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古典伊勢物語
東くだりについて質問です。 男が自分に価値が無いので東国へと旅立ちますが なぜ東国なのでしょう。自分には都に住む価値が無い 田舎にならあるということですか?当時の東国の位置付けが わからないので いまひとつ納得できません。
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- fumkum
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さて、平安時代初期から中期にかけての「あづま」、特に現在の関東地方の状況は歴史的に考えてどのようなものであったかを、『将門記』『今昔物語集』などを参考にすると、次のように言われています。 東国では、貴種(多くは現地の受領層となって下向した者)と呼ばれる血筋を尊ぶ気風があり、貴種を婿どりし、それらが国衙への影響力を発揮して開墾の許可を得、婿入り先の財力・労働力を活用して開発領主となり、地域の有力者となる傾向がありました。例えば、平将門の父の将持は、その父である桓武天皇の孫にあたる高望王の上総介の赴任に随行し、父の任があけても帰京せず、下総の相馬郡の在地勢力の犬養氏の婿となって、下総・常陸の原野を開発し、一大勢力となった事例があります。将持の兄弟の国香・良兼なども同じように現地の有力者に婿入りし、勢力を拡大しています。これは、皇孫氏族に限らず、藤原氏系の藤原秀郷の小山氏、時代は下りますが源氏系の足利・新田・佐竹氏など、多数の例があります。このような開発領主及びその子孫は、開発地の権利関係があいまいなため、土地の境界や帰属をめぐって私的兵力を蓄え、従属性の高い従類や、同盟者的な関係の伴類を従えて、武士として発展するものもありました。さらに、中央の摂関家などに土地を寄進し、現地荘官となって、現地支配にあたり、上級貴族に名簿を捧げて主従関係を結び、上京して貴族に奉仕することにより、官位などを得ることがありました。また、経済的・軍事的実力及び位階・官職を帯びることから、押領使・追捕使や税所・政所などの在庁官人となり(中には国司の四等官に任命される者も現れる)、国衙に影響力をおよぼす者もありました。『今昔物語集』の巻26第17話「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位を将て行きたる語」の、藤原利仁のように、都では五位にも及ばない身分であっても、越前(あづまではありませんが)では豪族としての実力を持つ人物のような存在が、東国には数多くいたことになります。その面では広大な未開発地がある東国はフロンティア的な地域であったといえます。 『今昔物語集』の巻26第17話「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位を将て行きたる語」 http://cpplover.blogspot.com/2009/06/blog-post_20.html 同上解説 http://home.kobe-u.com/lit-alumni/hyouronn7.html また、東国は荒々しい新開地であり、馬を使った輸送業者である「シュウ(ニンベンに「就」)馬」が集団で、馬や物資を強奪する「シュウ馬の党」という盗賊集団の横行や、国司に対捍(反抗し年貢徴収に応じない)し、税の取り立てに武力で反抗する盗賊団も横行している世界でもありました。 私的武力を持つ豪族や武装盗賊団の横行の中、国司の力は弱く、問題の解決が自力救済による私的武力の発動ということもしばしばでした。また、『今昔物語集』の話になりますが、巻25第3話にある「源宛と平良文と合戦ふ話」の例が参考になります。 『今昔物語集』の巻25第3話「源宛と平良文と合戦ふ話」 http://japanese.hix05.com/Narrative/Konjaku/konjaku109.kassen.html 国守などの国司も手をこまねいていたわけではなく、国衙への武力の集中化を図ります。国司特に国守の私的な武力と、在庁官人の率いる兵力を中核として、国の兵(つはもの)と呼ばれる豪族の兵力を動員する体制を整えるのですが、いざという場合に国の兵が動員に応じなく、兵力を集めることができないこともありました。また、検非違使・押領使・追捕使などの任命による警察権・軍事力の強化も図っています。これらは任命により豪族層の取り込みもあったとは思います。 このような東国では大きな動乱も度々あり、有名な将門の乱以外にも、俘囚による寛平・延喜東国の乱・群盗の横行・「シュウ馬の党」の横行・将門の乱(承平天慶の乱)・平忠常の乱などが起こり、中央では東国を損耗の地とみなすようになります。 寛平・延喜東国の乱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%B9%B3%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%96%9C%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1 シュウ馬の党 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%85%9A 承平天慶の乱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E6%85%B6%E3%81%AE%E4%B9%B1 平忠常の乱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1 付け加えれば、みちのくを含む東国は、馬、馬具、砂金、鷹、鷹の羽(弓矢に用いる)の産地としても名高い地域でした。 以上長々と書いてきましたが、物語ですから、物語に描かれた東国像は尊重されるべきものだと思います。しかし、盗賊の横行や、私的武力の発動・反乱があり、荒々しい土地であったとしても、東国は貴種を尊重し、原野の広がる可能性を秘めたフロンティアの一面もあったことが重要なのではないでしょうか。 個人的には、カール・ブッセの詩の世界のように思うのですが。男は京では身をようなきものに思って、山のあなたのあづまには「幸」があると思っていってみた。しかし、そこには「幸」はなく、「涙さしぐみ、かへりきぬ」だったのではないかと。青い鳥を求めて彷徨ったチルチル・ミチルのように、そこに描かれているのは青春の蹉跌だったのではないかと。歴史的に考えるとフロンティアに可能性を見出したとも思います。青年は荒野をめざすという感じかな。個人的な感想でごめんなさい。 ともかく、物語ですから、受け止め方はいろいろとあると思います。 以上、長くなりましたが、参考まで。 最後に一言お礼を。良い質問をありがとうございました。久方振りに伊勢物語に正面から向き合うことができました。
- fumkum
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少し長くなりますが、『伊勢物語』の「東下り」に関する段は、9段以外にもあって、7、8,9,10、11、12、13、14、15段がそれに相当します。この7段から15段までの一連の物語が、「東下り」とされています。さて、その段の冒頭を並べると、微妙に違うことが分かります。 7段=昔、男ありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢・尾張のあはひの海づらを行くに、 8段=昔、男有りけり。京や住み憂かりけむ、あづまの方に行きて住み所もとむとて、-中略-信濃の国浅間の嶽に、 9段=昔、男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなし、「京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めに」とて行きけり。-中略-道知れる人もなくてまどひいきけり。 10段=昔、男武蔵の国までまどひありきけり。 11段=昔、男あづまに行きけるに、 12段=昔、男ありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野に率ていくほどに、ぬす人なりければ 14段=昔、男、みちの国にすずろにいきいたりにけり。 訳をすると、 7段=「京にいるのがつらくなって。何となく住みづらくなって」 8段=「京は住みづらかったのだろう」 9段=「自分の身を不要(無用)のものと(意識的に)思い込んで、「京には住むまい。東国の方に住むのに適した国をさがしに行こう」と言っていった」 10段=「武蔵国まで目的もなくあちらこちらと歩き回って行った」 11段=「東国に行った時に」 12段=「ある人の娘を盗んで、連れて行く時に、盗人であったので」 14段=「みちの奥の国へあてもなく出かけて行き、行き着いた」 以上が、東下りの理由と目的について記載されている部分になります。 理由については、「身をえうなきものに思ひなし」・「京にありわびて」・「京や住み憂かりけむ」・「人のむすめをぬすみ」として、京に住みづらいことがあり、身を無用なものに思ったことが東国へ向かった理由であるとしています。古来からこの背景には、伊勢物語の3段から6段までの二条の后(藤原高子=後の清和天皇の女御)との恋と破局があったとされますし、現代でも同様の解釈がなされます。しかし、近年の研究により、昔男とされる在原業平と藤原高子の恋愛及び、在原業平の東下りは史実ではないとされるようになってきています。しかし、史実ではないとしても物語上の展開を考えると、恋の破局により京に居るのがつらくなり、身を無用のものに思って、旅に出たと捉えるのが一般的です。 さて、前置きが長くなりましたが、物語に描かれている昔男・東国像と、現実の在原業平・東国像とは違いがあるわけですが、伊勢物語の背景には、史実と『古今和歌集』などの収録されている在原業平の和歌および詞書、伝説などのより形付られた業平像があって、それが昔男に投影されていると考えるのが一般的です。そのような在原業平像としては次のような事柄が挙げられるといわれています。 二条后・伊勢斎王など数多くの女性との恋。特に二条后との恋と略奪・失敗。父が平城天皇の親王、母が桓武天皇の内親王という血統の高貴さ。薬子の変がなければ天皇に即位した可能性もあった悲運。藤原氏の台頭の陰で圧迫された悲運。藤原氏に圧迫されて身の置き所なく東国に下る。六歌仙の一人としての歌の上手などなど。 さて、話が後先になりましたが、「あづま」の範囲についてですが、「あづま」は「東=吾妻=東国」とも言い換えられます。古い時代はともかく、平安時代に入ってからは、初期には天皇の崩御・譲位などの権力の空白期に東国からの侵入者を防ぐために、関所の閉鎖を命じる固関(こげん)使が出された、越前の愛発関(後、近江の逢坂関)・美濃の不破関・伊勢の鈴鹿関の三関以東、特に美濃・伊勢以東の国々を漠然とあづまとしていたようですが、多くは、遠江と信濃以東の国々をあづまとしていました。それ以外にも、近江の逢坂関以東を指す場合や、足柄・碓氷峠以東の地=現代の関東地方を指してあづまとする例もあります。なお、みちの国=陸奥国については、あづま=東国よりはなお遠くの国という意味ですので、東国には含まれないとされていますが、厳密に区分されていたわけでもなく、あづまの範囲に漠然と含むことは多かったようです(陸奥国が常陸国から分離した経緯もあるのかも知れません)。 伊勢物語の東下りに登場する国は、伊勢・尾張・信濃・三河・駿河・武蔵・下総・陸奥になりますが、東山道に属する信濃・陸奥を除くと、全て東海道に属します(武蔵は771年まで東山道)。伊勢物語が、あづまをどの範囲と考えていたのかは不明ですが、東下りの中で特に注目されるのは武蔵国が他を圧倒して多出している点です。9段は最後に出てくるだけですが、10・11・12・13段は武蔵国の話です。その上、13段は「昔、武蔵なる男(昔、武蔵に住んでいる男)」となっている程です。また、「武蔵の国までまどひありきけり」(10段)との表現もあります。伊勢物語にとってのあづまは、武蔵が中心であったように思います。伊勢から駿河まではその通り道としての位置付けではなかったのではないでしょうか。 さて、伊勢物語の東下りの段(7段~15段)の中から旅の目的と、あづまに関する記述を見ていくと、気になる点がいくつかあります。その第1が、「道知れる人もなくてまどひいきけり」・「武蔵の国までまどひありきけり」・「みちの国にすずろにいきいたりにけり」と書かれていることです。ここに描かれている昔男は、東国への道も知らず、迷いながら下って行ったことが表現されています。東国に関しての知識が皆無だったわけではない(後述)にしても、未知の地に近い印象があります。だからこそ、漠然と理想の地を求めたとか、貴種流離譚であったとされます。カール・ブッセの詩や、ウィキペディアの貴種流離譚の説明にある世界です。 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。 噫、われひとゝ尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。 貴種流離譚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A 次に目を引くのは、歌枕の多出です。信濃の国浅間の嶽、三河の国八橋、駿河の国の宇津の山・富士の山、武蔵の国のみよし野・武蔵野、みちの国の栗原のあわはの松・しのぶ山と、数多く取り上げられ、歌に詠まれています。時代は少し下りますが、一条天皇の時代に藤原の実方が宮中で事件を起こし、「歌枕を見て来い」として、陸奥守に左遷された話があります。この話からも東国は歌枕の地であったようです。 藤原実方 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%96%B9 また、鎌倉期の成立になりますが、「古事談」に東下りの理由として次のような文章があり、歌枕を見に行くことが名目であったとしています。 「業平朝臣盗二条后、将去之間。兄弟(昭宣公=*基経)達。追至奪返之時。切業平本鳥(*髻=もとどり)云々。乃生髪之程。称見歌枕発向関東。」 以上の事からも、東国は歌枕の地であり、物語の内容からも、昔男にも東国の歌枕についての知識があったものと考えられます。 さらに、物語から東国について覗える事柄は次のようなものがあります。 10段=母なむあてなる人に心つけたりける。-中略-さてなむあてなる人を思ひける。このむこがねに、 *高貴な血筋(貴種)への憧れと、婿がねとして評価している人がいたことがわかります。 13段=むさしあぶみ(武蔵鐙) *武蔵の国で作られる鐙の事で、優れた馬具として有名であり、東国が馬に関しては先進的な技術を持っていたことが覗えます。 14段=そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむありけり。 *10段とも重なりますが、京の人は東国では見慣れず、珍しかったこと。素朴・純情な心根を持っていたことが覗えます。 14段=歌さへぞひなびたりけり。 *歌までも田舎ぽかった。=歌以外も田舎ぽいと言うことが言外に表されています。 15段=さがなきえびす心 *教養のない、粗野で、田舎人の荒々しい心、情趣・風流をわきまえない心を持っている。14段の女も、男が歌で「あなたを京に連れていこうとは思っていない」とほのめかしているのに、女は意味を取り違えて、「愛しいと思われている」と思っているように、歌の教養も少ない様が描かれています。 以上のように、伊勢物語に描かれている「あづま」やあづま人は、歌枕の地であり、貴種や京人を尊重する地、素朴・純情な人々の反面、田舎っぽく、粗野で、荒々しく、教養も薄く、情趣・風流をわきまえない人々の住む土地としています。 さらに、浅間の煙や、武蔵野・みよし野などに、荒々しい自然や、広大な手つかずの原野を想像することも可能なように思います。また、12段に盗人の話と、国の守の追捕が出てきます。また、武蔵鐙の話からあづまでの馬使用の発達が覗え、盗人・追捕と関連して、下記の歴史的事実を思わせるものがあります。
- TANUHACHI
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こんばんは、質問者様は高校生でしょうか。それならばこの作品の主人公に擬せられた人物とその人物像を手掛かりとして、この問題を読み解いてみましょう。 『伊勢物語』は平安時代初頭に成立した物語として知られ、その主人公は在原業平をモデルとしたとされています。この在原業平は希代のプレイボーイとして浮き名を流したことで有名な人物です(つまりは女癖の悪い人物)。 この物語は別名『在五中将の物語』とも呼ばれ、在原氏の五番目の男子である人物が官位としては従四位下の務めにあったことを語っています。官位としてはそれほどの高位でもなく将来の出世にも期待が適うとは言いかねる複雑な立場です。 さて本題に戻りますが、「東下り」の部分をよ~く読んでみますと、次の一節に出会います。三河の八橋という場所に差し掛かった折、そこでしばしの休息をとっていたが、咲いていた燕子花の花を見て歌を詠むという、あのシーンです。男が詠んだのは、都に残してきた妻への思いでした。「愛しい妻を都に一人残す形で、自分は都を離れて旅をしている。今頃あの妻はどうしていることだろうか」との悔悟に満ちた歌です。 しかしこの人物に色恋沙汰にへの反省など微塵も見られてもいなかった。現在の隅田川あたりに着いたとき、今度はそこに群れ飛んでいる都鳥の姿を見て「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」と先程の「妻に対する思慕」とは別に自分が愛している女性が今はどうしていることか、まさか他の男に寝取られてはしまいかなどとあらぬ妄想を一人で掻き立てています。それほど、「この男なる人物」はしょーもない人物といえます。 こうした背景を考えますと、「昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして」の「えうなき(要なき)」の語る意味は「実務的な意味」ではなく、恋に破れた無残な男の生き様を綴るものと僕は解釈しています。 都ではなく地方に飛ばされる左遷ならば、それは西国でもよいことになります。この人物が何らかの罪を犯したかどうかは記されていないことから、それが五罪の「流罪」ではないことも推測されます。 流罪となれば、菅原道真の左遷をはじめ崇徳上皇の讃岐配流、後醍醐天皇の隠岐流罪や世阿弥の佐渡流罪などがありますが、何れも権力者に対する反逆意思への報復措置とされていますので、伊勢物語の話とは別な問題になります。 東国を選んだのは、当時の「東国に対するイメージ」が「西国に比してそこは人跡未踏の地である」との印象が強くあったことも影響していると思われます。 失恋の傷手を癒すといえば聞こえも良いのですが、自らの素行を顧みない哀れな男が、それでも何とか取り繕おうとしてもがいている姿が、僕には滑稽にみえるだけの話です。 長々とお話ししましたが、以上です。