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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:秀吉への嫉妬と差別)

戦国時代の武士社会と豊臣秀吉

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代の武士社会は上流の武士や武将の競争の世界であった
  • 豊臣秀吉はどこの馬の骨ともわからない人物でありながら、天下統一を成し遂げた
  • 豊臣秀吉に対して他の武士や武将からの嫉妬と差別があった可能性がある

質問者が選んだベストアンサー

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  • eroero4649
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回答No.2

1 はい。当時の人々は「身分」「血筋」というのがあって当然だと考えられていた時代でした。現代でも田舎にいくと「本家がどうの、分家がどうの」というのがありますよね。ああいうようなものです。本家は偉いし、分家が本家より目立つようなことはしてはいけない。 けれども、戦国時代というのはそれの身分が日本史の中でも一番崩れていた時代のひとつでもありました。鎌倉時代だともっとひどい。鎌倉幕府が成立できたのも、その頭領が源頼朝だったからです。絶対的に高貴な血筋である源氏の人が「集まれ」といったからみんな集まったのです。私は「鎌倉幕府は北条家の黒幕説」を支持していて、実力があったのは北条家だったのですが、北条家には「血統」がなかったのです。だから源頼朝という「絶対的な血統」を引っ張ってきた。鎌倉幕府成立後はもう血統の権威も不要になりましたから、頼朝は創業者であったにも関わらず「落馬して死んだ」という不可解なほどあっさりとした表現で死に、その後の息子たちもあああっという間に全員死んで北条執権政治の時代となります。 「血統の権威」は現代だって続いています。竹下亘氏や安倍晋三氏、鳩山由紀夫氏や小泉進次郎氏がゼロからの状態で選挙に出て勝てるでしょうか?竹下登の弟だから、安倍家や鳩山家、小泉家の息子だからなにも選挙活動をしなくても当選するのです。 もし島根2区からタレントのDAIGOさんが出馬したらどうなるでしょう?「竹下登の孫が立候補した」ですから、当然圧倒的に勝利することでしょう。 これは政治の世界に限った話ではなく、ビジネスの世界もあのトヨタを筆頭に社長は創業家の代々が継ぐところは少なくありません。 2 織田カンパニーは秀吉を輩出しただけあって、その出自に一切こだわらない完全実力主義です。今の大河の主人公である明智光秀の出自は今でもよく分かっていません。公家などの京都関連にかなり人脈を持っていたようですが、なぜ出自も分からない彼がそんな人脈を持っていたのかも不明です。ドラマでは、流浪の身のときなどに知己を得ていた、という設定になっています。 戦国武将としてはマイナーな存在の滝川一益も、全く身分不明のところから一軍の将となりました。 織田信長の家臣団では、林秀貞(林通勝)や柴田勝家らのほうが勤続年数からしても家柄からしても格上ですが、彼らより明智光秀や滝川一益のほうが後から入社して先に出世しています。林秀貞に至っては、織田信長の若かりし頃には筆頭家老の立場でありながら、24年も昔のミスを蒸し返されて追放されるという最後になっています。 また「戦国大名大出世レベル」からいえば毛利元就も地方の国人という現代なら小企業の部長くらいのレベルから日本トップクラスの大大名になりました。 藤堂高虎も、小領主の立場から何度も主人を変え、しかも主人を変える度にその新しい主人からの信頼を得てどんどん出世するというわらしべ長者な出世をしています。転職する度に年収も社会的立場も上がるってすごいですよね。現代社会でもそんなことはまずあり得ません。 3 そんなのは当然ありますけれど、平和な時代じゃないですから、もっと直接的な手段であったでしょう。しかし実力が必要とされていた時代でもありましたから、有能である限りはチャンスはどこかにあったと思います。つまり、ある家で優遇されなくても、他の家に仕官すればそこでチャンスがあったかもしれません。 現代人以上に、当時の武士たちはチャンスを求めて主人をころころ替えたのです。それは雇い主である戦国大名も「アイツはダメだね」と見限られたら容赦なく滅亡しました。武田勝頼がそうですね。勝頼は決して愚将でもなければ凡将でもありませんでしたが、過酷な戦国サバイバルレースに負けてしまったのであのような最後になりました。 4 秀吉が征夷大将軍でもなければ太政大臣でもなく関白になったのは、「それしかつかせてもらえなかった」というのが本当のところだと思います。公家や天皇家は、武士でもない秀吉に高い官位なんて与えたくなかったんですよ。当時のそういう身分の人たちからすれば、秀吉は「人間でもない」という立場です。そんなやつに高い身分なんて与えられないというわけです。 しかし秀吉はなんといっても天下人で、その権力は絶大です。田中角栄どころじゃありません。その絶大な実力をもってしても、「権威」を手に入れるのは苦労したのです。 ちなみに信長は、本能寺の変の直前といってもいいようなタイミングに、突然官位を返上して無官になるという行動をしています。官位がないと天皇と会うことはできないんですね(後に江戸時代に天皇にゾウを見せるためにゾウに官位が与えられたという有名な話があります)。だから朝廷は相当慌てて「いや、それだと天皇と会えなくなっちゃいますが」といいましたが、信長は「用事があるときは(官位がある)光秀とかを使うからいいよ」との返事でした。 慌てた、というよりもうほとんどパニックになったのでしょうね。朝廷は「関白、太政大臣、征夷大将軍。どれでもあげるから好きなのをとって」といいます。私が知る限り、「好きな官位を持って行け」といわれたのは織田信長だけじゃないかなと思います。家康でさえも本当は太政大臣が欲しかったという説もあるくらいですから。ところが信長はこの日本史上破格のオファーにも頑として応じませんでした。 私はこれが本能寺の変の原因のひとつになったのではないかと思っています。なぜなら、官位を貰うということは、天皇の家臣になるということです。しかし官位を返上するということは、天皇の家臣ではないということです。信長は敵対したり不要と思えば、勤続何十年の大番頭も追放し、将軍も追放し、比叡山も焼き討ちする男です。本能寺の変のときには、高野山も攻めていました。本能寺の変が起きたので高野山は九死に一生を得ましたが、あれがなければ高野山も灰燼に帰していた可能性がありました。そのくらい「何者をも怖れない男」です。天皇ですら・・・とは当然誰もが考えたのではないかなと思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 1 以前、「北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか???」という質問をしたのですが、その時には、今一はっきりとしませんでしたが、自学しているうちに、どうも「家柄」と「世襲」というものが日本社会に大きく立ちはだかっているのではないか???ということがうすうすわかってきました。 戦国時代というのはそれの身分が日本史の中でも一番崩れていた時代のひとつでもありました。……頭の中に入れておきます。 私は「鎌倉幕府は北条家の黒幕説」を支持していて、~~その後の息子たちもあああっという間に全員死んで北条執権政治の時代となります。……「なるほど」と素直にうなづける興味深い説だと思います。今度、鎌倉時代を読み直すとき、このことを念頭に置きながら考えてみます。まぁ、私が考えたからといって、新しい発見があるわけではありませんが。笑 「血統の権威」は現代だって続いています。~~ビジネスの世界もあのトヨタを筆頭に社長は創業家の代々が継ぐところは少なくありません。……私もその典型なのですが、何か、日本人って、「権威」に弱すぎるんじゃないか???という気がします。泣・笑 2 織田カンパニーは秀吉を輩出しただけあって、その出自に一切こだわらない完全実力主義です。……織田信長の「尊敬できる」ところだと思います。「実力主義」で部下を採用するというのは、尊敬はするけど、私のようなぬるま湯人生を送ってきた人間にはとても務まりません。「上司にしたくない人」のトップですね。笑 藤堂高虎も、小領主の立場から何度も主人を変え、しかも主人を変える度にその新しい主人からの信頼を得てどんどん出世するというわらしべ長者な出世をしています。……そうそう、忘れていました。「藤堂家」も、一度「馬の骨」まで(失礼)落ちてしまったのでしたよね。戦国時代というのは、人間模様の織り成す世界という観点からも奥が深すぎます。 3 現代人以上に、当時の武士たちはチャンスを求めて主人をころころ替えたのです。……平安時代の武士の誕生から、江戸時代の泰平を経て、維新の終焉まで、武士がどのように姿を変えたのか???興味深いです。「日本史」に取り組み始めるのが、もう10年、否、もう5年早かったらと。病院と仲良くしながらの現状では。泣 4 秀吉が征夷大将軍でもなければ太政大臣でもなく関白になったのは、「それしかつかせてもらえなかった」というのが本当のところだと思います。……そうなんですか。「征夷大将軍」は「源氏」でなければ、というのは何かで読んだ記憶がありますが、官位のことは、まったく理解していません。「官位の授与というのが、朝廷の権威のよりどころ」になっていたということですかねぇ。 公家や天皇家は、武士でもない秀吉に高い官位なんて与えたくなかったんですよ。当時のそういう身分の人たちからすれば、秀吉は「人間でもない」という立場です。そんなやつに高い身分なんて与えられないというわけです。……「いじめ」じゃないですか。それとも「パワハラ」……。秀吉にしてみれば、「武力でつぶそうと思えば潰せただろうに」……「天皇と朝廷の存在、そして時の権力者」、理屈は分かりませんが、ここにも、日本史の不思議があるような気がします。 ちなみに信長は、~~とは当然誰もが考えたのではないかなと思います。……興味深いご回答ありがとうございました。それにしても「ゾウに官位」とは、いやはや。笑笑笑

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  • cse_ri3
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回答No.3

回答の一部だけ。 1. 戦国時代の前の室町時代というは、戦乱に明け暮れた時代でした。 まあ、戦国時代を長くしたようなものですが、そこで争うのは将軍や守護大名たち、いわゆる上級武士です。 室町時代から戦国時代に切り替わったのは、私も正確な定義は覚えていません。 しかし、戦国時代からは、下級武士が上級武士の争いに加わる、いわゆる下克上が当たり前になった時代だと、捉えています。 織田家を例に挙げると、織田家はもともと守護大名たる斯波氏の下の守護代家でした。 もともt、越前に住んでいたのですが、斯波氏と一緒に朝倉氏に尾張に追い出されて、尾張に移り住んだのです。 その後、結果として斯波氏も追い出し、大名として自立します。 3. 当然、秀吉は文字通りの「馬の骨」ですから、家柄がしっかりした他の武士たちからは、嫉妬されています。 一時期、「羽柴」など、織田家の家老格である丹羽家と柴田家の一文字ずつをもらった苗字を名乗るのも、少しでも嫉妬よけの効果を期待しての行動かと思います。 4. 先の「羽柴」の例もありますが、他には佐々成正の敵対行動ですかね。 佐々成正は、柴田勝家の与力として秀吉に敵対し、柴田勝家滅亡後も秀吉に降伏せず、極寒の中、徳川家康と同盟を結ぶために冬の富山から三河まで行軍したりしています。 ここまでした理由を、「秀吉への嫉妬」以外に見出すのは難しいかと。 佐々家も織田家の中では、由緒正しい上級武士です。 まあ、結局秀吉に降伏し、肥後に移動した後の内政の失敗で腹を切る羽目になりましたが。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 室町時代から戦国時代に切り替わったのは、私も正確な定義は覚えていません。……質問とは関係ないのですが、「室町時代から戦国時代に切り替わった」時期について、定義なんてあったのでしょうか???私は「日本史好き」の素人なんで、そのへんのところは分かりませんが、自分なりには、応仁の乱から義昭の追放までを、戦国時代として、作成する資料などを整理することにしています。まぁ、鎌倉時代だって、何時からが始まりなのか、偉い学者先生方でも諸説あるようですから、自分の覚えやすいところで区切ることにしています。笑 そもそも時代区分に意味があるのか???という気もしないではないのですが。便宜的なものじゃないかと。 3.一時期、「羽柴」など、織田家の家老格である丹羽家と柴田家の一文字ずつをもらった苗字を名乗るのも、少しでも嫉妬よけの効果を期待しての行動かと思います。……なるほど、そういうことだったんですか。わかります。特に「柴田勝家」からの風当たりは強かったのではないかと想像していたのですが。つい「嫉妬」と書いてしまったのですが、質問を投稿した後から、「嫉妬」というのは、同等のものに対して抱く感情ではないか、柴田勝家や丹羽長秀なんかは、そもそも藤吉郎を「同等」とみなしていなかったのではないか???という疑問が生じてきて、それじゃどんな感情を抱いていたのだろうか???と……そもそも知識がないので考えが堂々巡りしているところです。佐々成正のことにしても、単純に「嫉妬」とか「差別」なんてことでは片づけられない感情の複雑なものがあったのではと。 4.他には佐々成正の敵対行動ですかね。~~まあ、結局秀吉に降伏し、肥後に移動した後の内政の失敗で腹を切る羽目になりましたが。……まったく知りませんでした。興味深いです。少し調べてみます。歴史って奥が深いですね。

  • gunsin
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回答No.1

伊勢 宗瑞(北条早雲)、大河ドラマで取り上げるべき人物です。 只、最近では、素上の解らぬ人物から、足利将軍家の重臣伊勢氏の 出で有る事が、解って来ましたが。 家康が江戸の街造りに、小田原の街造りを参考にしたと、言われてます。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 伊勢 宗瑞(北条早雲)、大河ドラマで取り上げるべき人物です。……同感です。高齢化社会の日本にとって、高齢者の活躍というのは、励みになるのではないでしょうか。笑 もう、NHKの大河ドラマも、「女城主直虎」を除いて、もう10年以上観ていませんが、司馬遼太郎の「箱根の坂」をドラマ化してくれれば、観ると思います。 最近では、素上の解らぬ人物から、足利将軍家の重臣伊勢氏の 出で有る事が、解って来ましたが。……そうですね。戦国をのし上がる並外れた能力は持っていたと思いますが、むしろエリート中のエリートだったかも。 家康が江戸の街造りに、小田原の街造りを参考にしたと、言われてます。……「小田原」を避けながらも、「小田原」のどんなところを参考にしたのか、興味深いですね。

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