• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:庶民の幕末・維新)

庶民の幕末・維新

このQ&Aのポイント
  • 幕末・維新における庶民の苦悩と行動
  • 庶民が感じた幕末・維新期の生活と思い
  • 幕末・維新における庶民の苗字と徴兵令への意識

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.3

(1)幕末・維新の動乱期の庶民の行動については、一揆・打ちこわしが頻発し、それらを総称して「世直し一揆」と呼んでいることでも時代の背景が分かるのではないかと思います。ただ、「世直し一揆」は、性格・時期等を含め、研究者によって考えの違いがあり、一般の百姓一揆とは違い、都市部における打ちこわしも含まれます(これも考えが分かれます)。この一揆の前段である江戸後期の村方騒動は、村方三役の不正を告発、改良するなどを幕藩権力に訴えるなどの村内の改革運動でしたが、世直し一揆の段階に至ると、村内の有力層の打倒、打ちこわしなど階級闘争の段階に進んだとの考え方もあり、それまでの幕藩権力に訴願することで改良を求める段階を越え、自らの力で世の中を改革しようとする段階に至ったとされます。非常に狭く「世直し一揆」の時期を見る考え方では、慶応2(1866)年の第二次長州征伐の最中の5月に江戸・大坂(征長軍本営の地)で大規模な打ちこわしに始まり、6月の武州世直し一揆、奥州信達騒動などが続くとされますが、開港による物価の急騰と、生活苦による一揆・打ちこわしも含め、武士層だけでなく、庶民、特に貧しい農民・都市民を主体とした闘争であった。 この背景には、幕末の幕府・諸藩の幕政・藩政改革の中で、農民への負担の強化。マニファクチュア-(工場制手工業)の進行により、農業から離れ労働者となった階層と、地主・問屋・商人などのような家内工業の経営者階級との対立。幕藩体制の行き詰まりなどがあります。 「草莽」という言葉がこの時代には流行語化します。本来は、在野・民間の意味ですが、それが在野にあって身分・名誉を求めず、国に寄与する人の意味に使われ、幕末では、身分の上下に関係なく、国家的な危機に対処するために行動すること、人に転化します。このような中から、赤報隊が生まれ、年貢半減をスローガンに、東征軍の先触れなりますが、その後の政権運営を考えると、半減のスローガンが邪魔になると考えた官軍上層部によって、偽官軍として処断されます。 この時代、勤皇の志士を見ても、武士階級だけでなく、農民出身の志士も多く、長州の奇兵隊も庶民層出身者も多いことを考え合わせると、武士だけの明治維新ではないと思います。 世直し一揆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86 草莽 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E8%8E%BD 赤報隊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A0%B1%E9%9A%8A 奇兵隊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A (2)意外かもしれませんが、島崎藤村の『夜明け前』だと思います。他には各種の通史、たとえば、小学館の『大系 日本の歴史』、吉川弘文館『日本の時代史』、講談社の『日本の歴史』などの該当の巻をお読みになればと思います。図書館は規模によりますが、通史は全てあるとは限りませんが、どれか一つは必ずあるはずですので。通史は、偏りがなく歴史を見られることがよい面です。 質問の趣旨を逸脱しますが、通史の巻末等に参考文献があげられていることがありますので、それも読めばより深い知識が得られると思います。さらに、「世直し一揆」などの語彙については『国史大辞典』などを引いてみるのもよいのではないかと思います。   (3)「ええじゃないか騒動」も、「世直し一揆」と背景を同じくしていると思います。この時期には、金光教、黒住教、天理教などの民衆宗教、教派神道と呼ばれる宗教も急激に勢力を拡大していることにも共通していて、時代の閉塞感と、それに対する救いを求める庶民の気持ちが、「ええじゃないか騒動」・「世直し一揆」・「民衆宗教」・「尊皇攘夷運動」などに結びついたのではないでしょうか。幕末期のキーワードの一つが「世直し」であったと思います。 (4)「徴兵令」の一揆が、「血税一揆」と呼ばれていました。 前回は長くなりましたので、今回は短くまとめました。参考まで。

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 幕末・維新というと、年表で、赤字や太字で書かれているところに目が移ってしまい、自ら、歴史の見方を狭めているのだと気がつきました。世直し一揆や、血税一揆のことなどを読んでみると、庶民もきちんと歴史の1ページを力強くきざんでいるのだということに気づかされました。読めば、読むほど、たったひとつの質問が、想像もつかなかった部落問題や身分問題にまで及んでいき、奥の深さに驚かされました。しかし、「血税」にまつわるエピソードはおもしろいですね。(*^_^*) 「自らの力で世の中を改革しようとする段階に至ったとされます。」……「世の中を改革しなければならない」という必要性の観点からは、むしろ、現代人のほうが、当時の庶民に学ばなければならないのかも知れません。 河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。……2~3年前だったと思いますが、司馬遼太郎の「峠」は読みましたが、私の能力では、このことを読み取ることは出来ませんでした。 「半減のスローガンが邪魔になると考えた官軍上層部によって、偽官軍として処断されます。」……根拠はありませんが、何故か現代でもありそうな……。(*^_^*) 長州には、貧しいけれど、「元武士」のような人が多かったと聞いていますので、元をたどれば「武士だろう」と考えていました。「農民出身の志士も多く」ということも、理解の中に入れておきます。 島崎藤村の『夜明け前』……ありがとうございました。読んだことはありませんが、幕末・維新の頃の世相を理解するのに良い作品だというのは、聞いた記憶があります。すっかり忘れていました。読んでみます。 「ええじゃないか騒動」も、「世直し一揆」と背景を同じくしていると思います。……このような見方もあり得る、という風に理解します。本当に分からないのです。私には、信じがたいのですが、「討幕派の陰謀と考えられている。」と記述されている参考書もあります。 「この時期には、金光教、……などに結びついたのではないでしょうか。」……この質問では、質問の数が多くなるので、あえて触れなかったのですが、廃仏毀釈と庶民との関わり、ご回答にある「時代の閉塞感」と宗教との関わり、新興仏教が誕生した鎌倉時代と何か共通した世相があるのだろうか?というようなところが気にかかっていました。幕末・維新期の宗教を考える上で、留意点などを教えていただければ、幸いです。 幕末期のキーワードの一つが「世直し」であったと思います。……そのような「視点」を心にとめておきます。

その他の回答 (3)

noname#224207
noname#224207
回答No.4

幕末維新史に庶民が登場しないとのご指摘ですが、維新と呼ばれ革命と呼ばれないこととも深く関係しています。 世界史的なレベルで考えれば、支配層(武家層)内部での政権交代であって、身分間の政権交代ではなかったことが大きな原因です。 明治政府も体制内に皇族、貴族(伯爵、侯爵)、士族、平民などと従来の身分社会をそのまま踏襲した制度を設けて名称を変更して再編しただけでした。 平民に編成替えされた町人、百姓がこの政権交代に直接関わることがありませんでした。 個人としてではなく身分階層としての話ですので誤解なきように願います。 江戸時代の藩幕制度というのは、武家による直接統治ではありませんでした。 町人も百姓も各々自治組織を持っていました。 庶民支配の仕組み - あすなろ学習室 gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/eidojidai/04_5edo_mibunseido... この自治組織の長を掌握管理することで、幕府なり大名領(藩)を統治していました。 卑近な例が、年貢と呼ばれる徴税制度です。 年貢はあくまでも村落単位に課せられるもので個人に課せられるものではありませんでした。 この村落に課せられた税(年貢)を村落内で誰がどれだけ分担して負担するのかは、この自治組織内の運用に一任されていました。 村落内には租税を分担負担する階層と租税を一切負担しない階層に分かれていました。 田畑などの土地の所有権も個人であると同時に村落の共有財産という性格を持っていました。 町人もほぼ同等の仕組みで租税を負担していました。 早い話が、長屋の熊さんや八っさん達は全くの無税でした。お祭りの費用も負担していませんでした。 明治政府になって個人に課税されるようになりました。 熊さん、八っさんや小規模の農民にとっては恐ろしく迷惑な話でした。 収入に応じて免除はされていました。 年貢は米などを主体とする物納でしたが、これが個人単位の金納に変わり、農村はたちまち疲弊してしまいました。 農民一揆という事件は明治初期に最も多く発生し、死傷者もでる事態となっていました。 江戸時代の一揆で直接死傷者が出るということはありませんでした。 大名領(藩)というのは、武家は城下町に居住することが義務付けられていて、その外へ勝手に出歩くことは認められていませんでした。 領民の大半を占める百姓と武家との日常的な接触は極めて少なかったというのが実態です。 百姓という身分呼称は農民のみを指すものではなく、城下町以外の地域に住む人達に対する総称でした。 漁師も猟師も村の鍛冶屋も茶店も皆百姓でした。 現在の庶民とおなじようなものとお考えください。 城下町のお城の中でなにがおきているのか、なんぞは百姓(庶民)の与り知らないことでした。 全国の大名が屋敷を連ね、人口の半分を武家が占めていた江戸の町というのは極めて特異な地域だったとご理解ください。 江戸の街を舞台とした情報で日本全体を推測しましと誤解や混乱がおきますので注意してください。 江戸時代云々という際にその多くが江戸の街の情報を基にして類推していますので、混乱が生じています。 江戸時代を議論する際の難しさです。 更に明治維新に直接関与した大名領(藩)はごく少数でした。 庶民に深く影響を及ぼし、時には庶民も巻き込まれるような事態が起きていたのは、直接戦場となった地域だけだったとお考えください。 以上のように、庶民にとっては、政治体制の変化による影響はむしろ明治以降に深刻で具体的な姿で生じました。 つまり、政権交代史である幕末維新史というのはある意味で庶民には直接関係のない出来事だったとお考えください。 そうはいっても極めて流動的な時代でしたので影響が皆無というわけではありませんでした。 その様子については多数の書籍が出版されています 百姓たちの幕末維新 渡辺尚志 草思社 大名領(藩)内でどのようなことが起きてどのように対応していたのか具体例が出ています。 幕末百話 篠田鉱造 岩波文庫 幕末の混乱した世情が庶民からの聞き語りの形式で記載されています。 明治百話(上)(下)篠田鉱造 岩波文庫 上記と同様の形式で記載されています 明治事物起源(第一偏~第八偏)石井研堂 ちくま学芸文庫 各分野ごとに何時から始まったかが網羅されています。 江戸から東京へ(第一巻~第九巻)矢田挿雲 中公文庫 東京の街の風景がどのように変わったかが記載されています 江戸東京年表 吉原健一郎/大濱徹也 小学館 年代毎にどんなものが流行していたかが分かります いずれもAmazonで入手できます。 お近くの図書館にも蔵書としてあるかと思います。 徴兵制など国軍というものが意識されるようになるのは日清日露戦争後のことです。 もともと年貢の中に役務の提供という制度がありましたので、左程の抵抗感は持っていなかったようです。 士族である旧武家層は全く見向きもしませんでした。 警察官と同様に食い詰めた士族が止む無く勤務するという感覚だったようです。 軍人という職業は左程社会的な地位が高い職業ではありませんでした。 旧制高校生などはばかにしていました。 末は博士か大臣か、という言葉は残っていても、末は大将かなどという言葉は残っていません。 かわいいスーちゃんという歌にもありますように ♪人の嫌がる軍隊へ志願ででてくるばかもいる、と平気で歌っていました。 you tubeで聞けます。 軍人が突出するのは昭和10年代という極めて特殊な時代現象だったとご理解ください。 江戸時代には戸籍制度が極めて厳重に管理されていました。 登録に当たり村落名や田畑の所在地の呼称を識別として使われ日常的にも使用していました。 町人は屋号というものを使用していました。 尚、庶民が全く苗字を持たなかった訳ではありません。 公的に使用が認められていなかったいうだけで、親族内や庶民間では使われていました。 これらを苗字として新たに戸籍に登録するのは然したる違和感はなかったでしょう。 以上直接の回答にはなりませんでしたが、なにかあれば補足で追加質問をお願いします。

noname#228965
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。  支配層(武家層)内部での政権交代であって、身分間の政権交代ではなかったことが大きな原因です。……よく分かりました。名前だけで、内容を知らないので、あえて記述しませんでしたが、フランス革命などと比較をしてみれば良いのですね。  年貢は米などを主体とする物納でしたが、これが個人単位の金納に変わり、農村はたちまち疲弊してしまいました。……つまり、「自治組織内の運用」に任されていた物納の割り付けがなくなり、個別農家の事情にまで、配慮の目が行き届かなくなったということですね。これまでは、「城下町のお城の中でなにがおきているのか、なんぞは百姓(庶民)の与り知らないことでした。」でも、なんとか生活できていたものが、そうもいかなくなったというような背景が、江戸時代の一揆と明治初期の一揆との性格を異なったものにしているのですね。  「江戸の町というのは極めて特異な地域だったとご理解ください。」……私も、東京で暮らしたこともありますし、現在は、はるか遠く離れ、東京と比較すると自然豊かなところで暮らしていますので、理解できます。(*^_^*)それにしても、人口の半分がお武家さんですか。現代で表現すると「公務員が半分」という感覚ですかねぇ。(*^_^*)  タイトルだけでも興味をそそりそうな本を紹介していただきありがとうございました。少し忙しくなったので、なかなか時間がとれませんが、少ない小遣いとも、相談しながら、書店、図書館を覗いてみます。(*^_^*)  役務の提供という制度がありましたので、左程の抵抗感は持っていなかったようです。……そうですか。「役務の提供」については、以前の質問でも教えてもらいましたね。  士族である旧武家層は全く見向きもしませんでした。……たとえ、「軍人」が社会的に評価される職業ではなかったとしても、旧武家層もすでに「戦う集団、階層ではなくなっていた」ということですね。幕末の経過を見ても理解できます。  中国や朝鮮半島との複雑な関係を理解し、「現代の日本」を理解する上で、「軍人が突出するのは昭和10年代という極めて特殊な時代現象」だということも含めて、「昭和の戦争」というのを、勉強したいと思っているのですが、なかなか手が届きません。もっとも、「昭和の戦争」が、今日の状態の根本原因だとは、考えていませんが。  登録に当たり村落名や田畑の所在地の呼称を識別として使われ日常的にも使用していました。……私の生まれ育った田舎(今でいう中山間地域のような所ですが)でも、農家1軒ずつ、それぞれに、苗字とは別に、「屋号(町人の屋号とは異なるのかも知れませんが……)」みたいなものがついており、皆、それで呼び合うので、少年の私には、何処の誰のことを話しているのか分からないことばかりだったことを、今でも覚えています。  いつも、私にとって、新しい知識をご披露いただきましてありがとうございます。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 幕末・維新に関する簡単な通史を読んで感じるのは、たったの1割にも満たない?武士によって創られた歴史ということです。  いや別に維新に限っていません。パールハーバーを攻撃したのは、日本人の1割以下、広島に原子爆弾を落としたのもアメリカ人の1割以下です。  英語の話と歴史は、フランス語の l'histoire から来ていて仏語では「作り話」も「歴史」も同一の単語です。歴史ってどうせ作り話で、庶民の歴史、夏降る雪の黒焼き見たいな物でしょう。

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

(1)-(3)は、庶民は今の暮らしで構わないのに、武士どうしで争っているだけの「内乱」なので、戦地となったところが迷惑しただけで他はウンザリ、というだけです。どうせ、黒船が来ても、庶民が応戦するわけではないので。 (4)は、徴兵については、明治政府の富国強兵の時期に入ってからの西洋式軍隊の整備とともに、「戦争が起こると大日本帝国に足りない兵士が強制的にかき集められる」という認識ができただけで、幕末や維新の直後の大政奉還の時点では何も実感はなかったでしょう。 ただ、「苗字をつけねばならない」というのだけは、何を名乗ればいいのかわからない庶民は、菩提寺の住職に相談して、住職が思い入れを盛り込んだ苗字を家族ごとに提案したり、集落は全部統一しておいたり、その家族の住んでいる場所の目印や地形をそのまま苗字にしたり、というように「近くで学のある人」に相談するしかない、というあわただしさのほうが勝っていたかと思います。(家系図があるわけでもないので、武家や商家の当主のような感覚を持つわけでもなく)

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。