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関西人の国防について
- 関西人の国防について、歴史上の事例はあるのか?
- 元寇や明治維新、太平洋戦争などの国難の時に関西人が果たした役割について
- 関西人の国防にまつわる歴史的な事実やエピソードは存在するのか
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日本陸軍創設間もないころ、 『またも負けたか八聯隊(はちれんたい)、それでは勲章九連隊(くれんたい)』 と言う語呂合わせがありました。 第8連隊は大阪編成、第9連隊は京都編成。、 大阪は、商人の町なので、ソロバンより重いもの持ったことがない。 京都は、お公家さん と言う思い込みの面白半分のもで、 戦歴的に事実無根です。 西南戦争では、大阪連隊は、たしかに商人の兵が多かったが、 勇戦し、明治天皇から直々に賞されています。 他にも同じように、東京師団はインテリで理屈っぽくて、頭で考えてすぐ動かない。 東北は、雪に閉じ込められるので、我慢強く守備に向いている。 九州は、鹿児島の『チェストー!』じゃないけど、勇猛果敢に突撃する。 と言う、迷信の様なものがありました。 しかし、 日露戦争で世界で初の師団規模夜襲に大成功したのは、 我慢強くて守備に向いているはずの仙台師団でした。 また、第二次上海事変で激戦に投入されたのは東京師団です。 沖縄、四国、中国、北九州は、海洋向きって言うのもありました。 また、仙台師団は成功の前歴を踏襲して、夜襲訓練重視。 あとは、山梨、長野は、山岳向き。 という時期もありました。 一番最初に、スキーでの軍事訓練をはじめたのは、新潟県高田連隊です。 おたずめの第4師団は、太平洋戦争開戦時、大本営予備として上海にあり、 第14軍のバターン攻撃の失敗で、比島に投入され掃討、コレヒドール攻略。 その後、本土に帰還。 最動員され、スマトラ→ビルマ→タイで終戦。 初戦の第一段作戦成功後、 在南方の、近衛、第2、第4、第5の現地復員、本土帰還が計画されましたが、 帰還輸送船舶待ちで、幸運にも第4師団だけ船舶の都合がつき、本土帰還ができました。 他の師団は、結局帰還がかないませんでした。 日中戦争が始まってからは、ドンドン軍拡したので、 人員的動員が追いつかず、1師管区では1コ師団が編成できないので、 3コ師管区から集めて、1コ師団を編成したりしました。 また、編成時人員と、その後補充地が違うことも発生しました。 下士官は九州、2年兵は関西、新兵は北海道と言う感じです。 九州と東北では、なまりが違い、 最初はコミュニケーションが難しかったとのことです。 特に、沖縄は大きく表現が違ったとの事。 太平洋戦争では、 戦地で分割派遣されたり、現地部隊を集めて改編されました。 更に、もう動員余力がなく、日本陸軍の郷土集団主義の理念は完全に崩れました。 なので、大阪部隊、関西部隊と定義するのが困難です。 だから、関西が特に強い、弱いはありません。 ただ、大阪編成の第104師団が、太平洋戦争中期頃に、 師団長が、陸軍省動員課に、補充担任を大阪から名古屋に変更を申し入れ、 受け入れられた事実があります。 これは師団長が個人的に、名古屋師団に思い入れがあり、 関西の兵には無いものを求めたからと、言われています。
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- maiko0333
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>表舞台 すでに回答が出ていますが、先陣を切るのも大事ですが、 本陣を守るのも大事かと思いますよ。
- oska2
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>鎌倉時代、2度に渡って元が日本に攻めてきました。 表向きは、「蒙古・元」が日本を攻めて来た事になっていますよね。 が、実際に攻めて来たのは高麗軍(現韓国軍)です。 ご存知の様に、高麗国王は「歴代中国皇帝に支配」を受けていましたからね。 そもそも、日本侵略を皇帝陛下に進言したのは高麗国王(忠烈王)なんです。 武具・食料・兵士・船は、全て高麗国が準備。先陣も、全て高麗軍です。 ※「高麗史」に記載。 もちろん、韓国の正しい歴史には記載がありませんが・・・。 ※李氏朝鮮時代に書かれた「星湖塞説」には「秀吉の朝鮮出兵は、高麗軍への復讐」と書いています。 事実は、高麗国による日本侵略です。 もちろん、「韓国の正しい歴史」には記載がありませんが・・・。 >関西の人たちが身体を張って日本国を守った歴史ってあるのでしょうか 先ず、蒙古(高麗軍)襲来の時。 関西の御家人は、「検非違使」などで京都の防衛・治安の任務にあたっていました。 高麗軍が瀬戸内海を進攻すると、京都は近いですからね。 他の関西・中四国の守護・地頭・御家人も、瀬戸内海沿岸で防備についています。 日清日露では、旧倒幕藩出身者が上官ですよね。 関西地区で、徹底的な倒幕藩は存在しません。 そもそも、大坂は幕府直轄地。京都は、禁裏です。 一般の兵士として、参戦しています。 まぁ、戦は「上官だけが戦ったのではなく、名も無い兵士が戦った」のです。 日露戦争でも、野木希助が優秀だったのではなく「突撃命令で、死を恐れず突撃・戦死した名も無い兵士」が存在したからですよね。 ロシア軍の砲撃に対して、5万人もの命が「無謀な突撃命令」で一瞬に消えました。 「この兵士は、どこの出身?」は、無意味な事だと思いますね。 そうそう。 軍人恩給を貰っている、旧日本陸軍・海軍の将校が居ますよね。 何故、戦地から生き延びているのでしようか? 名も無い多くの兵士は、戦場で亡くなっているのにね。
お礼
確かに、元軍の多くは高麗兵、南宋兵でしたが、古今東西戦争において宗主国が占領地の兵隊を多く使うのは常套手段でありました。高麗も30年以上に渡りモンゴル軍と戦いましたが、最後は済州島の地で朽ち果てました。これは井上靖の「風濤」を読むとよくわかります。高麗人はあくまでもフビライの傀儡でしかありません。したがって日本に攻めてきたのは高麗軍とするのは論理の飛躍ではないでしょうか。
- maiko0333
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喧嘩売ってる? 奈良時代、平安時代、鎌倉から江戸まで奈良と京都の都を守ったのは誰でしょうねぇ。
補足
日本国対外国の合戦ということで質問しています。外国との合戦で関西人がどれだけ表舞台に出てきたのか聞いているのです。
お礼
詳しいご回答ありがとうございました。 司馬遼太郎さんが、なぜ大阪の軍人は弱かったのか、それは、大阪人には権力には従いたくないという気質が備わっており、大本営の指示どおりにはなかなか動かなかったというようなことを言ってました。 ちなみに、今現在でも自衛隊員の多くは東北、関東、九州出身者が多く、関西人は少ないみたいですね。