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『伊勢物語』の「初冠」の解釈について

『伊勢物語』の「初冠」にある「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに 」を返歌とする解釈は可能でしょうか? 今まで返歌と考えていましたが、いろいろな文献だと、男が詠んだ和歌が源融の和歌の風情同じであると感じたとなっています。 しかし、男を業平とすると時代としては律令制で、国司として赴任した人の娘だったり、斎女の可能性もあるわけです。 また男の「おいつき」という様子も「大人ぶる」や「すぐに」、「荒っぽく」などと意味が分かれています。 また、「ついで」以降は後人注という説や男の心中、語り手という説もあるため、女はらからの返歌説もあっても悪くはないと思います。「ついで」以降の主語も判定は難しく女はらからの可能性もあります。 このように多様な読みができる古文は後世の価値観によって現在まで解釈を変えて詠まれていて当然だと思います。 そのためにも返歌説は全くなしということは言えないと思います。 その点で多くのご意見を賜りたいと思います。 ご多忙ではございますがご返答いただけますようお願いいたします。 また、根拠が濃厚な情報がネットにございましたらURLを付けていただけたらと思います。 宜しくお願い致します。

みんなの回答

  • fumkum
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回答No.4

まとめると、「初冠」の段だけでなく、『伊勢物語』全体を通しての主題は、「みやび」だろうと思います。ですから、「みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに」の和歌が返歌ではないだろうと思います。 最後に、文学は個人により、読み方、観方は違います。学校のテストではないのですから、読み方、観方は当然自由だと思います。NO2で申し上げたように、和歌・語句の解釈も、時代により変遷することがあります。何気ない発想の転換が、解釈に新たな地平を開くこともあります。ただ、現在の主要な読み方・解釈についても知っておくことも大事でしょう。知って拘束されなければ良いだけです。 「根拠が濃厚な情報がネットにございましたらURLを付けていただけたらと思います。」とのことですが、ネットは今回使いませんで、手持ちの資料で回答しましたので、ネット情報はありません。悪しからず。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.3

まず、昔男が在原業平であって、「初冠」の年に「春日野の」歌を詠んだかということについて考えると次のようになるのではと思います。 ご存知のように古今集の「かはらの左大臣」は、源融のことで、昔男のモデルと言われる在原業平とは、同世代に属する皇胤です。在原業平は、桓武天皇の子である平城天皇、その子の阿保親王の子(第五子)に当たり、桓武天皇の曾孫です。ただ、母親が桓武天皇の娘の伊都内親王なので、母方からは桓武天皇の孫にあたります。これに対して源融は、桓武天皇の子の嵯峨天皇の子ですから、桓武天皇の孫にあたります。母親は大原金子という女性で、母親の身分が低いために臣籍に直りますが、「*淳和天皇為子」とされたとあります。生年は源融の方が若干早く、822(弘仁13)年生とされ、在原業平は、825(天長4)年生とされますので、*この生年を信じると源融の方が3歳年長ということになります。となると、「陸奥の」和歌は融の何歳の折に作られたのかが問題になります。初冠は元服のことですので、当時は大体数え年で15歳前後に行われます。元服は大人社会への門出であるだけでなく、結婚可能状態に入ったことでもあります。つまり、「陸奥の」和歌は、融の元服後に作られたことになります。融の元服は、『公卿補任』に「承和五十一廿七正四下(加元服日)」とありますので、承和5(838)年、融15歳のときになります。ここで、現在の説のように在原業平の元服(初冠)を仮に16歳の時とすると、融は19歳ということになります。融が元服後すぐに和歌を詠んだとして、在原業平の初冠まで4年しか経過していないことになります。たった4年ではこの歌がこの段章へ登場することはほぼ不可能です。和歌が詠まれ、評価され、人口に膾炙され、古歌として規範的な地位を確立するまでに、4年では短いと言わざるをえません。「陸奥の」和歌が返歌かどうかに関係なく、業平と女はらからが「陸奥の」和歌を知っていて、さらに相手が知っていると認識しているからこそこの段の話は成立するのであって、そのような状態になるまでに4年では無理だと思います。 ただ、「初冠」を元服の意味ではなく、従5位下に叙任された事とする考え方もあります。業平が従5位下に叙任されたのは、嘉祥2(849)年のことですので、業平25歳のことになります。融の元服後13年です。 しかし、業平には従5位下に叙爵されるまでに、左近衛将監、蔵人への任官が知られ、(左)近衛将監は従六位上相当ですし、蔵人は六位蔵人で、従、正にかかわらず六位の位を得ています。また、蔵人は六位と言えども天皇に近侍する顕職(単なる5位よりは)ですので、従5位下の叙任に文学的に意味があったのかとも思います。それに、25歳に「初冠」初々しさを求めるのは無理だと思います。 また、平安時代中期過ぎ、藤原兼家が摂政となり、息子・孫の官位を急激に上昇させるまで、摂関家・大臣家の子息でも元服と同時に従5位下に叙任されることはまれ(嫡男など)で、多くの貴族の子弟は、6位に叙任され、そこから昇進するのであって、従5位下の叙任が40歳台に入るものもいることを考えると、従5位下と「初冠」が結びつくのは、平安時代も後期になると考えられます。(一世源氏の初叙位階は融の例にある従4位下) つまり、「初冠」の中の業平と、「陸奥の」・「春日野の」の和歌の関係が史実かといわれれば、史実ではなく、物語化されたもの、もしくは昔男に仮託されたものと考えられます。*『伊勢物語』もしくは「初冠」の段の作者の創作であった可能性も考えられます。ともかく、在原業平の創作ではない可能性が高いということです。 *この生年を信じると=誕生年、さらに月・日が判明している人物は少なく、天皇でさえも判明していない天皇がいます。そこで、六国史や公卿補任などの没年記事から逆算する方法をとります。しかし、六国史と公卿補任の記述が一致しないことがあったり、身分が低かったり、女性であったりした場合は、公卿補任は無論のこと、六国史などに没年記事等は載りませんので、不明なことが多くあります。 *淳和天皇為子=『公卿補任』の記述。養子のことですが、父の嵯峨天皇は退位し、上皇となっているので、当代の天皇である淳和天皇の子とすることにより融の門出を飾ろうとしたものだと思います。臣籍降下させたとはいえ、父親の愛情を受けていたことが感じられます。 *『伊勢物語』もしくは「初冠」の段の作者=『伊勢物語』の成立については当然諸説ありますが、単独作者ではなく、多段階の増補を経て現在の形になったとする有力説があります。 『伊勢物語』は歌物語ですので、和歌の作者が誰なのかをはっきりと明示しています。125段の中に、和歌を詠み交わしている例が40例ほどあります。2度、3度と和歌の応酬している例もありますので、関係する和歌は100首ほどになります。40例ほどの中で、「返し」とされるものが6割を占めます。「この男~この女~」、「帝~大御神~」が残りで、和歌の作者が分からないものはありません。つまり、返歌の前に作者が明示されていない和歌はないのです。「陸奥の」和歌が返歌だとすると、この一例だけになります。ただ、引用句、本歌を上げる例もありませんが。 「陸奥の」和歌の後に、「といふ歌の心ばへ」という文が続きます。和歌にこの表現を用いるときには、ほぼ本歌、または元・根拠になる事柄について言及する場合に使っています。「Aというのは、Bといふ心ばへ」という構文では、Aの元(オリジナル)はBであるとか、Bという趣旨・風情でAは作られたという意味を持つ表現として用いられることが多いということです。 関連する和歌を並べると、次のようになります。 1陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに 2春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎり知られず 3みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに 1~3の歌は、1を本歌、2は本歌取りの歌、3は議論が分かれますが、1の和歌を基にしていることは間違いがないところです。2は、1のあなたのために、しのぶもぢずり(模様の衣)のように心が乱れるという歌意・風情を元に、陸奥を春日野に情景を変じて和歌としています。これに対して3は、1の四句目のみを変えて、和歌としています。このような本歌取りがないわけではありませんが、それは、平安時代も最末期の平家歌壇においてであり、その時代でも異端的であった手法です。3のような和歌を詠むよりは、1の和歌をそのまま送ったほうが、スマートといえます。まして、3を返歌ととると、「といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむ、しける。」の部分は、3の歌への評価ということになります。3のように四句目のみを変えた和歌を返歌としたことが、「みやび」という最高の褒め言葉で表現されるのか疑問です。 そもそも、「みやび」という言葉は、125段本系統の『伊勢物語』の中でも、「初冠」の段のみに出てくる言葉です。この言葉が、『伊勢物語』の初段の「初冠」から、125段の「つひに行く」までを、横に貫く主題というべき位置にある言葉だと思います。成人して死までの昔男のほぼ生涯の行動を、「みやび」という言葉で総括したともいえます。「恋を中心としたみやび」ということのほうが正しいのかも。 そして、「ついでおもしろきこととも」以下は、作者がもろに顔を出したともいえます。「みやび」という主題をいうために、本来作品の裏側にいる作者が登場してしまったがために、「ついで」以下のような表現になったのではないでしょうか。 話が前後しますが、では「みやび」は何かですが、他の関連する語句と比較すると次のようになります。 あて=身分が高く、上品・優雅なさま。 けだかし=身分が高く、品位・風格があって、おかしがたいさま。 みやび=上品で優雅なこと。都会風に洗練された美しさ。風雅。風流。 ということになります。この「みやび」の都会風の中には、機知に富んだ行動・言動含まれます。 では、「初冠」の段の「みやび」とは何かですが、元服直後?に恋をしたこと。「陸奥の」の和歌を知っていて、信夫摺の狩衣の裾を切ったことと、それを元にして和歌を詠んだこと。歌に切った裾を添えた(裾に書いた)ことだろうと思います。「みやび」にとって恋は大きな要素でもあります。恋することが、恋の駆け引きが、「みやび」の世界の一つなのだともいえます。 そして、大人の世界に足を踏み入れたばかりの若者が、融の和歌の世界を真似て、背伸びしてみせる、そのような初々しい姿・行為が、「初冠」の段の縦糸となっているのだと思います。だからこそ、「お(を)いづきて」を、「大人びて」と訳すようになるのだと思います。 ところで、融の「陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに」の和歌を読んで、どのような感想を持たれますでしょうか。序詞を使い、技巧的で、洗練した感じを私は持ちます。少なくても元服直後に詠んだ和歌ではなく、ある程度年齢がいってからの作品だと思います。その点でこの和歌には初々しさが欠けていると「初冠」の段の作者は思ったのではないかと考えるのです。そこで、4句目の「乱れんと思ふ」を、「乱れそめにし(乱れ初めにし)」と変えることによって、「初冠」・「若紫」・「初め」と、縁語のように関連する語句を並べるようにしたのではないかと思うのですが。 長くなったので、再度追記します。

  • fumkum
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回答No.2

こんにちは お書きになっているように、「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに 」の和歌は、『古今和歌集』の「巻十四 恋歌四」の歌番号(『国歌大観』の番号)724の歌が根拠とされています。 かはらの左大臣 陸奥のしのぶもぢずり たれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに 和歌の四句目が、『古今集』が「乱れんと思ふ」、『伊勢』が「乱れそめにし」の違いがあります。 ただし、この和歌について、古来女はらからの返歌とするする説が存在します。細川幽斎(藤孝)の書いた『伊勢物語闕疑抄』に次のようにあります。 みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆへにみだれそめにしわれならなくに 此返歌は、融のおとどの歌なり。むかしはいかによみすてたる歌なれども、面白き歌をば、児女子も口に誦しけり。されば人の口にありしなり。古今にては、たれ故にみだれそめにし、われにてもあらず、そなた故にこそみだれそめれ云心なり。其心を、今女の返事に用れば、-中略- といふ歌の心ばへなり。むかし人は、かくいちはやきみやびをなんしける。 と云歌の心ばへは、返歌の心を用かへたるをいふ。-以下略- このように、「みちのく」の和歌を女はらからの返歌ととり、「みちのく」の和歌の後の文を、「みちのく」の和歌に対する評価とするものです。この『伊勢物語闕疑抄』は、岩波書店刊『新日本古典文学大系 竹取物語 伊勢物語』に全文が掲載されていますので、簡単に見ることができます。 さて、細川幽斎(藤孝)ですが、現在の細川護煕元首相の祖先にあたります。戦国末期から江戸時代の初めにかけての武将であり、古今伝授継承者という当時の最高の文化人でもありました。足利義輝将軍に仕え、その横死後、幽閉状態にあった後の15代将軍足利義昭を奈良から脱出させ、各地を転々とした後、織田信長の協力を得て、義昭を将軍にした功労者の一人です。しかし、その後義昭から離れ、信長、秀吉、家康と仕え、人生を全うします。武将としての面だけでなく、歌学にも優れ、古今集の読みと解釈の秘伝を伝える古今伝授を三条西実枝から受け、それを、三条西実条、八条宮に伝えています。 『古今和歌集』と『伊勢物語』は時代を同じくするだけでなく、「みちのく」の和歌のように、採録された和歌の関係もあり、相互に関連性を持つと考えられています。 別件ですが、『伊勢物語』の伝本は種類が多く、現在は定家本(百二十五段本の系列)を定本として出版することが多いのですが、定家本は定家による校訂があます。中世では「略本(朱雀院塗籠本とも。百十五段)」が、在原業平自筆本(平安中期の高階成忠書写)と考えられていた時期もあるので、定家本と共に尊重されていました。ただし、真名本(漢字-真名-で書かれた)など、多様な伝本が存在します。そのため、語句に付いても異同がありますが、「初冠」の段は異同があることはあるのですが、少ない段章になります(「男の着たりける」の「の」の有無など)。ただし、「初冠」の段を持たない伝本も存在します。 個人的には、返歌ではないと思いますが、一番の関心事でしょうから、とりあえず上のような説が存在することをお伝えします。回答が締め切られないようでしたら、追記をしたいと思います。

回答No.1

>後世の価値観によって現在まで解釈を変えて詠まれ 後世の価値観で勝手な解釈をするというのでは学問ではない。 そして、定家の写本(天福本)として、学習院蔵書やら宮内庁書陵部蔵書(御所本伊勢物語)があるとしても、伊勢物語の原典(一番最初のオリジナル)とは程遠いものと推察される。全てが伝本なのであるから、つまり、西洋流に言う「テクストクリテック(校合作業)」は、今後も、大きな研究課題であって、テクストの「確定作業」は、今後も継続していく。で、テクストに修正が加われば、当然、その解釈も変わる。時代の価値観によって解釈が変わるのではなく、テクストの誤りが正されて、解釈が変わるということは良くあること。「虫食い部分」が何とか判読できるようになって、新しい解釈が生まれるとか、古典文法の新発見があり、そのルールによって、言葉の解釈を変更しなければならなくなったりする。 写本をした定家ほどの人が、自ら考える理想的ストーリーを完全に排除して、一字一句変えず一冊を写し取ることなど果たして出来るのかというのが、通常の感覚だと思う。自分に都合の良いストーリー、有利になるストーリーに引っ張られることの方が自然だと思う。

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