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作文の心情表現が大袈裟になってしまう
少年の主張の作文を書いています。 人の死を身近に感じてどう思ったか、どうしていきたいか、というのがテーマなのですが、どうしても心情表現が大袈裟になってしまいます。 大袈裟、というか小説っぽいというか。普段、趣味で小説を書いているせいだと思います。 遺体に触れた時の気持ちとか、お葬式中の気持ちなどを表現する時、身体中を刃物で刺されているような痛みが~とか。 心情表現だけでなく、人が焼かれた後の表現などが、生々しくなってしまいます。血肉や様々な機関でできていたその姿は、骨と灰だけになっていた、さっきまであった顔も手も脚もどこにもない、みたいな。実際は丁寧語ですが。 作文を書くと、どうしてもこういう風になってしまうのですが、作文としては変でしょうか?
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- sxt218ms
- ベストアンサー率5% (2/35)
変を過ぎれば、普通なのです。一文字幾らの原稿用紙生活に憧れは、時間が掛かかる宿命です。
- obrigadissimo
- ベストアンサー率23% (1613/7000)
テーマに沿って、切り込んで行くような スタンスの方が宜しいのではないでしょうか。 余計なことになりますが通常の 感覚では《機関》は《器官》かなぁ。 特殊な思い入れがあって前者を採用したのかも しれませんので何とも難しいのですが……まぁ それはともかく、 PCで書きますと編集や構成が容易だったりしますので、 安易に流れる傾向がありますな。この際、 原稿用紙に万年筆で書くスタイルも検討しませんか。 手書きであれば《器官》を《機関》と書くような ことは滅多にないでしょう。 All the Best.
- ゆのじ(@u-jk49)
- ベストアンサー率30% (1233/4073)
心情表現に誤りがあるだけなので、大袈裟ということにはならない。作文として問題があるし、小説としても、リアリティに欠けてしまう。 【身体中を刃物で刺されているような痛み】と言うからには、刺された経験が無くてはならない。刺されたことが無い人がそれを言ったら嘘になる。個性とか、特殊性をいうのは好いが、何とか、それを「普遍」にまで高めようという努力が物を書く者の務め。 また、火葬場で骨だけになるのは、誰でも知っていることで、こんなのは生々しくは無い。骨になるということは、生々しさが失せて、無味乾燥状態になるということ。 個性とか、特殊性とか、周囲とは違う妙な者というのは、小説の主人公としては必須条件であり、だからこそ、多くのノーベル賞作家の小説は精神病者が主人公なのである。が、それをどのように「普遍」にまで昇華するかが、物書きとして求められる。だから、最低限のリアリティりは必要。もっと、眼前の事象を正確に見つめる作業が大切。 【】内については、以下、こういうふうにすれば、余り嘘にはならないのかなと思いました。 【ずきっとした痛みが全身を襲った。こういう痛みは、あるいは、多数の暴漢に一気に襲撃され、そして、全身に刃物を突き立てられた際のものかも知れぬと想像した。】
- izumi044
- ベストアンサー率36% (1333/3623)
作文として変かどうかは、審査する方の好みにもよると思いますので言い切ることは出来ないと思います。 ただ、「人の死を身近に感じてどう思ったか、どうしていきたいか、というのがテーマ」と考えると、やはり今の表現だと少し間延びしてしまうと思います。 伝えたいのは、自分の気持ちよりもその後の「どうしていきたいか」ではないでしょうか。 そういう意味で考えれば、今の質問者さんの主張は「死を感じた」ということに重点が置かれた構成になってしまいませんか。(それでいいのでしたら何もいいませんが) 個人的に感じたことですが。 >心情表現が大袈裟になってしまいます。 >血肉や様々な機関でできていたその姿は、骨と灰だけになっていた、さっきまであった顔も手も脚もどこにもない 心情表現のみに絞れば、頭の部分はいりませんよね。(そこは描写なので) >その姿は、骨と灰だけになっていた、さっきまであった顔も手も脚もどこにもない このほうが、より伝えたいことが明確になるはずです。 そう考えると >身体中を刃物で刺されているような痛みが~ にもいらないものがあるように感じませんか。 ※刃物で刺された経験のある方はほぼないでしょう。 ここをより身近な表現に変えるほうが、人に訴える力は強くなるように思います。 小説は作者の世界観が大切ですが、「青年の主張」という作文であるならば、その逆の「より多くの人の共感を得られる表現」のほうが相応しいように思います。 読み手を意識することは、小説の時と何ら変わらないと思います。 そういったポイントを、一つ一つ自分の中で確認しながら書いてみてはいかがですか。
- SPROCKETER
- ベストアンサー率26% (2126/7992)
その程度の心情表現では大袈裟とは呼べないでしょうね。 女性が書いた私小説を読んでみなさい。眼を背けたくなるほど大袈裟な表現が列挙されていますよ。針が棒になるどころではありません。小説の心情表現は読者に訴える力が強いほど評価されるわけで、大袈裟な表現だと自分で思っているのであれば、表現力が未熟だと認めているようなものです。 火葬場で遺体を見た時の表現としては、無味乾燥です。血が凍るような表現、生と死の境目に立った時の心情など、自分を遺体に重ね合わせて書いていないので、訴えるものがないです。漫画の文章表現の域を出ないですね。 小説を読んだ読者が感銘を受けるぐらいの心情表現が出来るようにならないと、口にすべき話ではないでしょうね。漫画の読み過ぎです。名作と呼ばれる小説を100冊ぐらい読んでから書き直した方が良いでしょう。
補足
作文にしては、という意味なのですが…。 小説を書いているわけではないし、深い心情表現を書きたいわけでもありません。小説、ではなく作文を書いているのです。 もしかしたら発表することになるかもしれないので、これを口に出すのはどうかな、と思い質問した次第です。 気を悪くされたら申し訳ありません。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
「身体中を刃物で刺されているような痛みが」は大げさと思います。 「血肉や様々な機関でできていたその姿は、骨と灰だけになっていた、さっきまであった顔も手も脚もどこにもない、」 は誤字がありますが、事実の描写でしょうからそれほど大げさとは私は感じませんでした。ただ骨のようすとかは実際に見た人だけが知っているもっとどうでもいいような細部があるはずだと思います。 例えば私の母の遺灰には、それほど時間が経っていなかったチタン合金製の人工関節があって、その大きさと独特の焼け色に目をひかれました。 大げさだと自分でわかっているのですから紋切り型=どこかで見たようなありふれた大げさな描写を使わないように直せばいいのではないでしょうか。 特に「自分がこう思った」は実際自分がどうだったかを客観的な冷ややかな目で見ている自分が必ずいるはずで、そっちのほうを分析してみてはいかがでしょうか。 悲しいという感情の引き金には何かを思い出してとか具体的なことがあるはずなのでそれを淡々と描写すれば共感をしてもらえるのではないかと思います。 「悲しかった」にいろいろ付け加えて大げさに飾っても質の良いお涙は誘えないと私は考えます。 悲しかったことを「悲しい悲しい」と書くんではなくて記憶の中のいかにも客観的な光景や事実を組み合わせて同じ気持ちに誘うのはいかがでしょうか。 例えば環境汚染とか開発で昔の何でもない風景が失われてしまって悲しいのを「切り裂かれるように悲しい」と書くより、昔の何でもない風景の愛していた部分を客観的に描写して現在の有り様を並べてみることで自分の思っていることはうまく伝わるのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 機関というのはただの誤字です。すみません、質問した後に気付いて修正できませんでした。