- 締切済み
何も否定しない
みなさんは何も否定しない生き方は可能だと思いますか? 何も否定しないようにしなければと思うときがあるのですが、好き嫌いを消せるわけでもなく、なかなか難しいです。 意見を聞かせてください。
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
みんなの回答
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
ext1219様、こんにちは。 「生き方」と問われると、どうでしょうか。 理屈ではもう、そりゃもう、 「何があっても、驚きはしない」ってくらい、アリです ・・・反省を込めて。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
『どのような人物や書物、宗派を参考にされているのか是非お聞きしたいです。よろしくお願いします。』と質問されたのでお答えします。 14歳の時『死に対する恐怖症になりました、』ノイローゼになったことです、そうして28歳の時神経症の解決のために、入院森田療法を鈴木知順診療所で2ヶ月間受けました。先生が講話の時間に聞かせてくれた話は、主に”道に至る事”に要約されます。 つまり『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』という事が言いたかったのだと思います。禅宗の話や剣道の極意の話や、弓道の話などを通して、人間の心の究極の姿を教えたかったものと思います。 その当時では、まったくもって人生そのものを『漠然と不安を持って眺めていた私には』先生の話はとても理解できる世界ではなかったと思います。ですが先生は『今は分からないと思うが、分かる時が来たらぴたりとわかるから、分からなくとも良いから聴いておく様に、』という言葉から始まっていました。 入院生活の中で、先生の本棚に”鈴木大拙全集”と言う有り難そうな本が置いてありました、退院してから『鈴木大拙博士』の本を買って、少しずつ読むようにしていました。 退院してから4年後の事、玄関で靴を揃えていた時の事です『自分が、自分の、無意識の意識』に出会う体験がありました。 この体験で『ノイローゼになった事も,治った事も忘れ果てて』今に至ります。鈴木大拙博士の本は今でも暇がある時には読んでいます。ハワイなど遊びに行く時にも何時も持ち歩いています。 禅は精神衛生には良い、と欧米でも知られています。禅が生まれたインドでも、禅が発展した中国でも今から60年も前に鈴木大拙博士はなくなっていると書いていますが、歴史を紐解くと、遣唐使や遣隋使などを中止した頃に、もうその兆しがあったようです。 もう中国から学ぶものが無くなった、という事で廃止されたようです。 禅を学ぶ事は、自分自身を学ぶ事です、自分自身を学ぶ事は、人生そのものを学ぶ事ですので、大いに人生そのものを前進させる効果があると思いますが、禅そのものの効用は『無功徳』を学ぶ事を意味しますので、『自分の心の矛盾の解消』という意味があります。 捨てる事で、自分の手元に残ると言った、訳の分からない事が分かるようになります。自分が何者か?や自分は何処から来て、又何処に行くのか?といった疑問も全て解消しますので、『精神衛生には良い』ことは間違いないと思います。
お礼
ありがとうございます。 僕も、行っていた塾の先生から、秋月龍珉の一日一善を勧められていましたから、鈴木大拙や白隠禅師のことは知っていました。あと、テレビで良寛を知り、興味を持っていました。 また、禅のことも調べさせていただきますね。 ありがとうございました。
- majimemaru
- ベストアンサー率25% (32/128)
その物事や意見に否定的な感情を抱かない場合の多くは、それが「無関心な事」だったり「なんにも愛着のない事柄」の場合が大半です。 あらゆるものに、否定的な感情をわかない人は、あらゆるものに関心や愛を感じない人です。
補足
回答ありがとうございます。 否定するにも、心の中で様々な段階がありますね。「抱く」というと最初の段階になりますでしょうか。 これは何らかの学術的見地からの発言でしょうか。そうであれば、何を参考になさったのか、是非教えてください。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
『何も否定しない』という意味は、全肯定という意味です。全肯定という意味は『絶対肯定』という意味です。此処の処が分かるなら貴方は『自分の人生そのものを全て肯定する立場』禅で言う処の悟る、或いは見性体験をしたという意味になります。 人間が他の動物や生き物と違う点は、人間には(信じる事が出来ないとしても)心が二つあるからです。一つの心は他の生き物と同じで、生命を全うするために働く心です。この心は『働き』=『命の働き』と考えると分り易いと思います。 此の『命の働き』は、命在る者には全て備わっている働き、つまり『仏性』キリスト教に於いては『神』と呼ばれる存在です。分り難いと思うかも知れませんが、簡単な説明で納得出来ます。 この働きは植物でも細菌でもウイルスでも持っています。もちろん昆虫でも動物でも持っています。ましてや人間なら尚更です。この働きの意思が仏性です。 もっと分かり易く説明するなら、『生命発生装置兼、生命維持機能』という機能という意味です。全ての生命在る者は『学ぶ事無く、全てを備えて生命維持機能を働かせている』という意味です。 この意味は『命在る全てのものは、その種の特性を持たされて生命維持活動を行っている。』という程の意味です。例えて言うなら桜ならその桜の特性を全て、既知の事として、葉の色から形まで、或いは花の色から匂いまで、或いは季節毎の変化する時まで知り尽くして、生命維持機能を働かせている。』という意味です。 クマでも蜘蛛でも蟻でもライオンでも同じです。こう云った命あるものに備わった機能が『仏性や神』です。つまり『在りてある者』という意味です。『一切衆生悉有仏性』の法則というか、原理というか法というか、つまり自分自身の中にそう言った『命を働かせていた人格に目覚めた人』がお釈迦様、という事だと思います。 西洋では、キリストという事です。あるいはキリスト教の前身ではユダヤ教という事になります。 こう云った元々備わっている働きとの、衝突(対立)や矛盾や分裂が昔から人間の苦しみとなってきた歴史が『宗教文化の発展の原動力』になっています。 人間の最大の危機は『死』です、他人の死ではなくて『自分自身の死』という意味です。この最大の『心の危機』が人間を悩ませてきたという側面が『宗教文化の発展を促して来た事』は歴史が証明しています。 釈迦が実現した『自分自身の仏性との対面』を詳しく述べる事は他の人達に譲るとして、同じような体験をした人が、熱く語っている動画がありますので参考にして下さい、動画の後に脳科学がこれまでにかけて研究した、人間の脳の機能的な違いを紹介します。 動画です。URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 過去になりましたが、人間の脳内に、二つの人格(機能の違う人格)が存在している事が証明された記念すべき研究成果です。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳』 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” 禅では、見性体験をした事を『生死の問題が解決する』と表現します。この意味は死を怖く思って必要以上に恐怖感を抱く現象『死に対する恐怖症』つまりノイローゼの解消という意味があります。 ノイローゼの意味は『頭の中で描く世界観が著しく、現実と相違してしまってしまって、現実を認める事が出来なくなって、頭の中の世界観を現実と勘違いしてしまう現象』と表現出来ます。 ノイローゼの解消した姿は『頭の中で描く世界観と、現実の世界感が一致する』という意味です。この一致した世界感を『あるがまま』と表現します。 その世界感とは『死であっても全て肯定して受け取る』という意味です。こうなった時死の淵にいたとしても「笑いながら全て受け入れて、肯定した事』を意味します。人間の苦しみとは『在りもしない救いを求めていた事』を意味します。絶対肯定の足場に立った時』心は乱される事がなくなるという意味です。 この静まり返った境涯を涅槃寂静と言っています。つまり心の矛盾が解消した姿です。大人の嬰児という意味です、キリスト者では『幼子』と表現します。脳の機能が分化する前の状態、『心が一つの者として機能している』という意味です。
補足
申し訳ないのですが、僕の「何も否定しない」は「全て肯定、是認する」とは一致しません。ただ「何も否定しない」なのです。 あなたの話はとても興味深いです。どのような人物や書物、宗派を参考にされているのか是非お聞きしたいです。よろしくお願いします。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#4の者です。 >分業化により相互依存が深まった時代 (現代?) でも、 >同等の機能を持つものは競い合っていると思ったのですが、 「現代でも」決定的に「相互依存が深まって」いないものが あります。 人の意識です。 実質的には助け合って(社会生命として生きる事=生命と して根源的な意志)いながら、個々人の意識は目先のお金を もらうためにイヤイヤ働かされる=お金を儲けて他人を使役し、 自分は働かずに済まそうとする(=死んでいるのと同然)。 当然、弱肉強食の擬似ジャングルとなる。 また、「同等の機能を持つものは競い合う」というのは、分業化 が未熟だという事であり、多様性や地域性において、適材適所 が完成する時、競合は互いの除去へのチャレンジではなく、 より自己の可能性を発揮する方向(互いを更に発揮させる) でのチャレンジになる。 もともと独立して自然界で「同等の機能」を持って生存競争して いた単細胞生物が、分業化して多細胞生物になった人体に おいて、足の筋細胞と手の筋細胞が「同等の機能」だからと いって競合しはしない。 >「どちらに対しても肯定的である事は~双方を肯定する事は、 >実質的に肯定していない事だから」の部分は主観的事実と >いうことでよろしいですか? 分業化とは助ける事である以上、戦っている双方を助ける事は、 双方を攻撃する事と同じだ(死の商人)。 前の書き込みで「よほど分業化による相互依存が深まってい ない限り」と書いたのは、まだまだ真の相互依存にはほど遠い という意味だ・・・・・今さら「集団的自衛権」で討って出ようという ぐらいだから。
お礼
補足で改めて尋ねました質問へのご回答は、いずれまた関連する質問を出した際、よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。
補足
>『「現代でも」決定的に「相互依存が深まって」いないものがあります。人の意識です。』 理解できます。 >>『「同等の機能を持つものは競い合う」というのは、分業化が未熟だ~~~より自己の可能性を発揮する方向(互いを更に発揮させる)でのチャレンジになる。』 この部分がいまいちしっくり来ません。 >『「同等の機能を持つものは競い合う」 というのは、分業化が未熟だという 事。』 僕が普段断定的にならないようにしてい るからか、このような言い方をされると 少し混乱してしまいます。何度も聞き直 してしまい、すみません。 確認しますが、これは大学の授業などで も教えられるようなことで、何かある種 の絶対的指針のようなものなのでしょう か。どうか教えてください。 >『多様性や地域性において、適材適所が 完成する時、競合は互いの除去へのチャ レンジではなく、より自己の可能性を発 揮する方向(互いを更に発揮させる)で のチャレンジになる。』 つまり、現代より、資本主義らしい資本 主義が出来上がる前の時代 (広く言って戦 後、高度経済成長期あたりまでのことを 想定) のほうが、店などがより自己の可能 性を発揮するような方向を向いていたと お考えだということでよろしいですか? しかし、ここで僕は、多様性はともか く、地域性が低く適材適所が上手く成立 しているとは言い難い (少なくとも僕に は) 今の社会においても、自己の可能性を 探求し続ける企業は多くあるだろうと思 ってしまったのです。だから、互いの貶 めあいに走るか切磋琢磨に走るかは、上 に書かれたような諸条件にのみ依存する わけではないのではないかと感じたので す。いかがでしょうか。 >『分業化とは助ける事である以上、戦っている双方を助ける事は、双方を攻撃する事と同じだ(死の商人)。~~~今さら「集団的自衛権」で討って出ようというぐらいだから。』 なるほど、わかりました。 ですが、僕は「何も否定しない以上、全て肯定、是認する」というわけではなくて、 中立的な立場のような存在も想定していました。断定的で差別的で盲目的であるのがあまり好きでないのです。 運営さん、たくさん聞き返すかもしれませんが、消さないで。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
追伸です。 「何も足さない、何も引かない」という某CMのフレーズが浮かびました。 「何も否定しない」について、なんとなく感じた感覚です。 瞑想すればそういう心境になれるかも…。
お礼
ありがとうございます。 気が向いたら、その文句を頭に入れて瞑想してみますw
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
このテーマは、私の課題でもあります。だけど本当に難しい。これができたら「神」ですね。 何も否定しなくなってしまったら欺瞞になっていまいます。 この世は混沌です。 混沌の世界にいる限り、難しいです。しかもこの、あらゆる暴力が横行している世の中では。 否定や肯定というのは、思考したことの結果ですから、考え方を変えればよい。 でもそれには感情のコントロールも必要です。 ある人にマイナス感情があるから、その人の考え方も否定したくなるし、その逆もまた然り。 好悪と否定肯定は同じものに連動しますから、まず感情ありきでしょう。 私は何にでも白黒つけたい人でした。また、過剰な一般化をする傾向しましたが、最近弱くなってきました。不条理を懸命に否定し続けた限界がきたのでしょうか。 カオスを認めようと、アタマで理解したら、この強迫観念が薄くなってきました。混沌の中に混沌ありき。 でも人と会うとやっぱり感情が揺さぶられる。感情は喜怒哀楽という混沌よりシンプルなものです。それによって左右されるのはなんか面白いです。でも止めるのは不可能です。感情は身を守る動物の本能のひとつですから、これをなくしたら「神」ですね。 結論的には、否定の上に否定を重ねる。すると、逆説的に肯定(長所)もみえてくる。つまり、徹底的に観察し、分析するということでしょうか…何も否定しない生き方、生きるのが下手な私も知りたいです。
お礼
ありがとうございます。 似た人がいて、うれしいです。 僕の場合、このことを追及し、これを達成すれば神になれるのか否かについてもたまに考えます。 あなたの意見も参考にさせていただきます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんばんは。 もっともずるくて便利で 聞くと 何だ この野郎! と思わず怒ってしまうようなこたえがあります。 ひと と 思想・行動 とを分ければよいのです。 存在 と 行為 とを分けます。 人格 と 心的現象 とを分けます。 これらの前者については けっして否定しない。肯定する。 後者については 自分の考えをそのまま 肯定にしろ否定にしろ いつわりなく述べます。 態度や振る舞いについては――これらは 後者群ですから―― 《好き嫌い》を 隠しません。ただし むやみに何が何でも明るみに出すということも必要ないように思います。
お礼
hitonomichiさんとあなたはおかしな人だと思っていましたが、興味深い答えをいただき、驚いています。またあなたの言葉についても考えてみます。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
よほど分業化による相互依存が深まっていない限り、 同等の機能を持つものは競合し、互いに否定的に なる以上、そうして互いに否定しているものに対して、 どちらに対しても肯定的である事は、双方への裏切り である。 両立しない双方を否定する事は可能だが、双方を 肯定する事は、実質的に肯定していない事だから。
補足
混乱したので、確認させてください。 分業化により相互依存が深まった時代 (現代?) でも、同等の機能を持つものは競い合っていると思ったのですが、違いますか? また、「どちらに対しても肯定的である事は~双方を肯定する事は、実質的に肯定していない事だから。」の部分は主観的事実ということでよろしいですか?
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
基本は肯定ですね。 全てを全面的に手放しで肯定ではないです。 何をどのように、どの部分をどれだけ肯定するか。 詳細まで明確にしないとできないので、簡単ではないですが。 頭から全否定は無いですね。 どうしても最後に肯定出来ないものは、私が選ぶものを 他者が選んで押し付ける時ぐらいですね。 ですから他者にも提案や選択肢までで留めるように心がけています。 必ずしも上手くできてるかは別問題ですけど。
お礼
ありがとうございました。 参考にさせていただきます。
- 1
- 2
お礼
すみませんが、よく分かりませんでした(*_*) また機会があれば、kurinal様からのご回答をお待ちしております。 ありがとうございました。