜代の諸家では伝統ある係累も多くその系統は大集団を形成していたでしょうし家康といえどもそれらに対する処遇は重苦しいものであったと思います。 家康は個人の能力で抜擢使用する傾向があり、井伊直政、大久保長安などはこれにあたるのでは・・・  しかも井伊直政は武勇も絶倫で忠誠心が厚く、こき使うには好適だったのだと思います。 この為、武田の遺臣を集中的に直政に与え先鋒に任じたのだと思われます。  先鋒は名誉ある任務ですから譜代諸家から反感といかなくとも羨望をあびたのは頷けます。 家康は男色の傾向はなかったとみるのが常識のようで、男子の後継者の豊富な事を終生心がけた人です。 彦根におおきな領地と居城を与えたのはNo2のご回答にある理由で、十分な反幕府勢力に対抗出来る動員力を直政に与える為だったと思います。  純粋に軍事目的からきた配慮でした。 直政も後年になると係累の少ないことを心配し、勇猛の名のある家康の4男松平忠吉と縁組みするなどの配慮をしているようです。

tara1963
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 酒井・本多・榊原の逸話は「酒井の太鼓」・「家康に過ぎたるもの・・・」というのもあり、私の 勉強不足でもありますが、井伊家の武名がそれほどとは思いませんでした。酒井忠次・本多忠勝が 代替わりをしていたのが不幸だったのでしょうか?まさか酒井・本多が姻戚関係となり反徳川を形成するのを恐れた、ということはないでしょうね。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

井伊家への反感というのは聞いたことがありません。 1:親藩・譜代の配置は、戦陣の地理的配置 徳川家康における、戦陣の配置とは、仮想的である豊臣家(大坂)と、準仮想的である西南外様大名に対する戦陣をそのまま、配置したもの。その段階において徳川譜代大名中、先陣を務めたのが井伊家。ならば、井伊家に先陣を行うに十分な戦力をまかなえる領地を、大坂の近傍である近江に与えるのは理の当然。 2:男色問題 戦国武将において男色は通常のことであり、「死線をともにする男同士のもっとも深まった愛情」である。基本的に知勇兼備の武将でないと男色相手にならない。単なる性欲相手ではないからである。 他で有名どころとしては、武田信玄と高坂弾正が有名。 3:殉死問題(補足) 殉死は忠義が全うできない時代における、戦国遺風であり、男色の相手への忠義でもあった。 井伊直政が死亡した時点は1602年。この段階では、二君に仕えずというような風習はなく、待遇が不満であれば、浪人になるものも多かった。非常に功利主義的な武士道が普通であった。 殉死が多くなったのは、忠義の場が亡くなった家光時代から。 家康や秀忠には殉死がいなかった(記憶によれば)が、家光には殉死がでた。家光が殉死者を出すほどの人物だったというのではなく、殉死によって忠義を証明するような時代でったと言うこと。 他に殉死者が多かったのは、伊達政宗だが、死亡時は1636年と、大坂の陣より20年以上たち、戦国期の功利主義的武士道もなくなり、その後の「家」への奉公という時代でもなかった移行期であったためでもある。

tara1963
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 酒井家は東北・中国の抑えとなり、大老・老中を 輩出しており幕閣の重鎮となりましたが、本多家 はそれほど厚遇されてませんね。人物が傑出しなかったのでしょうか。

noname#113190
noname#113190
回答No.1

井伊直政は知略や武勇に優れていたことや、家康の息子の松平忠吉の舅という姻戚関係などもありますけど、美男子と言われていますから、家康と肉体関係がある、念友ということも厚遇された一因ではないかな。 もちろんこれ以外にも、父親の井伊直親が若き日の家康をかばったために今川義元に疎まれて殺された義理を感じたとか、いろいろありますけど、直政の生き方を見ますと、家康一筋で、家康のためなら死に物狂いで戦陣に立ち、家康のためだけに生きたと言うことも考えると、二人は只ならぬ関係と見たほうがよいでしょう。 直政はこういった生き方をしたので、家臣にも慕うものはおらず、死に対して当然出るであろう家中の殉死者も出ない葬儀だったようです。

tara1963
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 家康に男色の好みがあるとは・・・ 当時、男色は異色ではありませんが それが一因であったらちょっと露骨では ないでしょうか・

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